5.5(S)

彼女はさっとその顔色を変えて私に駆け寄った。

「……何かあった?」

そうしてすっかり、私の心を見抜いてしまうのだ。この少女には敵わない。私はクスクスと笑いながら「なんでもないよ」と見え透いた嘘を吐いてみせる。
そう、彼女に敵う筈がなかったのだ。いくら私が多くを欲張ったところで、いくら死などという、大きすぎる武器を手に取ったとして、彼女の前では無意味だったのだ。

シアは私がチャンピオンになってもならなくても、世界を救おうと救うまいと、変わらない。
彼女はいつだって私を認めてくれる。彼女はいつまでも私の親友でいてくれる。
彼女は私がどう在ろうと、何をしようと、変わらない。今までも、そしてこれからも、ずっと。

カフェリテイクはあの日以来、私とシアの待ち合わせ場所になっていた。
温かいコーヒーを注文して、一番奥のテーブルで話をした。時にはミアレの町を一緒に回ることもあったけれど、大抵の場合、彼女との会話は此処で為されていたのだ。
全ての人との連絡を絶った私にとって、この時間は「例外」だった。シアだけが、私の作った世界の外にいた。それが、私の示せる彼女への最大の敬意だった。

「今日、シアを呼んだのはね、聞いてほしいことがあったからなの」

私はそう切り出した。シアは少しだけ驚いたように目を見開いたけれど、直ぐにぱっと笑顔になって「何?」と聞き返してくれる。
彼女は、頼み事や相談を疎ましがらない。寧ろ積極的に話を聞いたり、手を貸したりしてくれる。そうした彼女の態度を私は尊敬し、また、そんな彼女に甘えていた。

フラダリカフェを拠点に、子供のポケモントレーナーを支援する活動をしたい。
そんな私の話を、シアは真剣に聞いてくれた。
このカロスに、最後まで「シェリー」として溶け込むことのできなかった私が、そんな支援をしたいと言い出したことを、私は自分のことながら滑稽だと思っていた。
けれど、彼女は笑わなかった。机上の空論だと呆れることも、経営の仕方も指導の方法も知らない貴方にできる筈がないと否定することもしなかった。
ただ最後まで、私の目を覗き込むようにして、私の言葉をずっと聞いていてくれたのだ。その事実にくらくらと歓喜の眩暈がした。
ポケモントレーナーを支援する活動などできなくとも、今、こうして私の戯言に耳を傾けてくれる親友がいてくれるのなら、他には何も要らないのではないかとさえ思えたのだ。

「そうと決まったら、先ずはあのカフェの壁を塗り替えないとね」

「え、赤じゃ駄目なの?」

「感情を昂らせる色だから、子供にはあまりよくないかな。ベージュとか、灰色とか、薄くて主張の少ない色の方がいいんじゃないかな」

他にも、シアはその、深い海のような目を輝かせて、色んなことを話してくれた。
私は彼女の言葉に相槌を打ち、彼女がイッシュの言葉でその内容をノートの切れ端にメモしてくれているのを、ただじっと見つめていた。

子供のポケモントレーナーにこの場所を知ってもらうために、ポケモン研究所と連携を取った方が上手くいくと思うの。
プラターヌ博士には、私が連絡を入れておくね。プラズマ団の支部だということにしておけば、偽名を使っているシェリーやフラダリさんも動きやすいでしょう?
ポケモンの生態のことや、バトルのことで解らないことがあったら、いつでも連絡して。必要なら本も貸すし、私がカロスに来て教えることだってできるから。

次々と予定を紙に書き込むシアに、私は思わず微笑んでいた。
ただ漠然とした夢でしかなかった私の言葉が、シアに告げたその瞬間から、明確な未来となって形を持ち始めたのだ。
その恐ろしいまでに急激な世界の変化があまりにも眩しかった。ああ、シアはこんな世界でずっと生きてきたのだと思い知り、目を細めた。

「どうしてそこまでしてくれるの?私はシアに何もしてあげられていないのに、どうしてシアはそんなにも多くのものを私にくれるの?」

その言葉に彼女のペンが止まった。
顔を上げたシアは、その海のような目に私を映してふわりと笑う。

「私がシェリーに何を貰ったか、それはどうでもいいことなんだよ。貰ったものとあげたものを天秤にかける必要なんてないの」

「どうして?」

だって、と続けられた言葉は、彼女らしくない幼稚で簡潔な言葉で、しかし彼女の想いの全てなのだと私は確信することができた。

「私がシェリーの親友でいたいんだもの」

あまりにも眩しいその言葉が、彼女へ向けるべき私の視線を奪った。私は俯き、両手を強く握り締めた。
握った手から血が出るのではないかと思う程に、強く。
けれど彼女の、シアのあの夜の痛みはこんなものではなかったのだろう。私は最低な人間だった。気付いた時には何もかもが遅すぎた。

