ビックリヘッド(USUM・未定)

(「悪魔が幸せそうに眠るから」と同じ世界線)

甲高い声で呼び止められ、振り向いた。
青年の側から少女を呼び止めることはあっても、彼女からこちらを呼んだことは未だかつてなかったような気がして、
彼は物珍しさを抱きつつ、駆け寄ってくる少女の小さな足跡が、黒い砂浜に一歩ずつ増えていくさまを見ていた。

「久しぶりだな。どうしたんだ」

「えっと、私……」

青年のすぐ前に立った少女は、持っていた小さな紙袋を胸元へと掲げる。不自然に震えている手をこちらへと差し出してくる。甘い匂いがする。
これは、と尋ねて首を捻る彼の前で、少女は何と説明したらいいものかと悩むように、ぎこちなく、やわらかく、笑う。
その態度に青年は少し、ほんの少しだけ傷付く。

『馴れ馴れしく話しかけるな! ミヅキはお前みたいな甘ったれた奴が大嫌いだ!』
『お前もどうせミヅキを嫌いになる。ミヅキを裏切る。でもそんなの知ったことじゃない。ミヅキはお前たちのことなんかどうでもいいんだ』
『暑い場所も寒い場所も、煩い場所も嫌い。ミヅキはポケモンセンターで過ごす、暑くも寒くもない一人の夜が一番好き。分かる? お前、邪魔なんだよ』
『中途半端に力をつけて、ミヅキの足を引っ張って付きまとってくるくらいなら、いっそ弱いままの方がマシだ』

……これらはかつて、青年が旅の途中で偶然耳にしてきた少女の言葉だ。
青年がその場にいないとき、ミヅキという少女はいつだって尊大かつ高慢に振る舞い、誰も彼もを無条件に嫌っていた。
大人に対しても敬語を使わずにお前と呼びつけ、自らの歪んだ自論に基づいて相手を徹底的に貶める。彼女はそういう人物だった。
光溢れる美しいアローラの中で、彼女の周りの時空だけが歪んでいた。彼女はアローラにいるようで、アローラにいなかった。
だからこそ彼女はこの地において、誰よりも……そう、いつも彼女の隣にいるあの姫よりも……ずっと目立っていたのだ。

「チョコクッキーを作ったんです。受け取ってくれますか? 一口だけ食べて、お口に合わなければ捨ててもいいから」

けれども青年と顔を合わせるとき、そうしたいつもの、誰よりも目立っていた彼女の姿は消え失せる。
そこにいるのは、自分のことを「私」と呼び、少し不安そうな、それでいて人懐っこそうな目でこちらを見上げ、大人に対して丁寧な言葉を使う、ごく普通の女の子だ。
青年の前では、少女は自らのことを「ミヅキ」と呼ばない。青年のことを「お前」と呼ばない。「大嫌いだ」と言わない。高慢な言葉を選ばない。
青年を恐れているのか、それとも青年に何か仕掛けようとしているのかは分からないが、少女が彼の名を呼んだ瞬間に、少女は青年の知る「少女」ではなくなる。
そのことに青年は言いようのない寂しさを感じていた。何故、俺にだけそうなのだろう、と不安に思わずにはいられなかったのだ。

「アローラにこういう風習があるのかは分からないけれど、私の住んでいた場所ではこの日を「バレンタイン」と言って、女の子が好きな人にチョコを贈るんです」

けれどもその寂しさと不安は、少女がこの言葉を口にした瞬間、ズガドーンの頭のように勢いよく弾け飛んでしまった。

「好きな人に?」と、青年は最も重要な部分を繰り返して尋ねた。聞き間違いだろうかと、彼は本気で疑っていたのだ。
けれども青年の知る姿を捨てた、普通の女の子になった少女は、小さく頷き、ひどく年相応な可愛らしい笑みを……そう、まるで光のような笑みを浮かべたのだ。
それは青年にとって、どんな太陽よりも眩しい輝きであったから、思わず目がくらんで、心臓に痛みを覚える程であったから。

「お前が俺の前でいつものお前を捨てるのは、俺を嫌っているからではなかったのか?」

「私、貴方には「大嫌いだ」って、いつものミヅキで告げたことなんかなかったはずですよ。……この私はつまらないですか? 貴方の前に立つ人間に、値しない?」

彼は慌てた。そして焦った。少しでも余計な沈黙を挟んでしまえば、その眩しい笑みが絶えてしまうような気がしたからだ。
さっと手を伸ばした。少女の手から紙袋を受け取った。それを強く胸に押し当てた。洋菓子の甘い香りが強くなった。

「そんなことはない!」

「!」

「俺はいつものお前が放つ輝きを好ましく思っていた。だが今のお前のことも同じくらい、いやそれ以上に美しいと思う」

……アローラに住む全ての人をその笑顔で照らしてやったなら、お前ももう少し此処で生きやすくなるだろうに、と青年は思った。
けれども同時に、その眩しすぎる少女の光が自分だけに向けられているという事実は、不安になる程の多幸感を彼にもたらした。
この少女を、こんなにも普通の女の子である少女を、誰か助けてやればいいのに、と思った。
けれども同時に、もし彼女へと手を差し出せる相手がいるのなら、それは彼女の内にある真の光を見てしまった自分を置いて他にいないのでは、とも考えてしまった。

ありがとうございます、と鈴を転がすような声で甲高く告げた少女は、踵を返して元来た砂浜を駆けていく。往復分の足跡が黒い砂浜へと落ちていく。
随分と小さくなった姿で彼女は振り返った。大きく手を振って、下ろして、そして目を細めてそっと告げた。
おそらく、波と潮風の音にかき消されて聞こえなくなることを彼女は想定していたのだろう。
だが光の差さない、あの暗すぎる世界で生きてきた彼にとって、その程度の雑音など障害のうちに入らなかった。彼はその声を、少女の懇願を、聞いてしまった。

「貴方は、貴方だけは、本当の私を覚えていてくださいね。もしミヅキが、殺されてしまったとしても」

糖度0%のバレンタインSS、へいおまち!

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