SS

・ジャンルはすべてポケモン
・短編未満、連載番外、if、パロ、なんでも詰め合わせ

SSにも満たなさそうな会話文、極端に短いもの、本編に組み込む予定のない突発エピソード、などはタグ「ちりがみ(塵)」に格納します。


▽ Please look at me, not M(USUM・未定)

2019.02.22 Fri * 20:53

Insomnia of Obsidianの翌日) 心臓が張り裂けそうな程に大きく震えていた。どくどく、という音が胸を突き破り、外まで聞こえてきてしまいそうだった。 思わず胸に手を当てた。掌を叩くその鼓動は確かに私のものだった。服の上から爪を立てても、手懐けるように鷲掴みにしてみても、鎮まらなかった。 どうして、と呟いたはずの言葉は音にならなかった。頭も心も弾け飛んでしまいそうな程に、私は混乱していた。 ミヅキはこんなところで、こんな人に出会ったりしなかった。ミヅキの心臓は、この村の入り口でこんなにも高鳴ったりしなかった。 この二人をミヅキは知らない。ミヅキが踊るあの夢の中に彼等はいない。 ならばどうして、どうして彼等は私の前にいるのだろう。私はどうして、彼等と出会おうとしているのだろう。 貴方達は、誰なのだろう。 「これが……祭りというものか! なんと華やかな……いや……そうではない、呑気なものだな!」 「無理しちゃって! 興味あるくせに?」 リリィタウンの前に立つ、背の高い男性と小さな女の子の会話が私の耳に届く。私の耳にだけ届く。ミヅキではなく私が、私だけがそれを聞いている。 不思議なスーツとヘルメットに身を包んだ彼等は振り返り、私を見る。私だけを見る。 アローラでの挨拶を真似るように、無機質な色の手が角張った動きで黄昏の涼しい空気を割く。その挨拶は私に、私だけに為されている。 「お前も……アローラの人間ではなく、遠くから来たのだな」 彼等はまるで示し合わせたかのように、全く同時に一歩を踏み出す。瞬きさえ忘れた私の前を、あまりにも静かに通り過ぎていく。 彼等は、口元以外を全てその無機質な装甲で覆っていて、私には彼等が何者なのか、どんな姿をしているのか、どんな瞳で私を見ていたのか、何も分からなかった。 そう、分からなかったのだ。これまでの私には「分からない」などということ、アローラに来てからは一度も、ただの一度もなかったのに、それが起こってしまった。 「待って! 待ってください!」 努めて作っていた乱暴な言葉も、誰も彼もにぶつけていた「大嫌い」も、私の頭の中から消し飛んでいた。 そうした、ミヅキが眠らないために必要であったはずの全ての装甲を投げ捨てて、背の高い男性の腕、不思議な素材に覆われたその腕を掴んだ。 光を遮るように作られたその生地はとても冷たく、夕日に焦がされた私の手はその温度に驚いて大きく震えた。 「どうした?」 貴方は何故、私がアローラの人間ではないことに気が付いたのか。貴方は何の目的で、何処からやって来たのか。何故、私だけが貴方に出会うことができたのか。 それらを問うにはあまりにも早すぎて、それらの疑問を諦めるのはあまりにも遅すぎた。 他にも、この人に訊きたいことは沢山ある。湯水のように際限なく溢れてくる。けれども私はそれを喉元に押し留めてたった一つだけ彼に問う。 「貴方は誰ですか?」 どうして運命とかいうものは、こうやって気紛れに希望を持たせようとしてくるのだろう。 どうしてこの世界は、今更私に「私」としてこのアローラを旅するように促してくるのだろう。 /

▽ 水晶は胎内でアルファベットの夢を見る

2019.02.21 Thu * 13:22

3度目の電話も繋がらなかった。ならばあの場所に決まっている。男はとうとう確信し、コガネシティを出て走った。
彼女がこちらのコール音に反応しないとき、彼女は決まってあの場所にいるのだった。

