4.6(S)

ミアレの町は賑やかだ。
旅をしていた時には、この喧騒と人の多さが何よりも恐ろしかったのに、もうそんな町で暮らし始めて1年が経とうとしている。
全ての店に入り、沢山の人と話をした。カフェリテイクという青い屋根のカフェには頻繁に通った。
綺麗に舗装された大通りをローラーシューズで駆けることが本当に楽しくて、私は毎日のようにミアレの町を走り抜けた。
風が頬と、オレンジ色に染めた髪をさっと撫でていく。それが心地よくて私は笑う。ガレットを打っている女性が「今日もご機嫌だね」と微笑みかけてくれる。

シェリー」を捨てた私は、この町を愛し始めていた。

そんなミアレの町に最近、小さなお花屋さんが出来た。
赤や黄色、ピンクに白、青や紫の鮮やかな花が店先にずらりと並んでいて、私は思わず足を止めてしまったのだ。
私よりも少し年上の店員さんが「よかったら見ていってください」と微笑みかけてくれる。
「どれも綺麗ですね」と挨拶代わりに返して、私はその小さな店に足を踏み入れた。

きっと私の親友なら、殆どの花の名前を言い当ててしまうのだろう。博識な彼女のことを思いながら、私は知っている花を探そうと視線を泳がせる。
赤や黄色、白の薔薇、真っ赤なカーネーション、小さな向日葵に、大きな白百合。
馴染みのある花を見つけては笑っていた私は、しかしとある花の前で足を止めることになる。それに気付いた店員さんが、私に歩み寄ってきてくれた。

「プリザーブドフラワーっていうんです。特殊な加工を施して水分を抜いた、枯れない花なんですよ」

「枯れない花……」

その言葉はまるで魔法のように、私の心をしっかりと捕まえて放さなかった。
この花は枯れないのだ。永遠にこのままで在り続けることのできる花、永遠の美しさを持つ花なのだ。
あまりの事実にくらくらと眩暈がした。それは陶酔という名の眩暈だった。
決して安くはない値段の花をさっと一瞥してから、私は鞄の中を確認する。幸い、お財布には余裕があった。
そしてタイミングのいいことに、私と彼とが暮らし始めて1年が経とうとしていたのだ。

「このお店にある中で一番、大きなものを見せてください」

店員さんは少しだけ驚いた表情を見せたけれど、直ぐに「はい」と朗らかに頷いて小さな脚立を持って来た。
高い棚の一番上から、大きなガラスケースを下ろしてくれた。その中に入っていた赤い大輪に私は息を飲んだ。
「綺麗……!」と思わず零れた感嘆の声に、彼女も笑顔で頷いてくれる。

真っ赤な薔薇と白いカスミソウが、淡いピンク色のラッピングで彩られ、白いレースのリボンがたっぷりとかけられている。
それが立方体のガラスケースに入っていて、私はその花と目が合ったような気がした。永遠の美しさを持つというその赤い薔薇は、ガラス越しに私を見上げていたのだ。

「……これに、真っ赤なリボンをかけてくれませんか?」

「勿論です。とびきり豪華にラッピングさせて頂きますね。恋人へのプレゼントですか?」

「はい。もう直ぐ、一緒に暮らし始めて一年が経つんです」

息をするように嘘を吐く。そんな私がおかしくて、肩を竦めて笑ってみせる。
私と彼との関係は、きっと恋人などという生温いものなどでは決してないのだ。けれど、それでもこんなプレゼントを渡すことくらいは許される気がした。
許されなくても、それでよかった。受け取ってくれなくても、捨てられたとしても、私と彼との日々はこれからも変わらずに続くのだ。
ただ、少し、彼の望んだ永遠を、こんな形で差し出したかった。
永遠の美しさが詰め込まれたこの、小さなガラスケースの箱庭に、彼が何かを感じてくれたならそれだけでよかったのだ。

だから、まさか私にも花束が与えられるなんて、思ってもみなかったのだ。

フラダリさんが選んだのは、私が4番道路で捕まえたフラベベが持っていた、赤いカサブランカの花束だった。
彼を連想させるその大輪に、私は旅をしている間、彼を重ねていたのだ。
見抜かれているような心地になり、しかしそのくすぐったさに微笑むことさえできていた。
臆病で卑屈な「シェリー」は、もう此処にはいないのだ。だから今の私には、このカサブランカの花束をただ純粋に喜ぶことができる筈だった。
そして事実、私はとても喜んでいた。そして同時に、密かな決意をしたのだ。

私がフラダリさんに贈った花束は枯れないけれど、このカサブランカの「生花」はいずれ、近いうちに枯れてしまう。
その様子を、私は見ていたいと思った。この美しさが失われていくその様を、私は一番近くでこの目に焼き付けていたいと願っていたのだ。
そこには私の焦がれた、一瞬を永遠にするための美しい過程が、真っ直ぐに未来へと伸びているものと思っていたからだ。