「だから、シェリーの望んでいることに手を貸したい、シェリーに喜んでほしいって思うのは、普通のことなんじゃないかな」

「……」

「ね、だからシェリーが後ろめたく思う必要も、私がシェリーにした分だけ、何かを返さなくちゃって焦る必要もないんだよ。
だって私は、シェリーシェリーのまま、生きていてくれるだけでいいんだから」

私は、この優しい彼女の、ささやかな願いを叶えてあげることすらできない。
それでもいいよ、と声が聞こえた気がした。それが私の都合のいい頭が響かせた幻聴だったとして、それでもよかったのだ。
私は私よりも、この少女のことを信じていたからだ。だって、やはり彼女の方が正しかったのだから。私の愚かな選択は、私すらも幸福にすることができなかったのだから。
私は、1年前の愚かな行為を悔い始めていたのだから。

「ねえ、シア。1年前の夜のことを覚えている?」

顔を上げ、縋るようにシアを見つめた。
彼女は少しだけ驚いたような表情をしたけれど、直ぐに首を傾げて「覚えているよ」と優しく返ってきた。

シアがこのカフェに来るまで、私、ミアレの街を歩いていたの。ローラーシューズでアスファルトを蹴って、ガレットを食べて、色んな人と話をしたの。
私がシェリーとして見られていない。それだけで、とても楽に息ができたの。とても、楽しかったの」

シェリー」を捨てて、私は自由になったつもりでいた。
カロスが私をシェリーだと認識しない。その事実は私の息苦しさを呆気なく奪い去っていったのだ。
シェリーを捨てるだけで、こんなにも幸せになれる。私はそのことを噛み締めて、楽しく毎日を過ごしていた筈だった。

けれど違った。私が捨てた「シェリーの生」は、「死」へと形相を変えて私の足元をそわそわと這いずり回り、今か今かと大口を開けて待ち構えていたのだ。
死は美しい形をしていなかった。醜く腐敗したカサブランカの花が脳裏を掠めて、私は勢いよく頭を振ることでそれを追い払おうとした。
けれど、できなかった。「次はお前の番だ」と囁かれている気がしたのだ。
それが私の選んだことだと、解っている。解っている、のに。

「……今は?」

私は何も言わずにただ、微笑んだ。
どうしても言葉にすることの許されない後悔を、こんな形でしか出すことのできない私は、どこまでも卑怯で矮小な人間だと思った。

シェリー、私は今、貴方が「助けて」と言ってくれたなら、直ぐにでも貴方を助けるために動くことのできるだけの用意と覚悟があるんだよ」

「!」

「覚えておいてね。私はいつだってシェリーの味方だからね」

縋るようにシアは私を見つめていた。
後は私が「助けて」と求めるだけでいい。彼女のその言葉に嘘はないのだろう。
事実、彼女は私が今ここで頷けば、それこそ全てを捨ててでも私を助けるために動いてくれるだろう。
彼女が持っている全ての力を駆使して、私に巣食っている死の影を取り払う為に、寝る間も惜しんで走り回ってくれる筈だ。
それはとても有難いことであると知っていた。けれどもそれは同時に、私の立てていた計画が、私の命を懸けた思いが、全て無に帰してしまうことを意味していたのだ。

シェリー、今は楽しい?」

ねえ、シア。私は死ぬことを選ばなくても、生きられたのかな?
シェリー」を捨てなくても、笑っていられたのかな?
そういう生き方を、望めば貴方は教えてくれたのかな?
私は、死ななくてもよかったのかな?

「……楽しいよ。あの日があったから、私はこうして笑っていられる」

……それでも、これが私の選択だった。愚かな私が為した、最低の、誰も幸せにすることのできない選択だった。
息をするように嘘を吐く私を、彼女は笑って許した。

またね、と言い合って、日付が変わる頃にシアと別れた。先に立ち去るのはいつだって私だった。
アスファルトを駆けていた私は振り返り、カフェの前で私を見送っている彼女に手を振った。彼女も大きく振り返してくれた。

解っている。
別れ際にシアが泣きそうな顔をすることも、それでいて優しく笑ってみせることも、私は全て解っている。
彼女も、私のこの笑顔が張りぼてであることをきっと知っている。私がシアと別れた後、決まって路地裏に飛び込み、大声で泣いていることも解っている。
こんな私を、こんな私が望んだ結末を、彼女は尊重してくれる。私を、大切にしてくれる。

だから私も最期まで、私に誇れる私で在ろう。
そのためにできることを私は探し始めていた。目蓋の裏で赤いカサブランカが枯れていた。


2015.6.27

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