H:速度記号「80℃」

ポケモン図鑑のページは後半に差し掛かろうとしていた。
今日のページには「タマンタ」と呼ばれる青と白のポケモンがいた。彼等は川とは違う、もっと青く深い色の水の中を泳いで生きているのだ。
彼等の住処が「海」であるのだと知り、私はどうにも虚しくなった。海を見たことのなかった私は、その自由な姿にどうしようもなく焦がれてしまった。
初めて、外を、絵本の中の世界を「いいなあ」などと思ってしまったのだ。
宿舎の傍の稲畑が黄金色の海を作っていた、あの晩秋の頃からもう、3か月が経とうとしていた。最も冬の厳しい時であった。

「どうしてギラティナは、私達の村の近くにいるんだろう。もしいなければ、ゲンさんのように力のある波動使いじゃなくても、皆、いつでも村を出て行くことができたのに」

ぽつりと、拗ねたようにそう零した。「そうだね」と困ったように笑いながら、隣から優しい相槌が来ることを傲慢にも想定していた。
けれどそうした私の期待に反して、彼は相槌を紡がず、おかしな静けさを保っていた。私は少しばかり不安に思って顔を上げて、そして愕然とした。
私よりもずっと大人で、立派な彼が、まるで私よりもずっと幼い子供が見せるような、泣きそうな表情で私を見ていたからだ。
彼がそのような表情を浮かべたのは、あの日、私が彼の箱を見てしまったとき以来のことであった。

「……ゲンさん、」

アイラ、計算は得意かな?」

その表情のままに、ゲンさんはそんなことを言った。
もう彼と数えきれない程に言葉を交わしていた私は、知っていた。彼がいきなり話題を飛ばすときというのは、難しいことを話し始めるという合図なのだ。
私は思わず身構えながら、けれどしっかりと頷いた。彼は安心したように少しだけ表情を柔らかくして、そして続きを口にした。

「200mlのミルクが此処にあるとしよう。食事当番の女性がこれを鍋に注いで火にかけて、80℃に温めてくれた。君はホットミルクが好きだから、この温度のままで飲みたい。
でもそこに別の人がやってきて、別のミルクをいくらか入れてしまった。君はどう思う?」

「……残念だなって、思います。私は80℃に温められたミルクが飲みたいと思っている訳だから、別のミルクと混ざってしまうと、私の飲みたい温度からずれてしまう」

難解な計算が飛んでくるのかと思っていたけれど、彼の口から零れたのはそうした、ひどく易しいストーリーだったから、私は苦笑して緊張を解いた。
80℃に温めていたミルクの中に、別のミルクが混ぜ込まれてしまう。
在り得ないようなことだと思った。けれどもしかしたら在り得てしまうのかもしれなかった。そうした、現実性と非現実性とが絶妙なバランスで混ぜ合わされたストーリーだった。
私なら、そんなことをされれば怒ってしまう。折角温めたミルクを冷やされて、不満を抱かない人間はそういない。

「そうだね、その通りだ。じゃあ、君の鍋に20℃のミルクが100mlだけ入れられたとしよう。鍋の中の温度は幾らになるかな?」

「……えっと、60℃です」

「早いね、その通りだ。60℃のミルクが300ml出来てしまう。君の飲みたい温度から20℃も下がってしまったね」

残念だ、という風に彼は苦笑する。釣られて私も笑ってしまう。
いきなりミルクの温度の話をするなんて、やはり変だ。おかしい。思わず笑ってしまうようなおかしさだった。
けれど彼にとっては「変」ではないのだろう。これは、おかしなことではないのだろう。

「ギラティナに襲われないこと」と「村の人がお酒を飲むこと」との間に、私は何の関係も見出せなかった。けれど彼はこの二つの間に何かしらの関係を見ていた。
それと同じように、「ギラティナがこの村の近くに住んでいること」と「折角温めたミルクを冷やされてしまう」こととの間にも、私が気付かないだけで、何か関係があるのだろう。
彼と同じ理解に至れない私の頭がどうにももどかしかった。不甲斐ない、と思った。
それでも、なんとしてでも理解したいと思って身を乗り出した。
彼は私の手からポケモン図鑑をそっと取り上げて、箱の中へと戻し、もう一度私を真っ直ぐに見つめた。彼の目はもう、少年のように頼りなげな様相をしてはいなかった。

「でも君は80℃のミルクを飲みたい。どうしても飲みたいんだ。そんな時、何℃のミルクをどれだけ入れればいいと思う?」

「今、60℃のミルクが300ml、あるから……100℃のミルクが300mlあればいいと思います。混ぜれば、80℃のミルクが600mlできますよ」

……そんなことをせずとも、また火にかけて温め直せば済む話なのに、などという野暮なことは言わない。
これはあくまで数字の、計算の話なのだから、放っておけばミルクの温度は徐々に下がっていくことも、火を使って温め直すことも、考えてはいけないのだ。
半ば愉快な気持ちになってきた私に、ゲンさんは「そうだね、正解だ」と相槌を打って、褒めてくれる。