前置きしておくと、あの女性が男からのコール音に応えない、というような事態は滅多に起こらない。
図書館で本を選ぶことに没頭している時でさえ、マナーモードに設定した電話が小さく震えればすぐに何かしらの返事を寄越すのだ。
けれども「其処」にいるとき、彼女は大好きな本のことも、大切なパートナーであるメガニウムやスイクンのことも、そして男のことさえも忘れてしまう。
忘れて、そして彼女自身だけが悠々と漂える場所、誰にも立ち入ることの許されない神の領域にて穏やかに息を続けている。

つまり彼女にとって「其処」は図書館以上に大事な場所なのだ。図書館よりも大事な男の存在、それよりも、もしかしたら大事な場所であるかもしれないのだ。
けれども男はその場所について、彼女に詳しく尋ねたことはただの一度もなかった。
尋ねたところで彼女は答えてくれないだろうと思っていたし、彼女が「知らせる必要がない」と判断したのであれば、自分は知らずにいるべきなのだろうと心得ていたからだ。
彼女がどうであろうと、どんな秘密を抱えていたとしても、それを共有することが叶わなかったとしても、そのようなことはもうどうだってよかったからだ。

エンジュシティとキキョウシティの間にある三差路を東へ抜けて、マダツボミの塔が見える趣深い道を南へ曲がる。
ゲートを抜けた先には、重々しい雰囲気の遺跡が男を待っている。彼女を飲み込んだその遺跡が、男をあざけ笑うようにただ、そこに在る。
男はその無音の嘲笑に対して得意気な笑みを返し、歩を進め、一番大きな遺跡へと入る。コツコツと薄暗い空間に響く靴音は、果たして彼女のところまで届いているのだろうか。

奥へ、奥へと進む。角を曲がり、更に進んでまた曲がる。
そうして突き当たった壁の端に立つ柱。ほかのそれと寸分変わらないそれに隠された、ひび割れた壁。
大人一人が横を向いてやっと通ることができるその隙間を抜けた先に、美しく輝く水晶がある。空の色、男が焦がれたその色がどこまでも広がっている。
その水晶が、この隙間の向こうにある小部屋を、彼女のための聖域を、守っている。

「……」

無数のアンノーンが、彼女の周りを泳いでいた。

彼等は彼女のすぐ傍で、無秩序かつ気紛れに漂っている。かと思えばにわかに活発に動き出して、何らかの規則性の下にずらりと並ぶこともある。
アンノーンが列を為す度に、少女の足元から水晶が勢いよく生えてくる。
パリンという、硝子が割れるような音と共にそれは背を伸ばし、少女程の背丈になったところで、糸が切れたようにぐにゃりと溶けて別の形を取る。
液体のような可変性を見せる水晶は、あらゆるものをその煌めきと共に現した。ある時は男の知る女の子の姿を、またある時は見たこともないポケモンの姿を。
アンノーンが様々な列を為す度に、それらは生まれた。その不思議な水晶は、人間にも、ポケモンにも、食べ物や木々や建物の形にもなることができていた。

空色の宝石が描く世界はあまりにも美しい。
この光景に出くわすと、男はその神秘的な美しさにすっかり飲まれてしまって、何分も、何十分も、その場から動けなくなる。
その間にも、アンノーンの為す列に呼応して様々なものが次々と生まれ、そして溶けるように消えていく。
少女はその世界の中央で、まるでその世界の神であるかのように、水晶が生み出す何もかもを眺めている。眺めながら、時に笑い、時に困り、時に泣く。

「あ!」

けれども空色が成す完璧な宝石の調和は突如として崩れる。水晶が他でもない、彼女を探しに来た男の形を作ったのだ。
彼女が声を出した瞬間、水晶の男は笑うようにぐにゃりと溶けてしまった。
列を為していたアンノーンも一斉に散り散りになってしまい、元の無秩序な泳ぎを見せるだけとなってしまった。

「いけない、帰らなくちゃ。きっと待たせてしまっているもの」

アンノーンが笑うように小さく鳴く。宙を滑るように寄ってきた「A」のそれを、彼女は両手で包み込むように抱いてそう呟く。
そうしてようやく男も、この小部屋への一歩を、忘れかけていたその歩みを思い出す。コツ、と靴音を一歩分だけ鳴らせば、彼女は弾かれたように勢いよく振り向いてくれる。

