・ジャンルはすべてポケモン
・短編未満、連載番外、if、パロ、なんでも詰め合わせ
SSにも満たなさそうな会話文、極端に短いもの、本編に組み込む予定のない突発エピソード、などはタグ「ちりがみ(塵)」に格納します。
▽ 臆病な刺青
2019.11.04 Mon * 21:53
(20歳と16歳くらい)久し振りね、と私の手を撫でてくれたトウコさんの薬指に不思議なものが光っていたので、私は思わず声を上げてしまった。
「トウコさんは本当に黒が好きなんだね。そんな色のダイヤが入った結婚指輪、初めて見たよ」
大人の女性に相応しい形を取るそれに、私の子供っぽい丸い爪が付いた指先をそっと触れさせてみる。
新月の夜よりも強欲に闇を吸い込んだようなその黒だって、やはり永遠の誓いを示すためのダイヤモンドには違いなかったのだけれど、
やはり一般的な白いダイヤモンドを結婚指輪の正しい形として信じていた私には、少しだけおかしなものに見えてしまった。
けれども彼女は私が包み込むようにした両手の中で、その薬指をぴょこぴょことおもちゃのように動かしながら「いいでしょう?」と笑ってくれる。
その、私の知る女性の中で一番かっこいい人物の最高に幸せそうな笑顔を指輪の背景に据えるだけで、
この黒いダイヤモンドに見出していたはずのおかしさが、私の中からあっという間に蒸発して消えてしまう。
「うん、とってもかっこいい! いいなあ、この指輪はこれからずっとトウコさんと一緒にいられるんだね」
「あはは、ありがとう。そんな風に言われるとは思わなかったわ。……でも少し違う、私はこの指輪と「ずっと一緒にいる」訳じゃないのよ」
「え、結婚指輪なのに、外す時があるってこと?」
首を傾げてそう告げれば、彼女は「そうじゃないわ」と否定しつつ、先程までの幸せそうな表情を一瞬にして消し去り、
何かよくないことを思いついた悪戯っ子のような眉の吊り上げ方をしたのちに、私の左手首を物凄い力で掴みにかかった。
わっと声を上げて驚く私の左手、トウコさんのようにかっこよくも大人っぽくもないその薬指の付け根に、彼女は自らの爪をそっと立てて、ほんの少しだけ、食い込ませた。
「知ってる? 強い契約を交わして力を得ようとするときには「契約印」っていうものが必要なの。体の一部、手の甲とか首元とか背中とかに誓いの印を刺青みたいな形で刻むのよ」
「……それって、悪魔や死神と契約するときの話でしょう? トウコさん、そういうの信じる人だったっけ?」
「悪魔や死神なんていう可愛らしい空想の産物とは比べものにならないくらいの、もっとおぞましく恐ろしいものを私は信じているの。
信じて、信じて、信じ抜いた末に交わした契約の印を、でも私は臆病だから、肌に直接刻むことができなかった。それで泣く泣く、この形になったの」
ああ成る程、と私は笑った。なんとなく、彼女の言いたいことを察することができたからだ。
彼女にとって、この黒いダイヤモンドの嵌め込まれた結婚指輪がどのようなものであるのか。
それに思い至ることができれば、先程の「指輪と一緒にいる」という言葉が不適切なものだということは、あまり頭の良くない私にだって分かってしまう。
それは指輪の形をしてこそいるけれど、彼女にとっては「装飾品」ではなく「契約印」なのだ。
本来はその美しい手の甲や、すらりと伸びた真っすぐな背中に、焼き印や刺青として刻まれるべき代物なのだ。
その印は一生、彼女とその契約相手に刻まれ続けるものであり、彼女の体の一部と同化するべきものなのだから「一緒にいる」ではなく「一つになる」とした方がきっといいのだ。
彼女は、自らの臆病な気質さえなければ、きっと本当に、本物の刺青だって焼き印だってその身に刻んだのだろう。それが彼女にとっての結婚なのだ。
そうして、そのあまりにも痛々しく恐ろしい儀式の果てに、彼女のこの、誰よりもかっこよく誰よりも幸せそうな笑顔があるのだ。
「ねえ、トウコさんはその「もっとおぞましく恐ろしいもの」と交わした契約で、どんな力を得たの?」
「知りたい?」
真っすぐにその瑠璃色の瞳を見上げて、私は大きく頷いた。