「でも、君の好きな温度にするために、随分と多くのミルクを使ってしまったね」

「ふふ、そうですね。私は火を使えませんから、ミルクを温め直すこともできないんです」

「ミルクは節約したい。でも火は使えない。そして君は80℃のミルクを飲みたい。なかなか厳しい状況だね。
そんな君に授けられた最上の幸運があるとすれば、それは一体、何だと思う?数学的に答えてくれ」

ミルクを飲みたい私に授けられる最上の、数学的な幸運。
言われてすぐはその言葉の意味がよく解らなかったけれど、少しばかり時間を置けば、私は彼がどういった答えを求めているのかを察することができた。

「私の鍋に注がれたミルクの温度が、80℃であることです」

注がれるミルクの量はどれだけでも構わない。温度が同じであれば、ミルクは80℃のままでいてくれる。
間違ってはいない筈だ。そもそもそのような悪戯をする人に出くわさないことが一番いいに決まっているけれど、数学的な幸運はきっとこちらであると確信していた。
鍋のミルクと注がれるミルクの温度が同じなら、変わることを恐れる必要など何もない。同じ温度なら、幾ら混ざったところで何も変わらない。
ややこしい計算などしなくてもいいし、ミルクを新たに足さなくてもいい。火にかける必要だってない。そのままでいい。変わらないでほしい。

「その通りだよ」

けれど彼は先程のように褒めてはくれなかった。深く深く俯いた彼の表情は全く分からなかった。
けれど私には、彼がどのような心でいるのかが解ってしまった。何故なら彼の周りには「霧」が漂っていたからだ。

群青色の霧が彼の周りに漂っていた。私が初めて見た、彼の「波動」であった。

「……それこそが、ギラティナがこの村の近くにいる理由なんだよ」

ミルクを80℃に保つために、ギラティナはこの村の近くにいる。
私には到底理解できない理屈だった。理解をさせないようにと敢えて遠回りしすぎているような言葉であった。
どういうことなんですか、と更に説明を乞うことだってできた。もっと分かりやすく説明してください、と不満を露わにして憤ることだってできた。
けれど私は沈黙を守った。解ったように頷けば、本当に解ったような気分になれてしまったから、不思議だ。

「私達は80℃でなければいけないんだ。そういうレシピしかこの村にはないんだよ、アイラ

はい、と頷けば、彼の音にならない嗚咽が聞こえた気がした。私も何故だか泣きたくなってしまった。
けれど残念なことに、私の嗚咽は彼のように静かでささやかな形を取らなかった。私はみっともなく喉を鳴らしながら、何度も何度も頷くほかになかったのだ。

「すまない、君を道連れにしてしまった。一人で悲しむことが怖かった、苦しかったんだ」

どうしてこの人は私に謝っているのだろう。この人は何を悲しんでいるのだろう。何に苦しんでいるのだろう。
80℃にしかなれないことは悪いことなのかしら。60℃のレシピを持たない私達は不幸なのかしら。
そのレシピは何処にあるのかしら。全て、ギラティナが食べてしまったのかしら。
貴方は80℃のホットミルクが嫌いなのかしら。

「私はホットミルクが好きだから、貴方の辛さを全て理解することができないけれど、……でも、なりたいものになれないのは、苦しいですよね」

彼ははっと顔を上げた。泣いてはいなかった。けれど彼の心は確かに泣いていた。
だって霧があるのだ。悲しそうな顔で困ったように笑う、その表情さえもよく見えない程の濃い群青色の霧なのだ。

嫉妬の霧は煤の色、誠意の風は海の色、諦念の息は鉛色、慈愛の泉は空の色。もどかしさは星の色、熱意は炎の色、怒りは血の色、覚悟は緑色。
でも悲しさや寂しさの色は人によって異なる。青、白、オレンジ、彼等は悲しみを様々な色に溶かしている。
この人の悲しみは、この人が初めて表に出した波動は、よりにもよって彼が「好き」と言っていた群青色をしていた。
私はそれがどうにも悲しかった。彼の群青色の悲しみにいよいよ染まってしまいそうだった。悔しかった。寂しかったのだ。

「……アイラ。少しの間、目を閉じていてくれないか」

言われるままに目蓋を下ろせば、そっと、まるで壊れ物を扱うかのように優しく腕が伸びてきた。
背中に回された腕は父を思わせる温かさだった。その手の動きは母を思わせる繊細さだった。震える呼吸は弟を思わせる頼りなさだった。
そうした何もかもを一身に背負いこんで、息も絶え絶えになっているのが「彼」であった。
父も母も弟も覚えていなかったから、彼がその全てになったのだ。私はそのことにようやく気が付いた。

次に目を開ければ、彼はそうした、父や母や弟の気配を完全に捨て去って、いつもの凛々しく頼もしい笑みを浮かべてくれるのだろう。
だから私は目を閉じていた。彼の腕が離れるまで、彼の無音の嗚咽が止むまで、彼が笑いながら「もういいよ」と言ってくれるまで、私はずっとそうしていたのだ。


2017.2.23

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