6.5(S)

夜のセキタイタウンは驚く程に静かだった。
この地下に埋められた花が開いたあの日から、4年が経とうとしていた日のことだった。
1か月に一度、AZさんに手紙を託しにやって来る他に、この町に立ち寄る用事などなかった。少しずつあの日のことを忘れていくこの町を、私は穏やかな心地で見ていた。

忘れられることは幸せなことだ。けれど同時に、恐ろしいことだ。
私は忘れられたくなかった。私は愛されたかった。だから最も残酷な方法を使って、皆の前から姿を消し、「シェリー」を捨てた。
きっと、皆は私のことをずっと忘れないだろう。カロスを救った英雄として、私の名前は語り継がれていく筈だ。
事実、そうなっている。この町で「シェリー」を知らない者はいない。そして、私が「シェリー」であることを知っている者もまた、たった二人の他にはいない。
それは私の望んだことである筈だった。その事実に、「シェリー」が誰からも忘れ去られていないという事実に、歓喜して然るべきである筈だった。

けれどそれは幻想だった。私を待ち構えていた「死」は、私が心から望んだその現象は、とても残酷で恐ろしい色を孕んでいたのだ。
死を待ち望んでいられたのは、幻想に溺れている間だけだった。死というものが持つもう一つの側面を知ってしまったあの日から、私は自分の選択を悔いて生きてきた。
死にたくないと駄々を捏ねるように泣いていた。あのカサブランカのようになってしまうことがどうしようもなく恐ろしかった。

けれど時は過ぎる。私が悔いようと泣き喚こうと、時計の針は寸分の狂いもなく進んでいく。
フラダリさんが私にカサブランカの花束を贈ってくれた日から、もう3年が経とうとしていた。
その3年間は、私に自らの行いを受け入れるだけの覚悟と勇気をくれた。残された短い時間をより良いものにするための猶予をくれた。
私はその時間を使い、毎日を懸命に生きていた。この3年間は、言い表せない程に幸せだった。

あのカフェに子供達を招き、ポケモンのことや旅のことを教えた。フラダリさんも協力してくれた。シアも親身になって相談に乗ってくれた。
私はシアの名前を借り、「シェリー」ではない人間として生きていた。
夢のような時間だった。「シェリー」を捨てずとも手に入れられた幸福であったのかもしれないけれど、それでもよかった。
それを悔い続けることに、もう私は疲れてしまっていた。それにそうした後悔を忘れそうになる程に、あの場所での時間は楽しかった。あの町は私に沢山のものをくれた。
私はもう、十分に生きたのだと信じられた。

だから私は、最後に、私にしかできないことをしてみようと思ったのだ。

『やはりあの花がある限り、人は同じ過ちを繰り返してしまうのだな。』
『それじゃあ、壊してしまいましょうか?』
4年前のあの遣り取りを、AZさんの憂いに被せるように紡いだあの言葉を、現実のものとする時がやって来たのだ。

セキタイタウンの北西にある古代の遺跡の前で、私はボールからイベルタルを出し、技を指示した。
強力な光線が遺跡を粉々に砕き、無機質な金属の扉が姿を現した。あまりにも懐かしくて私は息を飲んだ。
フレア団の男性を追ってこのエレベーターに飛び込んだあの日のことは、今でもはっきりと思い出せる。忘れない。忘れられる筈がなかった。

持ってきていたスコップを使って、扉をこじ開けた。イベルタルを戻し、代わりにサーナイトを出した。
10万ボルトでエレベーターに電力を送り、地下へと下りた。真っ暗な空間を懐中電灯で照らしながら私は歩いた。
機械の類は全て壊れていて、使えそうになかった。倒れた椅子や千切れたコンセントに足を引っ掛けて何度も転んだ。
岩や瓦礫、土砂で塞がったところは、スコップを使ったり、サーナイトにムーンフォースを飛ばしてもらったりして道を開けた。

『一つしかないものは分け合えない。分け合えないものは奪い合う。奪い合えば足りなくなる。』
『守る強さ……か。だが君は何を守るのだ?今日よりも悪くなる明日か?』

彼の伏せられた青い目を、愁いを帯びたその言葉を思い出した。
彼は、この世界を愛せるようになったのかしら。今日よりも悪くなる明日を、悪くなることばかりではない明日を認められるようになったのかしら。
そうした大切な話を、私は敢えて彼と交わさずに過ごしてきた。
私の隠し事はあまりにも多すぎて、それらを告白しないままに、彼の思いばかりを聞き出すことは少し狡いことのように思えたからだ。
それに言葉などなくとも、あの時間は幸せだった。彼にとってもそうだったのだと思い上がっていた。この傲慢が真実であると確信していた。私達はそうした距離にいたのだ。

私は懐中電灯をしっかりと握り直して、更に地下へと進んだ。きっともう少ししたら、鉄の重たい扉が見えてくる筈だ。

『貴方が壊せないのなら、私が壊しましょうか?』
私はあの花を壊すことにした。

……今の私は、あの花の恐ろしさを知っている。
下手に力を加えれば、無事では済まないかもしれないと解っていた。もし何事もなく破壊できたとして、私の身体に何らかの影響があることは明白だった。
あの美しい花は、毒の花だ。だからこそ、この事件から4年が経とうとしている今でも、カロスの人々はこの場所に踏み入ろうとしないのだ。

その花の脅威を私は理解している。それでも、こうすることを選んだのだ。
これは私にしかできないことであるような気がしていた。だって私の命はあと、きっと数えるほどしかないのだ。
今更、この花の脅威を身に受けて、どんな悪影響があったとしても、構わない。死ぬのが少し早くなるだけ。それなら、別にいい気がした。
何より私がそれを望んでいるのだ。誰が私を止められるというのだろう?

