カラカラと軽い音を立てて袋の中から転がり出たのは、小さな、片手にすっぽりと収まりそうな球体だった。
黄色いものも青いものも、不思議な模様が入ったものも、沢山あった。オレンジ色のボールを取り上げて、眺めて、そして気付いた。
「モンスターボール……」
まさか、この全てが?私はカラフルな球体の全てに視線を泳がせて愕然とした。
けれどその球体の群れは、私の知る「モンスターボール」の特徴に酷似していた。アンズ程度の大きさで、真ん中に開閉ボタンらしきスイッチがあったのだ。
デザインが異なるだけで、この球体は全て、ポケモンを捕まえることのできるあのモンスターボールであるのだろう。
けれど、ボールの色が赤であろうとオレンジであろうと青であろうと、それが「優秀な波動使いにならなければ授かることのできない、宝」であることに変わりはない。
モンスターボールは貴重品だ。私のような人間がこんな近くで、大量に見ることの叶うような代物では決してない。
けれどそうした常識に反して、今、私の目の前には大量のモンスターボールがある。
どういうことなのだろう。何が起こっているのだろう。そうして混乱の淵に立たされてしまった私の背中を、彼は次の言葉でぐい、とあまりにも乱暴に、押した。
「私はこれまでに2度、村を抜け出したことがある」
「!」
「このボールも、本も、外の世界から持ち帰ってきたものだ。誰にも見られてはいけないというのは、そういう理由からだったんだよ」
……繰り返すが、ゲンさんは優秀な波動使いだ。波動の力が全てであるこの村において、彼は限りない自由を手にしているように思われた。
彼に許されていないことなど、「村を出ること」と「ルカリオ以外のポケモンを従えること」のたった二つしかなかった。
それさえ守れば、この立派な人の安寧は保証される。何故なら彼は優秀な波動使いだから。皆が彼を称えているから。この人は「波動の勇者の生まれ変わり」だから。
けれど彼はその安寧を飛び出し、禁忌を犯した。この本と大量のモンスターボールは、その罪の証なのだ。
混乱の渦の奥深くに捻じ込まれ、呼吸さえ忘れかけていた私は、あの日の私が見ていたものが何であったのか、ようやく悟るに至ったのだ。
私はあの日、彼の罪を見てしまったのだ。
「……ギラティナに、襲われなかったんですか?」
私は思わずそう尋ねていた。
村の外に出てはいけない。勿論、それはこの村に敷かれた厳格なルールだった。
けれど勿論、この村を出ようとした人がいなかった訳ではない。村を出ようとした人の話は2、3年に1回、聞く。けれどその人は酷い傷を負って戻って来る。
村を出ようとした人間はいるけれど、実際に出ることに成功した人間は、少なくとも私の知る限りでは、一人もいない。
『村の近くに住処を持つギラティナという怪物は、自らの領域に無断で足を踏み入れる人間を決して許さない。』
ギラティナという怪物の存在、それこそ「村を出ること」が禁忌とされてきた所以であり、私達はその伝承を聞かされて育った。
厳格なルールは、村人をギラティナの牙から守るためにあるのだと、そうしたことを私はちゃんと解っていたし、私よりもずっと幼い子供だって、心得ていた。
けれど稀にそのルールを破って外に出る若者がいる。彼等は決まって夜に村を抜け出し、……そして翌朝、ポケモン諸共、深い傷を負って村へと戻って来るのだ。
そのあまりにも痛々しい傷によって、私達は「ギラティナ」の存在を否応なしに実感することとなった。
まだ幼く若すぎた私には、外の世界というものが、ギラティナとの対峙を乗り越えてまで手にするべきものであるようには、どうしても思えなかった。
「村から出てはいけない」というルールは、ギラティナから私達を守るためにある。そのルールを破って外に出ようとした若者は、けれど必ずギラティナに襲われて、戻って来る。
それ以来、その若者はもう堂々と町を歩けない。はみ出し者として見られるから。裏切り者というレッテルを貼られるから。
……私にだって分かることだ。私よりもずっと幼い子供だって理解していること、この村においては当然のことだ。
だから、そんな危険な橋を渡ろうとする人など、もういないと思っていた。
それなのに、よりにもよってこの人が、そんな致命的なことをしてしまうなんて!
