I:ホットミルクは海を見るか

月の綺麗な夜のことだった。いや、解らない、曇っていたのかもしれない。風も強かったのかもしれない。流石に天気までは覚えていられなかった。
まだ冬の厳しい頃だったから、降っていたとすればそれは雨ではなく雪の形をしていたのだろう。それだけは確かだった。他の情報などどうだってよかった。
どのみち彼に出会ってしまえば、どんなに大荒れの天気だったとしても私にとっては「いい天気」になるのだから、同じことだったのだ。
つまりはそうした存在だったのだ。私にとって彼というのは、天気を自在に操る神様などというものよりもずっと偉大で優しい姿をしていたのだった。
彼が箱を取り落としたあの日からずっと、ずっと変わっていなかったのだった。

私の名前が呼ばれていた。『アイラ』『アイラ』と歌うように繰り返されるそれが、耳ではなく心臓に響く音であることに気が付いて、私は慌てて、飛び起きた。
壁に掛けられた時計の、短針が1を示していた。外出するには遅すぎる時間であり、彼に会いに行くにはあと4時間ばかり、早かった。
こんな時間に外に出るべきではないと解っていたけれど、その「声」が紛れもなく彼のものであったから、私は迷うことなく階段を駆け下り、扉を開けた。
彼はいつもの場所で静かに微笑み、ひらひらと手を振っていた。その手には灯りが提げられていたから、私は彼をすぐに見つけることができた。

「起こしてしまってすまない」

「大丈夫ですよ。それより、おめでとうございます!ゲンさんもこれで一人前と認めてもらえたんですね」

「ああ、見てくれていたんだね。ありがとう」

昨日は日曜であり、同時に特別なお祭りの日でもあった。ゲンさんが「一人前の波動使い」として認められ、その象徴である「モンスターボール」を受け取る儀式が行われたのだ。
彼の若さで一人前と認められるのはとても珍しいことだ。一人前の波動使いとして認められるのは、30代後半から40代の大人であることを私達は知っていた。
まだ30歳にもなっていなさそうなこの男性に、モンスターボールが授けられることは「異例」であり、「波動の勇者の生まれ変わり」と称される彼だからこそ叶ったことであった。
故に村中の人が広場に集まり、彼が一人前になる瞬間を見届けていた。勿論、その中に私もいた。随分と遠くからではあったけれど、それでも見ていたのだ。

広場の真ん中で彼はその、赤と白の小さな球体を受け取った。村長らしき人に恭しく頭を下げて、鮮やかな手つきでそれをルカリオに投げ、中に収めていた。
わっと上がった歓声の熱はまだ記憶に新しく、思い出すだけでどうにも嬉しくなった。

「今更モンスターボールを渡されたところで、私は毎日のようにあれを見ているから、特に感慨も湧かなかったのだけれど……でも君から祝いの言葉を貰えるのはやはり、嬉しいね」

「あれ」というのは勿論、彼が外の世界から持ち帰ってきた、カラフルな色のモンスターボールのことだ。
毎日、私達はあの箱を開いてポケモン図鑑を取り出していたけれど、その折にモンスターボールの入った袋を開くことがよくあったのだ。
黒地に黄色いVラインが入った凛々しい表情のボールもあれば、淡いピンク色をした可愛いボールもあった。
まるでカラフルなお菓子のようなそれを、手に取って握って、朝もやの中で目を凝らしては袋に戻し、また別のボールを取り出しては眺めて、戻して……ということを繰り返していた。
そうしたことを2週間、3週間と続けているうちに、私にも彼にも「モンスターボール」という宝は悉く馴染み深いものとなってしまっていたのだ。

故に彼の「特に感慨も湧かなかった」という言葉の意味が、私にはよく、とてもよく解ってしまう。
この村では解ってはいけないこと、罪であること、けれどその秘密の感覚さえも私達を微笑ませていた。そして事実、彼は笑っていた。
けれど次の瞬間、彼はその笑みをふっと陰らせて、悲しそうに私を見つめた。何か大事なことを言おうとしていることが解ったから、私は息を飲んで次の言葉を待った。

「私も一人前として認められたから、初めてお酒の席に参加したよ。あの味の良さはまだ理解できなくて、スプーン一杯程度しか飲めなかったのだけれど」

「お酒、苦かったんですか?」

彼がサニーレタスの苦味を苦手としていることを私は知っていたから、思わずそう尋ねた。
違っていても、合っていても、彼は困ったように笑ってくれると信じていた。そうした傲慢を可能にするだけの時間がこの3か月にはあった。
けれど彼は私の傲慢を、この時ばかりは許さなかった。彼は、笑わなかった。

「そうだね、苦かったよ。飲めたものじゃなかった。でもお酒よりも、そこで私が聞いてきた大人達の会話の方がずっと、ずっと苦かった。
君も知ってくれているように、私はサニーレタスが苦手なんだ。お酒の苦さも大人達の苦さも、私にはもう耐えられない」

そこでようやく私は気付いた。いつもなら箱だけを持ってやって来る彼が、今日は大きなリュックサックを背負っているのだ。
暗闇の中でも解る程に、そのリュックサックは大きかった。まるでこれからどこか遠い旅に出て行こうとしているかのようだった。
旅人というのは、彼のように大きなリュックサックを背負っているものであるのだと、私はよく解っていた。絵本の中に出てきた旅人は大抵「そう」であったからだ。
だから彼がこれから何をしようとしているのかということに、その瞬間、勘付かずにはいられなかったのだ。