本気で頼み込んだところで、こういう「知りたい?」と聞き返してくるときの彼女はきっと教えてはくれないのだろうと、分かっていながらどうしても期待せずにはいられなかった。
そして案の定、彼女は肩を竦めて首を振り、私の薬指から指を離した。凝視しなければ分からないような僅かな爪の跡が、私のそこに臆病な弱々しさをもって刻み込まれていた。
「ヒカリがもう少し大きくなって、刺青を入れたいと思えるようになったら教えてあげる」
その約束を示すための契約印があればいいのに、と思った。けれども彼女が付けた僅かな爪跡は、ものの10分もすればすっかり私の薬指の付け根から消えてしまいそうだった。
目視できない約束を少しだけ寂しく思う心地を私は味わい、そうして改めて、指輪という契約印を自らの体と同化させて語る彼女の在り方がとてもとても羨ましくなったのだった。モノクロステップ/天を読む藍 ヒカリ/トウコ
▽ そうした傲慢など苦しみ尽くした末に死んでしまえばよいのだ
2019.11.03 Sun * 13:56
「なんでオレが怒っているのか分かるか、ミヅキ」
いつもなら常夏の湿った風に吹かれてゆらゆらと陽炎のように揺れるその白波は、けれども彼の激情を表すかのように凍り付いていた。
早く元の柔らかな髪に戻ってほしいなあ、などとぼんやりと思いながら彼を見上げる。恐怖の一切を示さない私の表情に、彼は益々苛立ちを募らせている。
ひそめられた眉も、射るような三白眼も、私を威圧し恐れさせようとする類のものであることは分かっていた。
けれども私はこの恐ろしい人が怖くない。彼はある種の責務に従いそのようにしているだけだと知っているからだ。
彼は、怖がらせていなければならないのだ。彼は恐怖を植え付け威圧させる側でなければならないのだ。
何故ならそれが、スカル団というならず者の集団のトップに君臨する彼の矜持であるからだった。
加えて、相手を恐れさせることのできなくなった彼は、いよいよその本性を露わにして恐れる側に回るしかなくなってしまうからであった。
「分からないよグズマさん。貴方が怒っていることは伝わるけれど、その理由なんて私には分からない」
「……てめえ」
「だって私、今、バトルツリーから帰ってきたばかりなの。カミツルギやアシレーヌと一緒に頑張ってあの木を登ったんだよ。
彼等と一緒に戦っていたの。必死だったの。夢中だったの。とても楽しかったの。
その間、貴方のことを考える余裕なんてこれっぽっちもなかった。私は、いつもいつでも貴方のことを一番に想っている訳じゃないんだよ」
貴方だってそうでしょう、と細めた目のうちに告げる。彼の眉がより強く歪む。言葉を失う。私の胸ぐらを掴む手の力が、急速に弱まる。
この子供みたいな人の恐怖を引き出すことは驚くほどに容易い。彼の心理構造の一部は私のそれにとてもよく似ているからだ。
私が怖いこと、私が恐れていることを、そっくりそのまま彼へと示してしまえばいいだけの話であったからだ。
私達のおめでたく傲慢な望みなどこのままならない世界においては一生叶いやしないのだという、
その真実を、生きるってほとほと悲しいのだという真実を、改めて彼の眼前に突き付けるだけでよかったからだ。
「でも貴方は、貴方が怒っていることを私に分かってほしいんだよね。その理由も、その解決策も、私に見つけてほしくて堪らないって顔をしているもの。
ねえ、聞かせて。私が悪いのだとしても、貴方の言葉で伝えてくれなきゃ、私、謝罪の焦点を何処に当てればいいのか分からないよ」
「……お前、が」
「うん、私が?」
「お前がアクロマとかいう奴と一緒にツリーに挑んでいやがる間、お前に誘われるものと思っていたオレとグソクムシャはどうすればよかったんだよ」
私の右肩にがっくりと頭を押し付けた大きな子供、その白波に手を回してわしゃわしゃと掻き混ぜる。
眉間の緊張は解け、目は鋭さを失って溶けるように細められているのが分かる。分かってしまう。
分かることも分からないことも、貴方とのことであればいつだってこんなにも楽しく嬉しいのだ。
「心外だなあ、私はちゃんと、朝一番にポータウンに行って貴方を誘おうとしたんだよ?