「どうして、そんなことを……」
けれど彼は無傷のままに笑っている。何処にも傷を負うことなく、誰彼からも弾かれることなく、此処にいる。
彼はギラティナの怒りを買わなかったのかしら。それともギラティナに気付かれなかったのかしら。
仮にそうした幸運に恵まれていたとして、けれどそうした奇跡は二度も続けて起きるものかしら。力を持った人間の前には、運命すら平伏してしまうのかしら。
「外の世界が見たかったんだ。ギラティナが必死になって隠している外の世界がどんなものなのか、伝え聞いた形ではなく、この目で知りたかった。
……ギラティナは現れなかったよ。現れる筈がなかったんだ。その日は久しぶりのお祭りで、皆がお酒を浴びるように飲んで泥酔していたからね」
村の人がお酒を飲むことと、ギラティナが現れないことに何の関係があるのか、私にはさっぱり分からなかった。
けれど彼にはその、全く関係ないような二つの出来事の繋がりが見えているらしく、「だから大丈夫だったんだよ」と、私を安心させる言葉だけを紡いで、笑ってくれる。
私には分からなかった。まだ、彼の言っていることが全く分からなかった。
まだ14歳であった私の小さな心は、村で生きていくことだけに砕かれていた。毎日を無事に終えること、それが私の全てだった。
だから彼のように、この村の外に目を向けることも、そこへ出て行きたいと望むことも、更には実際に出て行こうと考えることも、したことがなかった。できなかった。
だから、彼によってもたらされる「情報」という嵐が、私の小さく無力な身には少しばかり痛い。
「ところで、君はモンスターボールを持っていないよね」
「あ、当たり前じゃないですか。モンスターボールは優秀な波動使いでなければ授かれない貴重なものです。私のような子供がおいそれと手にできるようなものではないんです」
「そうだね、それがこの村の常識だ。けれど外では違った。私はたった200円でこれを買うことができたんだよ」
200円。……昨日、市場で購入した小麦粉と同じ値段だ。あまりにも安すぎる値段を「200円……」と喉で繰り返し、私はくらくらと眩暈を覚えた。
嵐は一層激しさを増し、びゅうびゅうと私の耳元で鼓膜を裂くように鳴り響き続けていた。
どうしてモンスターボールがそんな値段で売られてしまっているのだろう。外の世界では何が起こっているのだろう。
200円でボールを売る外の世界がおかしいのだろうか。それともたった200円の代物を、一握りの人間がたった一つだけしか手に入れられない、この村がおかしいのだろうか。
解らない。村を「おかしい」とするには私はこの村で生き過ぎていたし、外を「おかしい」とするには私は外の世界を知らなさ過ぎた。
けれど確かに理解できるのは、外と村では何かとんでもないものが大きく異なり過ぎている、ということだ。
そしてその「とんでもない違い」を、きっとこの人は私以上に強く感じている。
「この小さな本には、ポケモントレーナーについてのことが書かれている」
彼は薪の上に置いていた二冊の本のうち、小さい方を取り上げて私に見せてくれた。
「ポケモントレーナー……?」
「そう、ポケモンを捕まえて育てる人のことだ。
ポケモンは6匹まで連れ歩けること、ポケモンセンターという施設でポケモンを回復できること、ポケモンやその技にはタイプがあること……私の知らないことばかりだった」
6匹、ポケモンセンター、タイプ……。
それらは確かに私の知る言語の形を取ってはいたけれど、やはり何かが決定的に違う気がした。同じ言葉である筈なのに、その単語は私の中で意味のある形を取らないのだ。
私は、ポケモンを6匹も連れ歩いている人を見たことがない。ボールは一人一つしか持ってはいけないもので、複数、ましてや6つも持ち歩くことなど、この村ではあり得ない。
ポケモンの傷は、調合した傷薬を使って治すもので、ポケモンセンターなどというものはこの村にはない。そんな施設を、私は見たことがない。
タイプ、というのもよく解らない。この村の人は皆、リオルかルカリオを連れ歩いているけれど、彼等が繰り出す技は決まっているし、限られている。
その技に更に区分がされているなんて話、聞いたことがない。
「私達にとってムックルは、育てた稲を食い荒らす敵でしかないけれど、そうした鳥ポケモンをモンスターボールに入れて、心を通わせている人間だっているんだよ。
仲良くなれば、ポケモンは人を乗せて空を飛んだり、海を渡ったりもするんだ。皆、とても楽しそうだった」
「……」
「人とポケモンは助け合って生きていた。人同士も助け合って生きていた。そうした繋がりを悉く断って、息を殺すように生きているのは、この村だけだ」
けれど、そうした「在り得ない」「見たことがない」「聞いたことがない」というだけの、私の狭い世界での「事実」は、
外の世界へ2回も飛び出したことのある彼の、確かに「存在している」「見たことがある」「聞いたことがある」という「真実」に比べれば、
どうにも取るに足らない、些末なものにしか思われなくなってしまったのだ。
では、私が今まで見てきたこの世界は、この村というのは一体、何だったのだろう?
2017.2.23