やがて1週間が経ち、10日が過ぎたころ、その変化は確実に訪れていた。
誤解の無いように言っておくと、私は「死」こそが、過ぎる一瞬を永遠にできるための手段なのだと本気で思っていたのであって、
フラダリさんが成し遂げられなかった「世界を一瞬で終わらせる」というその行為を、正に私だけにおいて実現させようとしていたのであって、
ただその目的のためだけに、私はこれまで生きてきたのであって、この花を看取る行為はその一ページに過ぎない筈で、

こんな風に自分の心が大きく揺らいでしまうことを望んでいた訳では決してなかったのだ。

生きる手段を失ったカサブランカは、2週間も経たない内に死の影を見せ始めていた。
鮮やかな赤い色素は徐々に色褪せていた。すっと真っ直ぐに伸びていた茎は頼りなく傾いていた。葉は力を失ったように垂れ下がっていた。
水を替えようとしてその茎を掴み、一気に引き抜けば、水に浸っていた部分が腐敗したようにドロリと溶けていた。茎の一部が私の手首にぽたりと落ち、伝っていった。
溶けたようになっている茎の部分をそっと握れば、腐ったような匂いが一瞬だけ鼻を掠めた。
握り締めた指の隙間から、溶けたようになった茎の汁が垂れ、蛍光灯の光を反射して怪しく光っていた。

これが「死」なのだ。

「……」

与えられた水から養分を吸い取ることもできない。茎を真っ直ぐに伸ばすこともできない。花は美しい形を留めない。
それは不可逆性の変化だった。もうこの花は、あの凛として咲き誇る姿に戻ってはくれないのだ。生きるとは、死ぬとは、そういうことなのだ。
私は自分の手が震えているのを感じていた。揺れる眩暈を、大きく口を開けた花瓶が嗤っているような気がした。

私にとって「死」は、一瞬を永遠にするための、最高に崇高で美しい儀式であり、手段だった。
けれど違った。それは死というものが持つほんの一部分でしかなかった。その側面しか見ていなかった私はきっと、死に対して美しい幻想を抱き過ぎていたのだろう。

私は死ぬのだ。私は息を止め、腐り、変わり果ててしまうのだ。そうしたものに私は飛び込んでしまったのだ。
そしてそれが不可逆的な変化である以上、今の私がどれだけ恐れても、悔やんでも、戻ることは決してできないのだ。

『死は大きすぎる理なのよ。誰も抗うことができないの。シェリーが後悔しても、その結果は変わらない。二度と戻れないの。だから絶対に踏み越えてはいけなかったんだよ。』
大好きな親友の言葉が脳裏を掠めた。彼女が涙ながらに言っていた言葉の真の意味を、私はようやく理解するに至ったのだ。理解した頃には、もう全てが遅すぎたのだ。

美しくなどない、ただ残酷で恐ろしい別離は、私の手の平にべっとりとこびりついていたのだ。今の私の手首を伝う、この茎の汁のように。
もう、この死を剥がすことはできない。きっと、誰も抗うことなどできはしない。
死はそうした、とても残酷で神聖な領域だったのだ。いずれ全ての生き物が足を踏み入れる、最後の残酷な終着点だったのだ。
私はそうした、とても恐ろしい領域に自ら足を踏み入れてしまった。そのことの重大さを、私はようやく思い知ってしまったのだ。

『死んでしまったら、もう疲れることも休むことも、生きることもできないんだよ。』
彼女の言葉が私の心臓を揺らす。
怖い、怖い、……嫌だ。私はまだ、こうなりたくない。
死にたくない。

「……」

そんな思いを振り払うように、私はその花を花瓶に戻し、汚れた手をスカートで乱暴に拭いてから、徐に口を開いた。
紡ぐのは、私の親友がよく口ずさんでいた歌だ。
イッシュの海底神殿に刻まれていたというその譜面を、彼女は水中で写真に収め、解読したのだという。彼女の勤勉さには本当に恐れ入る。
そんなことを思いながら、私は大きな声で歌った。背中にべっとりと貼り付いた恐怖に気付かない振りをして、私は笑顔で歌い続けた。
その音は上擦っていて、調子外れだった。けれど構わなかった。歌っていなければ別の何かが零れてしまいそうだったからだ。

そう、私はもう戻れない。それならば最後まで美しく在ろう。
この恐怖が、狡い生き方を選んだ私への罰なのだとしたら、私は甘んじてそれを受け止めよう。
『最後まで、貴方の親友でいさせて……。』
こんな私を親友だと言ってくれた彼女の「親友」に、最後まで相応しい人間で在ろう。

「聞くに堪えない歌でしょう?」

背後に彼の視線を感じて、私はクスクスと笑いながら振り返る。
植物に歌を聴かせると元気になるらしいから、だなんて、聞きかじった知識を披露してみる。
この花の変化が不可逆性のものであることを私は知っていたけれど、そうでも言わなければ私は笑っていられないような気がした。

私の歌は、このカサブランカにはきっと届かない。残された人の慟哭を、死んでしまった私が耳にすることはきっとない。
つまりはそういうことなのだろう。聴こえない慟哭と、死への恐怖を受け止めることで、私の存在はようやく永遠のものとなることが許されるのだ。
大丈夫。大丈夫だ。私はもう屈しない。そう言い聞かせていた。

死ぬことが怖いと思ったのは、この日が初めてだった。


2015.4.12

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