それなのにグズマさん、部屋にいなかったから、急用ができたのかもしれないって思って、諦めてすぐに帰ったの」
「……大したことじゃねえよ、屋敷の水道管が割れたからプルメリと一緒に修復していただけだ」
「そうだったんだ。じゃあどのみち、ツリーへの挑戦は無理だったね。
でもこんなに貴方が不安になってしまうなら、もっとちゃんと探せばよかった。嫌な気持ちにさせてしまって、ごめんなさい」
よし、このまま外に出てしまおう。
そうすればこの白波だって私の手がなくともふわふわとたなびき、美しい様相で、それこそ「宝石のような」姿で私を迎えてくれるに違いないからだ。
私達が宝石だなんて、そんなことは万が一にも在り得ないと、知っているけれど!
*
リハビリ一発目がこんなんで本当にええんですか
マーキュリーロード ミヅキ/グズマ▽ スイカとレタスの間
2019.06.09 Sun * 9:32
(ポケモン要素皆無)
立派な木目模様に似合わない、ツルツルとした肌触りの心地よいテーブルだ。
かなりの大きさがあり、4人で座ることもできそうな家族用のそれに、しかし椅子は2つしか用意されていない。
窓側に彼女は座る。その反対側にあたしが座る。東に面した窓からは朝日が煌々と差し込んでいて、彼女の輪郭を濃い黒で浮かび上がらせている。
逆光のせいだろう、いつもの彼女が妙に神々しく見える。彼女の「器」だけがひどくご立派に見える。
中身には血と肉と骨しか詰まっていないのに、生々しく臭く脆い生き物でしかないはずなのに、
此処だけ切り取ってみると、なんだか彼女が本当に、優しく美しい「概念」のようであるため、あたしは思わず笑ってしまう。
どうしたの、と首を傾げて飛んでくるそのメゾソプラノさえ、生きている者の紡ぐ音ではないようにさえ思われてくる。
そんな彼女の座る席から、暗いところを背景にしてなんてことのないように座っているあたしは、どのように見えているのだろう。
大きなテーブルの真ん中には、不思議な果物が真っ二つにされて、真っ白の、大きなお皿の上で揺れている。
その丸く大きな姿はスイカのようであるけれど、中身は赤ではなくレタスのような緑だ。
香りも、スイカのように甘ったるいだけのそれではなく、もっと、もっと水に近い、シャキシャキとした感覚を思わせるものだ。
味は、どうだろう。スイカのようにただただ甘いのかもしれないし、レタスのように野菜としての僅かな甘さが舌先をくすぐるだけかもしれない。
あたしの分のフォークは皿の端に置かれているけれど、あたしはまだそれを取ることができていない。
けれど彼女は食べている。……もう一度言おう。彼女は、食べている。彼女が、食べているのだ。
真っ二つにされたその果物は、都合よくその果実の分厚い皮の中で一口大に切り分けられているため、彼女はフォークをその果物の器の中に差し入れるだけでいい。
彼女はそれを、食べている。食べて「美味しい」と笑う。喉がこくんと震える度に彼女は嬉しそうに目を細める。
まるで、食べることに喜びを見出しているような、食事を楽しみとしているような、そうした見事な正常を装って彼女はそこにいる。
窓が生む逆光のせいで「概念」に見えてしまう彼女が、まるで「質量」であることを喜ぶように食べている様は、あたしを少しばかり混乱させた。
対極に在るはずの二つの単語を天秤に乗せて、それをつついて遊んでいる。
悪趣味だと思った。異常になるなら貫き通せ、とも思ってしまった。中途半端は、嫌いだ。
けれども、そのどちらにもなりきることができず、此処でスイカのようなレタスのような果物を延々と食べ続ける彼女が、まるで人間のようだったから、
そのややこしさ、どっちつかずの中途半端な在り方こそ、彼女が彼女である所以、彼女が「生きている」ことの証明であるように思われてしまったから、
あたしは彼女の概念も質量も異常も正常もすっかり許してしまって、彼女が此処にいてくれていることだけを喜んで、フォークを手に構える他にない、という有様なのだった。
あたしと彼女の間には、この不思議な果物がある。スイカともレタスとも取れそうな、大きな大きなデザートが二人の間で笑っている。
ではこのスイカとレタスの間には、一体、何があるのだろう。
あたしはその「間」を飲み下して、彼女のように「美味しい」と言えるのだろうか。