どのみち、私は罪を犯したのだ。私を大切だとしてくれる全てを裏切り、私は甘美な幻想へと飛び込んだ。
償うことのできない罪だった。何もかもが遅すぎた。だから、私はこの花を手に掛けるためにこの場所へやって来たのだ。


私の罪を貫いてみせようと思った。そうして私は初めて、私に誇れる存在となれる気がした。


サーナイトをボールに仕舞った。鞄を地面に置いて、ポケモン達に此処で待っているように告げた。
ヘルメットを被り、スコップとピッケルを持って鉄の扉の前に立った。
体重を強く掛けることでようやく開いたその隙間から、滑り込むように足を踏み入れた。歪んでいたその扉は、私が引かずとも自然に閉じた。
大丈夫、上手くやれる。この重たい鉄の扉が、私のポケモン達を守ってくれる。馬鹿げた行為で無駄に命を削るのは、私だけでいい。私だけがいい。
そんな倒錯的な思考を巡らせながら、私は大きすぎる花に歩み寄った。

フラダリさんを探すためにやって来た時には眩しすぎる程の光を湛えていた筈のその花弁は、今ではもう光を湛えていない。
唯一、中央にある青い球体だけが、闇に溶けてしまいそうな程の淡い光を放っていた。
私はその花に向かって、勢いよくピッケルを振りかぶった。

お願いします。どうか壊れてくれますように。

彼のような過ちを、私のような過ちを、繰り返す人間がもう二度と現れませんように。

散らない花弁はないのだと、枯れない花はないのだと、私の手で、知らしめることができますように。

私の罪を、私に残された命を、この場所に残していけますように。

少しずつその球体にひびを入れた。休みながらピッケルを振り下ろし続けた。
その花が眩しく瞬く度に、私の心臓は締め付けられるように強く痛んだ。
生き物の命をエネルギーとして動くこの花が、生きるための力を欲するように、私の身体をじりじりと焼いた。
分厚いコートを着ていても、その肌の粟立つ感覚は防ぐことなどできなかった。けれど構わなかった。全て、解っていたことなのだから。

その球体が割れてからも、下に備え付けられていた機械は小さな爆発を繰り返し、何度も私を吹き飛ばした。
ヘルメットを被っていなければ、今頃、頭から出血していたことだろう。ミアレシティで買っておいてよかった。
今ではもう顔なじみになった、日曜大工店のスタッフの顔を思い浮かべながら、私はピッケルとスコップを交互に使ってその機械を大胆に壊していった。

飽きる程にそれらの動作を行い続け、数時間が経過した頃、私は我に返ったように手を止め、懐中電灯で足元を照らした。

粉々になってしまった毒の花。原形を留めていないくらいにバラバラになった機械。じりじりと焼ける命の音。
光を浴びすぎて焼けそうに熱くなった目。酷使し過ぎて痺れている両手。破裂しそうな程に高く鳴り響いている心臓。
その全てが私の苦しみを肯定しているような気がした。どうしても救われた気がしてならなかったのだ。
私の苦しみに意味があったのだと、私はようやくこの世界に意味を残せたのだと、認めた瞬間、涙が止まらなかった。

このことは、彼に当てたあのオレンジ色の手紙には絶対に書かない。AZさんにも報告しない。シアにも言わない。
これは私だけの秘密。枯れない花を枯らした私だけの栄光。

「……」

私はコートのポケットから油性のマジックを取り出し、割れた花弁の破片にとある言葉を残した。
どうかこの場所に、もう二度と人が訪れませんように。こんな私の戯言を、見つける人が二度と現れませんように。
これは私の、命を懸けたメッセージだった。

鉄の扉を押し開け、鞄を拾った。痛みと疲労に軋む身体を叱咤して、地上への道を駆けた。
外の闇はもう晴れようとしていて、私は人が動き出す時間帯になる前にと、慌ててその遺跡を再び瓦礫と岩で塞いだ。
もう大丈夫だ。もうあの花は誰にも使われない。あの花は誰にも命を与えない。誰の命も奪わない。きっと私のメッセージは永遠に見つからない。
そのことがどうしようもなく嬉しかった。私に残された時間の短さを思っても、もう恐ろしくはならなかった。
私のできることは、全てやった。だから、もういいよ。大丈夫。

ふと、甘く柔らかな芳香を風が運んだ。どうやら今年も、あの木が花を咲かせたらしい。


2015.6.27
(peur……恐怖)

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