G:名前を歌う

「私は、」

長く、本当に長く置いた沈黙を、私は躊躇いがちにそっと割いた。
彼は相槌を打つことさえせずに、ただじっと私の目を見つめていた。蒼い目に、泣きそうな顔の女の子が映っていた。
……ああ、こんなみっともない顔をした私の言葉を待っているのだ。彼は他の誰でもない、私の言葉を真摯に聞こうとしてくれているのだ。
此処にいる人間は彼と私だけであったのだから、彼が私を見たことも、私の言葉を待ったことも、当然のことであったのかもしれなかった。
けれどもう、思い上がらずにはいられなかった。

「この、モンスターボールの中に、ルカリオ以外のポケモンが入っているところを見たことがありません。人と仲良しなムックルも、ポケモンセンターも、知りません。
貴方のことを信じたいけれど、でも、今の私には信じられないようなことばかりで……」

「そうだね、それが普通だ。アイラが心苦しく思う必要は全くないんだよ」

彼は箱を閉じて、私の頭をそっと撫でてくれた。
私は悔しくなって、情けなくなって、目の奥がぐっと熱くなって、いけないと思えば思う程に止まらなくなって、ついには彼の前でみっともなく嗚咽を零すまでになった。
自らの涙がこんなにも呆気なく溢れてしまったという事実に、私は少しばかり驚いてしまった。

私は泣き虫ではない。寧ろ打たれ強い方であった。波動の力が上達しなくても、そのせいでどんなにからかわれても、私は駄々を捏ねるようにぐずったり、泣いたりはしなかった。
ただ淡々と「そういうものなのだ」と受け入れていた。私は変えられないものを受け入れることにおいては、この上なく上手であったのだ。つい数分前まで、本当にそうだったのだ。
けれど、たった一人の真実を信じることができないという、ただそれだけのことに私の心臓はただただ、締め上げられていた。

彼が今まで誰にも話してこなかった秘密を開示してくれたというのに、私は彼の秘密を信じることができないでいる。
悔しい。もどかしい。貴方を信じたいのに信じられない私が、嫌い。

「すまない、怖がらせてしまったね」

誠意をもって発した言葉が、「信じられない」という惨い音と共に拒絶されてしまったことに、この人は憤っていい筈だった。
「どうして信じてくれないのか」と、私を責める権利が彼にはある筈だった。
けれど彼は憤らない。私を責めない。私が泣いていることへの責任をあろうことか彼自身に被せて、優しい謝罪の言葉を紡ぐのだ。

このままじゃいけない、と思った。私は、彼が示してくれた彼の真実を受け入れなければならなかった。
大好きな彼を、誰よりも慕っていた彼に、これ以上、不誠実を働きたくなどなかったのだ。
けれどそのためにどうすればいいのかがまるで解らなかった。信じられないことを信じられるようにするには、私には何もかもが足りなかった。
彼の言葉の重みを推し測るだけの知恵も、未知の世界を受け入れる勇気もなかった。私はただ平安に甘んじ、彼の言葉を拒む他になかったのだ。
彼の言葉の重みが私の両手を凍らせ始めていた。冷たくなり過ぎた手は赤くなり、いよいよ痛んだ。

知ることは痛いことなのだと、私はこの時、初めて知った。

「もう一冊の、」

「え……?」

「分厚い方の本には、どんなことが書かれているんですか?」

けれどいよいよ愚かなことに、私はその「痛いこと」を手放せなかった。
彼は驚いたようにその蒼い目を見開いていた。もっともなことだと思った。
「信じられない」「村の常識と違い過ぎていて恐ろしい」と、涙まで零した私が、あろうことかその恐ろしい渦の中に自ら飛び込もうとしているのだから。

……村の外の世界を恐ろしいと思うのであるならば、彼の見てきたという真実を信じられないのであるならば、私はこれ以上を望むべきではなかった。
信じれらないものに、引き続き耳を傾け続ける必要などまるでなかった。それは私にとっても意味のないことであるし、彼に対しても失礼なことであった。
けれど私はいよいよ強欲であったから、途轍もなく愚かであったから、まだ箱の中身を求めてしまった。
あの本の中には何が書かれているのだろうと、思いを巡らせずにはいられなかったのだ。
彼に誘われずとも、きっと私は自らこの「未知」という渦に飛び込んでいた。その結果、自らの体が「混乱」という流れに引き裂かれようとも、構わなかった。

彼は薪の上に置いていた分厚い本を手に取り、私の方へと向けて見せてくれた。
見知らぬ3匹のポケモンの絵が表紙を飾っている。背表紙にはお洒落な文字で「ポケモン図鑑(シンオウ)」と書かれている。
彼はその背表紙の文字を愛おしそうに目を細めてすっと指でなぞってから、私へと視線を戻し、微笑んだ。

「この本にはポケモンのことが書いてあるんだ。その生態、住処、得意技、戦い方……とても詳しく載っているんだよ」

「リオルとルカリオ以外のことも書かれているんですか?」

「そうだよ、この世界には私達が想像しているよりもずっと多くのポケモンがいるんだ。分厚いから、此処で少しずつ読んでいこう」

私は夢中で何度も頷いた。頷きながら、私は頼りない声のままに「ありがとうございます」と「ごめんなさい」を繰り返した。
その間に、数えきれない程に多く彼の名前を呼んだ。彼はその度に、頷き返してくれた。