「明日は、雨だといいわね」
「そうだね、雨だといいなあ」
Y/K▽ 鴇色珊瑚に君は為る
2019.06.07 Fri * 10:10
(紅色ブーケの数週間後、ライラックコーラルのプロローグに相当する話かもしれない)
カントーからの長い船旅であるというのに、彼女は荷物と呼べそうなものをほとんど持っていなかった。
提げている鞄はとても小さく、洋服の一着さえ入りそうにない。荷物を持たせた付き人を連れている訳でもない。
彼女は本当に身軽に、これまでの彼女を構成していたであろう何もかもを手放した状態で、この街、ミナモシティの船着き場に現れたのだった。
「ごきげんよう、ダイゴさん」
「ホウエン地方へようこそ。荷物はそれだけかい?」
「ええ、あのお家にあるのはガラクタばかりだもの。本当に必要なものなんてあの中には一つもなかったわ」
多感な10代の少女らしからぬ、モノへの執着のなさに青年は驚く。驚いた、ということをなるべく知られないように「そう」と笑顔で相槌を打つ。
そうよ、と歌うように相槌を打ち返してきた彼女の足元で、プラスルが彼女を呼ぶように鳴いている。
彼女は嬉しそうに笑い、その両手を伸ばしてプラスルを抱き上げようとする。膝が僅かに曲がる。
「……」
けれどもその姿勢のまま、彼女は固まってしまった。
プラスルと青年は同時に首を傾げた。プラスルはもう一度鳴いて彼女を呼んだ。青年は彼女に声を掛けることなく彼女の視線を追った。
彼女の目はプラスルではなく、もっと遠く、ミナモシティの海に揺蕩う何者かに向けられている。
浅瀬の際のあたり、数匹でふわふわと波に漂うその紅い存在が、彼女の鈍色の瞳の中に煌々と映り込んでいる。
瞬間、彼女は白いアスファルトを強く蹴り、細く長く伸びる船着き場から浅瀬へと飛び降りた。
小さな二つの踵に羽でも生えているかのように、その動きはあまりにも俊敏だった。青年も、プラスルでさえ、追い付くことができない程の軽やかな動きだった。
尖った岩場を強引に乗り越える。脚に岩が擦れて血を流そうとも彼女は一切の躊躇を見せない。岩の隙間に靴を奪われようとも、そんなことで彼女の踵は止まらない。
何が彼女をここまでさせるのか、分からないままに青年は彼女を追った。
浅瀬には足跡の代わりに彼女の落とした血がやわらかく溶けていて、何故だか首の締まる思いがした。
トキちゃん、と名前を呼んで、ようやく浅瀬の際で足を止めた彼女の肩を掴めば、勢いよく振り返って逆に腕を取られてしまった。
強い、強い力だった。僅かに痛みさえ感じる程の強烈な握力だった。その力をも凌駕する鋭い瞳と、その瞳さえ凌駕する重い声音が青年を射抜いて、捕らえて、離してくれなかった。
「あれは何? あの綺麗な花、この広い海をどこまでも泳いでいける紅い花……」
「……」
「花って、もっと不自由なものなのだと思っていたわ。綺麗で素敵なものはみんな不自由で、窮屈で、退屈なものばかりで……」
でも、そうじゃなかったのね。そう告げて彼女は力を抜いた。瞳も、声音も、手の力も、何もかもの迫力を失い、彼女は浅瀬にぺたんと膝を折った。
瞬きを忘れた鈍色の瞳にはやはり、海を揺蕩うやわらかな紅色の「花」が映るばかりで、
脱げた靴を持ってきてくれたプラスルも、同じように膝を折って屈みこんだ青年も、その悲しく美しい視界の中に入ることが叶わないままであった。
あれは花ではなくサニーゴというポケモンなのだと、集まってサンゴ礁に擬態することがあるのだと、たったそれだけのことを説明できないまま、青年は沈黙していた。
彼にとっては日常の光景、少し視線を向けてすぐに逸らしてしまうであろう、いつもの、何の変哲もない故郷の海。
そこにこれ程までの衝撃を受ける彼女が、珍しくもないポケモンの姿にここまで心打たれてしまう彼女のことが、恐ろしかった。
自分はもしかして、とんでもない人物に恋をしてしまったのではないかと思ってしまった。青年は彼女に心を取られたことを、少し、ほんの少しだけ悔いてしまった。
けれどもきっと、もう遅すぎたのだ。だって、美しい。自由な紅い花に恋をする彼女の横顔が、もう、こんなにも美しい。
「私、あれになりたい」
紅い珊瑚、海に咲く自由な紅い花。
脚や腕を切り傷だらけの血塗れにして、赤い旅衣装を浅瀬の海水に濡らした彼女、色だけは「あれ」とお揃いにした彼女。