迎えに来てくれたんですか? と嬉しそうに尋ねて首を傾げる彼女の周りに、もう水晶は生えていない。
宝石で出来ているかのように見えていたこの場所も、ただの土壁に覆われた薄暗い小部屋であるばかりだ。
もう彼女の時間は、彼女という神が煌めかせていた空間は、絶えてしまった。人に戻った彼女が手にすることの叶う水晶は、最早その瞳と髪の空色を置いて他にない。
そしてその空色こそ、男が共有を喜べる色であり、男が彼女を愛する理由なのだ。

「ええ。一緒に行きましょう、クリス

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▽ 私の酸素を取らないで

2019.02.20 Wed * 19:32

「やめて、呼ばないで。離して」

やっとのことでそれだけ紡いだ。男の子はあからさまに不機嫌そうな顔をしたけれど、その表情に献上する「ごめんなさい」を私は用意できなかった。
だって、私は悪くないはずだ。私があの事件に関わったのはもう1年も前のことで、私がポケモンリーグに通わなくなってからかなりの時が流れていて、
その間、この男の子や他の子供達は華々しい活躍をしていて、私にできないことをやってくれる人物は十分すぎる程にいて。

「君は……」

だから今更、私が呼ばれる理由などあるはずがない。あっていいはずがない。

「君はいつから、人の目を見て話ができるようになったんだ」

「……私は、答えないよ。それは、きっと貴方には関係のないことだから」

もし、今日という日でなければ、私はもう少し穏やかな受け答えができたのかもしれなかった。
彼の怒りを受け取って、いつものように謝罪の文句を紡いで、深く俯いて、彼の次の言葉に怯えながら、彼の好き勝手な断罪をこの身に受けられたはずだ。
彼の望む私、彼が優位に立てる私を用意して、彼にイニシアティブの全てを譲り渡しているかのように錯覚させることだってできたのかもしれない。
そうして彼が満足してこの場を去るまで、静かに待つことが、きっと私にはできた。私にはそうした、私を守るための全てが備わっていた。

「行きましょう、ズミさん」

けれども私は、そうした強固な守りの一切をかなぐり捨てて、彼を攻撃することを選んだ。
私の中にある天秤、恐れと憤りが秤に乗せられたそれが、この日初めて、私のために、憤りの方へと大きく傾いたのだ。
それは気が狂ってしまいそうな程の重さで、私ごときがその感情を使いこなすことはどだい無理な話であるように感じられた。
けれども私は衝動のままに、その憤りを放ってしまった。自らが傷付くことを恐れずに他者を傷付けようとしたのは、この日が初めてだった。

「しかし、いいのですか? 彼はまだ貴方に話すことがあるのでは」

「聞きたくないんです。行きましょう。一緒に来てくれますよね。私のしたいこと、何だって遠慮せずに言っていいんですよね。今日はそういう日なんですよね」

私から彼の手を取った。私の方から男の子に背を向けた。別れの挨拶さえしなかった。大きな歩幅でミアレシティの通りを歩いた。彼は、隣にいてくれた。
心臓が高鳴っていた。恐怖でも歓喜でもなく高揚に高鳴っていた。握った手に力を込めた。長く伸ばした爪で、彼の手の甲に跡を付けたくなってしまった。

貴方が私に居場所をくれる。どこまでも落ちていったとしても、貴方と結んだ恋の器が私を受け止めてくれる。私はそうしてようやく人並みに前を向ける。

 /

▽ Insomnia of Obsidian(USUM・未定)

2019.02.20 Wed * 12:21

ミヅキが泣いている。あの船着き場で泣いている。

いつも彼女は「其処」にいる。私の目蓋の裏にいつだってその光景は潜んでいる。私が目を閉じる度に、それは息を吹き返してあまりにも鮮やかに蘇る。
夢の中で私の形をしたミヅキが、私の知らない土地を駆け、私の知らないポケモン達と出会い、私の知らない女の子と出会い、その全てに大好きと笑いながら告げる。
髪を真っ白に染める。青いリップを唇に塗る。見せつけるように危険な大人達を慕う。崖から飛び降りたり海の水を飲んだりする。