次の日から、私達の集合場所はその倉庫になった。
やはり私は朝の5時に起きて、冷たい水で顔を洗って、外へ飛び出す。倉庫の中には既に彼がいて、その方角から『アイラ』と歌うように私の名前が聞こえてくる。

この時間が始まった頃は、一回だけ紡いで終わりであった筈の私の名前を、彼は私が来るまで何度も、何度も奏でるようになった。
私にしか聞こえていない声であることは、私が一番よく知っている。耳ではなく心を震わせるその「声」が、真に私のためだけに紡がれていることも解っている。
けれど、いやだからこそいたたまれなくなる。嬉しいことには変わりがないけれど、度を過ぎた嬉しさは「恥ずかしさ」に変わるのだ。
私はそのことを知り、また別の痛みに襲われた。知ることはいろんな意味で、やはり痛いのだ。

私達が倉庫にいる間、彼のルカリオは外の薪割り場で待機してくれている。
「はどうだん」という強力な技で薪を割りながら、倉庫に誰かが近付いていないかを見張っているのだ。
おかげで私達が見つかったことは、ただの一度もない。……というより、ルカリオの力を借りるまでもなく、冬の5時に外を出歩く人間など私達の他には誰もいないのだ。
それでもルカリオは必ず外に出て行く。彼が「頼むよ」と言わずとも、ルカリオの方からその役目を買って出ている。
村の外のものを所持していることがこの上なく重い「罪」であることを、彼もルカリオも等しく理解している。

罪は、隠されなければならないのだ。

その秘密を彼等と共有できていることが、不謹慎だと解っていても、嬉しかった。

箱に入っていた本のうち、彼は予告通り、分厚い方を毎日のように取り出しては、膝の上に置いて開いた。
「おいで」と静かに微笑んでくれたので、私はおずおずと隣の薪の束に腰掛けた。彼は彼の息づかいが解る程の距離に、私が座ることを許してくれた。
そうして同じ本を指差しながら、あらゆるポケモンの姿や生態を一匹、また一匹と知った。私達は同時に驚き、同時に笑った。

村にいるポケモンは、リオルとルカリオだけだった。
稲や豆を食べにくるムックルやムクバード、薪を盗むビッパ、梅雨時期になると田んぼに迷い込んでしまうカラナクシ……。
私が知っているポケモンはこれくらいだ。たまに見慣れないポケモンが村に迷い込んでくることもあるけれど、そのポケモン達は大抵、大人の手によって森へと追い返されていた。
限られたポケモンの姿しか、この村では見ることが叶わないのだ。私は10匹程度しか、ポケモンの名前を、姿を、知らなかった。

だから、外の世界に私の知らないポケモンがいたとして、その数もせいぜい20や30くらいだと思っていたのだ。
そんな私の予想を、この分厚い「ポケモン図鑑(シンオウ)」は盛大に裏切った。この本には、100匹を超えるポケモン達の姿が詳細に記録されていたのだ。
あまりにも鮮やかに煌めくその不思議な命は、私に夢を見させるに十分な魅力を持っていた。私はすっかりこの図鑑に夢中になった。好きなポケモンが、随分と増えてしまった。

フワンテという風船のようなポケモンが、どのように空を舞うのかを想像した。
チェリンボはその木の実を他のポケモンやトレーナーに分け与えるらしく、甘い味なのか酸っぱい味なのかと、やはり想像して楽しんだ。
ハガネールはとても大きいらしいけれど、「10.5m」という大きさがどれくらいのものなのか、想像することも難しかった。そうした「途方もなさ」さえも楽しかった。
知らないことに思いを巡らせる作業は、とりわけ私をわくわくさせた。手の届かない世界だと、分かっていたから私は想像することの楽しさだけを享受することができていた。

幼い頃、宿舎のお姉さんが読み聞かせてくれた絵本の中に、私は何度も何度も思いを巡らせては楽しんでいた。
この主人公はこのあと、どんな冒険をしたのかしら。泡になったお姫様を思って、王子様は泣いたのかしら。「幸せに暮らしました」って、どんな感じなのかしら。

絵本の中の世界と、私達の生きている世界とが大きく隔てられていることを私は知っていた。知っていて、それでも思いを巡らせることが楽しかった。
私達は絵本の中に飛び込むことはできない。私達は村を出ることができない。
でも、絵本の中や村の外に精神を溶かし、続きを想像したり思いを巡らせたりすることはできる。誰も私の夢を禁じることなどできない。
だから私は、絵本の中の想像も、村の外の想像も、ただひたすらに楽しんでいた。
絵本の中に入れないことと、村の外に出られないことは、力を持たない私にとっては同義であった。だから「想像」が私に望める最上の幸福であった。
しかもそうした空想や想像の隣には、大好きなこの人がいるのだ。それ以上など、望むべくもなかった。

けれどゲンさんは私よりもずっと力のある人だ。優秀な波動使いであり、多くの人に慕われ、この村において最大限の自由が保障されていた。私の目にはそう見えた。
そんな彼は、きっと私のように「想像する」だけでは満足できなくなったのだろう。
彼にとっては、絵本の中に入ることと村の外に出ることは同義ではなかったのだろう。出て行けるかもしれないと、その持ち過ぎた力が故に、思ってしまったのだろう。
だから出て行ったのだ。出て行く力があったから、出て行く理由を有していたから、ギラティナの目を盗んで抜け出したのだ。

私はその「理由」を持たない。私はまだそれ以上、欲張れない。


2017.3.2

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