彼女の望みを叶えられるだけの自信が青年にはなかった。彼女の衝撃は、感動は、羨望は、青年の理解と共感の範疇をとうに超えてしまっていたからだ。
だから青年は祈るしかなかった。自身の生まれ育った場所であるこのホウエン地方に、どうかと祈るほかになかったのだ。
どうか、どうか、彼女をあの花に。
ライラックコーラル トキ/ダイゴ▽ 摂氏五千に桜は咲かぬ
2019.04.09 Tue * 14:29
(桜SS 10/10)
このいい天気の日に、絶好のお花見日和に、あの子はこんなところで何をしているのだろう。
青年は溜め息を吐きつつ少女の姿を探した。灰を被り過ぎて褪せているであろう栗色の髪、妖精のようにぴょんぴょんと遠ざかる赤い背中を必死で探した。
途切れることなく降り続ける火山灰を、桜とするのはあまりにも厳しい。雪ならあるいは、とも思ったが、ホウエン地方に雪が降ることの珍しさは青年もよく知っている。
故にそうした、風情ある理由で此処にやって来た訳ではないはずだ。
そもそもあの子に「風情」は似合わない。風情、などという定型的なものに自らの心を擦り合わせていくだけの健気さを、あの子が持ち合わせているはずもない。
だからこそ彼女は、桜の雨が降り注ぐミナモシティやカナズミシティではなく、灰の雨が降り注ぐ113番道路を訪れたのだ。
此処に、彼女にしか分かり得ない感動があるからこそ、彼女は灰を被ることを選んだのだ。
そして青年は、そんな常軌を逸した彼女が、型破りなお姫様が、ガラスの靴を落とすことをきっと期待している。
彼女の、彼女だけの感動を、いつか青年も我が事として感じることができる日が来ると、そう信じて彼女を追いかけ続けている。
「ふふ、あはは! 素敵なスーツが台無しだわ、ダイゴさん。どうしてこんなところまで来てしまったの?」
「……ああ、そこに隠れていたんだね」
「私は隠れてなんかいないわ。貴方が私を見つけられなかったというだけではなくて?」
灰の雨の向こう側からいつもの優雅な調子で彼女が笑う。呆れたように肩を竦めつつ、楽しむように肩を震わせつつ、鈍色の目をすっと細めて青年を見る。
けれどもほんの数秒もすれば彼女は青年への興味を失い、ころんと地面の上に寝転がってしまう。
褪せていた栗色の髪はすっぽりと灰に覆われてしまい、元の色を完全に失っていた。
「此処では君の髪も銀色になるから、お揃いだね」
そう告げつつ、青年はその隣へと腰を下ろす。不可解な沈黙に首を捻りつつ彼女を見れば、その目は大きく目を見開かれたまま、瞬きを忘れてしまっている。
その鈍色の目には、灰を被った青年が、灰を被らずとも銀色の髪をしていた青年が、くっきりと、それはもうくっきりと映っている。
「煙突山の火口、あそこに身を投げれば本当の灰になれるかしら」
「……熱くて近付けないだろうね。それにきっと気が狂うほどに痛むよ。君にそれが耐えられるとは思えないけれど」
「でも灰は幸せそうだわ。私みたいな酔狂な人にしか期待も注目もされない、とても寂しくてとても自由な生き物よ。
きっと気の狂うような思いをしなければ、灰のような孤独と幸福は手に入らないんだわ。だから桜も私も、生温いところで生きているものは皆、不自由なままなの」
あまりにも惨たらしい論理であることは明白であった。使い古された道徳をもってして、彼女の自論を否定することは簡単にできた。
しかし、できなかった。そうした正しさを説くには遅すぎる。彼女に魅入られ惚れ込んでしまっている青年に、そのような正しさを選び取れるはずもない。
彼女がこの場所を選んだのは、桜ではなく灰を愛でることを選んだのは、酔狂であるからとか常軌を逸しているからとかではそうした理由ではなかった。
それは、もっと重たく切実な祈りのために為された選択なのだと、そう気付いてしまったから青年はもう、何も言うことができなくなってしまったのだ。
不自由な桜色は2回の瞬きの後で、青年の優しい沈黙を責めるように微笑み、告げる。
「貴方は優しいから、きっと私を燃やしてはくださらないわね。ふふ、つまらない!」
ああ、……ああ。
この降り積もる灰をどれだけ集めれば、彼女の履く靴を手に入れられるのだろう。
その悲しい背中をどれだけ追いかければ、彼女は灰の雨ではなく桜の雨に打たれてくれるようになるのだろう。