そうして、常夏の地で踊り疲れたその悪魔は、やっと手に入れた平穏と幸福を喜ぶように、氷の中で眠るのだ。

恐ろしい夢。夢であればいいと思っていたそれ。けれどもそんな夢、この私には何の関係もないことであったはずだ。
あの夢の中にいる少女が、私にそっくりな姿をしていて、私と同じ名前であったとしても、それでも、私は、あの子とは違うはずだったのだ。
確かに、このアローラという土地は夢の中のそれに似ていて、私が抱き上げたポケモンも、ミヅキが抱き上げた子と瓜二つだったけれど、
それでも、これは私の物語であるはずで、私は今度こそ、この土地で誰にも忘れ去られることのない人物に、主人公に、なることができる、はずであって。

ああ、それなのに、それなのに。

「助けて……ほしぐもちゃんを!」

どうして貴方がいるのだろう。どうしてミヅキを見るのと同じ目でこの私を見るのだろう。
どうして私はミヅキのように、この少女を嫌ってはいけないと思ってしまうのだろう。どうして私はミヅキのように、こんなにもこの少女を恐れているのだろう。
どうして私は、私こそが「ミヅキ」であるかのように思われてしまうのだろう!

寒かった。あまりにも寒かった。震えが止まらなかった。常夏の地は私の故郷よりも、ずっと寒くて恐ろしくて、悲しいところだった。
目を閉じずとも、夢を見なくとも、あの氷の冷たさを私はすぐに思い出すことができた。
ミヅキが手に入れた幸福な死の温度は、これからもずっと私の背にまとわりついて、きっと一生離れることがないのだろうと思われてしまったのだ。

震える足で、吊り橋を渡った。もうこのまま、足を踏み外して身を投げてしまいたいとさえ思えた。
コスモッグを抱えたときも、吊り橋が崩れたときも、カプ・コケコが助けてくれたときも、私の心は-38度に凍り付いたままで、恐怖以外の一切を感じることができなかった。
ただ恐ろしくて、寒くて、どうしようもなかった。ミヅキが塗っていた青いリップよりも、きっと私の今の顔は青ざめていた。

このままではいけない。またミヅキが眠ってしまう。
私に憑りついたミヅキという悪魔に導かれるがままにしていれば、きっと私も同じようにああなってしまう。
私も-38度で、眠ることになってしまう。

「ありがとうございます……!」

笑顔でお礼を告げる宝石の顔を見ることができなかった。私は踵を返し、震える足を引きずるようにしてその場から立ち去ろうとした。
けれども宝石はミヅキを呼び止める。宝石一人ではこの山を下りられないからだ。そんなことは分かっている。ミヅキが分かっているから、私も分かっている。
待ってください、という声と共に、宝石が私の腕を掴んだ。それを乱暴に振り払い、私は叫んだ。

「馴れ馴れしく話しかけるな! ミヅキはお前みたいな甘ったれた奴が大嫌いだ!」

私は、眠らない。
絶対に、このミヅキを眠らせたりしない。

 

▽ 14 +【67】+ 8 = 89

2019.02.19 Tue * 8:08

Methinksのネタバレに容赦がない)

死ぬことへの恐れはありますか、と彼は尋ねた。いいえ、ありませんと彼女は答えた。
その凛とした語り口、けれども長すぎる時の中で掠れてしわになることを余儀なくされたその声。
閉じられた瞳、弱視を極めたその目が男の表情を捉えることはなく、枯れ木のように痩せた手が彼へと伸ばされることもきっとない。

けれども彼女はその変化を誇っているようにさえ見えた。
声が掠れて張りを失ったことも、目が見えなくなったことも、体を自由に動かせなくなったことも、全て「私」の一部として彼女は受け入れ、きっと愛していた。
老いてしまっても、死というものを傍らに迎えても、それでも尚、彼女は彼女であるのだと男には分かっていた。分かってしまっていた。