「まさか、今から外の世界に行くんですか?」

「そうだよ。今日はお祭りだからギラティナにも見つからないんだ。今日しかないんだよ」

お祭りという行事への認識は、やはり私と彼とで大きく異なっているようだった。
私にとってお祭りとは、煩いくらいに賑やかで、楽しい日だ。今日だって勿論、楽しかった。
豪華な食事の恩恵に、私のような子供も少しだけあずかれた。緑色の葡萄が「マスカット」という名前であることを、私は昨日、初めて知った。
子供達を喜ばせるものはそうした珍しい食事であり果物であったけれど、大人達を喜ばせるものは大量のお酒であった。
だから昨日は子供も大人も一様に楽しんでいて、明るい色の波動がそこかしこに飛び交っていたのだ。

だからお祭りの日に大人達がお酒を飲むのは当然のことだ。けれど、村の外にいるギラティナに見つからず村の外へと出ることは、まったくもって当然のことではない。
にもかかわらず、彼は「お祭りの日にはギラティナに見つからない」ことを確信しているようであった。彼にとってお祭りとは、村の中と外を繋ぐ鍵のようなものなのだ。

けれど私にはその鍵が見えない。お祭りの日であることと、ギラティナに見つからないこととの関連性が、読めない。
けれど現にお祭りの日の夜に、彼は村を抜け出し、そして無事に戻ってきている。だからきっと、彼のその言葉は正しい。訳が分からないけれど、でもやっぱり正しいのだろう。
そう信じることしかできなかった。私が下せる結論など、その程度のものだった。
けれど彼が次に口にした言葉は、そうした私の結論の更に上の方に在ったのだ。彼のその決意は、私には到底届き得ないところを、息をするように悠々と泳いでいたのだ。

「村を出るのはこれが最後だ。私はもうこの村には戻らない」

湯気の立つホットミルクが脳裏を掠めた。
今日はお祭りの日であると同時に日曜でもあったから、私はいつもの冷たいミルクではなく、80℃に温められた仄かに甘いミルクをマグカップに入れてもらうことができた。
80℃は、私にとっては歓迎すべき温度だった。大好きなホットミルクの温度だった。けれど彼にとっては、違う。

彼は私達のことを80℃だと言った。彼は自らが80℃でしか在れないことを悲しんでいた。
どんな驚愕にも、歓喜にも、安堵にも、波動を見せることのなかった彼が唯一、見せた悲しみの群青色を、私はまだはっきりと鮮やかに覚えていた。

「外の世界のことを知り過ぎてしまっだ。この村が不自由であると、不条理であると、不誠実であると、知ってしまった。
私はもう、この狭い村に留まることができない。不自由に、不条理に、不誠実に、甘んじることができない。私は、怪物になれない」

「怪物……?」

「君も一緒に来ないか?」

雷に打たれたような衝撃だった。私は息をすることさえ忘れて、彼のその言葉を脳内でただひたすらに響かせていた。
「一緒に来ないか」という、あまりにも甘美な誘いが何度も何度も私の中に木霊した。
この人と一緒に村の外へ出る。彼の旅に私も付いていくことができる。彼の鮮やかな波動の力を、ずっと傍で見ていられる。毎朝の30分だけでなく、これからずっと、ずっと、

「外にはフワンテやチェリンボやハガネールがいる。ルカリオやリオル以外のポケモンを捕まえることができる。
ミルクを自由に温めることができるし、トーストにチョコペーストを塗ることもできる。海だって見られるんだ。私達はそうした自由な存在なんだよ、だから、」

「ごめんなさい」

息と共に吐き出したその言葉が自分でも信じられなかった。彼も驚いていたけれど、私はもっと驚いていた。
強欲な私なら絶対に「行きます」と告げていただろう。この幸福を手放すまいと、夢中で縋り付いていたことだろう。けれど、できなかった。手放すまいとは思えなかった。

「私にそんな自由は似合わない」

私にとって外の世界は、絵本の中の世界に等しかった。どう足掻いてもこの目で見ることなど叶わない場所であった。
だからこそ、向こう側の世界に住むポケモン達のことを想像するのが楽しかった。想像するだけで、楽しんでいられた。
「海を見たい」と強く願ったことだってあった。けれど、叶わないのだと解っていた。そして、それでよかった。

「私は此処でしか生きられない。私は貴方と違って無力だから。貴方のように強くも賢くもないし、村を「狭い」と思うこともまだ、できないから。
この村でただ必死に生きていただけの私に、外の世界は広すぎるんです。広すぎて、途方もなくて、信じられないことばかりで、怖いんです」

「……私が一緒でも?」

「一緒だからこそ、出られないのかもしれません。こんな中途半端な気持ちのまま外に出れば、きっと貴方の足を引っ張るから。貴方を煩わせるから。貴方の自由を、汚すから」

だから貴方一人で行ってください。そう言外に集約して私は彼を見上げる。
彼はまるで子供のように眉を歪めていた。泣きそうになっていた。だから私は笑うことができた。笑わなければと思えたのだ。


2017.3.2

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