だからこそ、あの地下で眠る少女を起こして此処に連れてくるということが、どうしてもできなかったのだ。

「向こうには、私の大好きな人達がいます。だから死んでしまっても、休んでいる暇なんてないんです。探しに行かなきゃいけない。会いに行きたい」

「ええ、きっと皆、貴方を待っている」

男の言葉を受けて彼女は静かに笑った。そして目を開けた。
薄くなったその色、濁っていると形容しても差し支えないその色を、もう何も捉えることのできないその海を細めて、彼女は恐る恐るといった風に、口を開く。

「……ごめんなさい。家族の前では言えないことだから、少しだけ、弱音を吐いてもいいかしら」

構いませんと答えた。ありがとうと返ってきた。小さく吐いた息と共に海が溢れた。静かに流れた。
彼女が零す最期の後悔がどのような形をしているのかを、聞く前からもう男は察してしまっている。
だから聞く前に左手を強く握りしめた。彼女に男の表情など見えるはずもないのに、努めて平静でいなければと思われてしまったのだ。
これから一気にこみ上げるであろうあらゆる感情を押しとどめるための硬い拳が、彼にはどうしても必要だったのだ。

「私は、待つことができないんだわ。どれだけ待っても100年は来ないし、花は咲かないし、会うこともできない。貴方とあの子の時間の果てに、私はいられない。
でも、それがあの子の望んだことなんですよね。あの子は今、貴方と一緒に、貴方とだけ一緒にいられて、とても、とても幸せなんですよね」

「……」

「お願いします。どうか私を覚えていてください。貴方の記憶の中に私を置いてください。100年が経っても、200年が経っても、私を覚えていて。
此処で死んでしまう私の欠片を、攫って、連れて行って。私の想いがこれからも、あの子の傍にあるのだって信じさせて」

その必要はない、と男は思った。そんなことをせずとも、などと思ってしまった。
けれどもそうした真実を、この懇願を拒絶する理由とするのはあまりにも薄情だとも思った。
だから男は大きく頷いた。頷いて、承諾の意を紡いだのだ。その上で、気休めでも励ましでもない、彼女の中に生きる真実を告げようと思ったのだ。

「ええ、貴方を連れていくと約束しましょう。貴方のことをずっと覚えていると誓いましょう。けれども代わりに貴方の方でも、覚えておいてほしいことがある」

「……何かしら?」

「わたしが連れて行かずとも、貴方は我々と共にいます。貴方はこれからの永遠を彼女の傍で過ごすのではない。彼女の中で過ごすのだ。
彼女は貴方を忘れていない。何を忘れても、貴方のことだけは覚えている。この70年余りの間、ずっとそうでした。おそらくこれからもずっとそうなのでしょう。
だから貴方が待つ必要など端からなかったのです。貴方と彼女は一度も、ただの一度も、別れたことなどなかったのだから……」

最後の方は消え入るような声音になってしまった。もう、男にはそれ以上を紡ぐことができなかった。
新しい旅路、おそらくは男が永遠に踏み入ることを許されないその旅路へ向かおうとするこの女性へと手向ける言葉の温度に、彼が耐えられなかったのだ。
何度も、何度も、こうして男は知人の死を見送ってきた。死の床に必ずしも立ち会えた訳ではなかったが、こうした別れの言葉を紡ぐことには慣れていた。
それでもやはり、別れの度に彼の心はひとつ、また一つと潰れていく。潰れた心の上にある鉛のような重石を抱きかかえて、彼はこれからも生きていく。
長い、長い時間をかけて、その重石は風化し、砂となって消え去るのだ。

けれどもこの女性に託された重石だけは風化することなく、彼の中で、そしてあの少女の中で、きっと永遠に残り続ける。
彼女の最期の「ありがとう」を、きっと彼はいつまでも覚えている。
つまりはそういうことなのだ。彼や少女のようにあの光に呪われずとも、祝福されずとも、そこに命がなかろうとも、彼女の一瞬が絶えることなど在り得ないのだ。

彼女の一瞬は永遠になる。我々の中で、永遠になる。

「どれだけ待っても100年は来ないし、花は咲かないし」 → 彼女の愛読書「夢十夜」の第一夜を意識した言葉

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