4-3:水色に紅茶を注ぐ午後6時

「私はこれまで、皆の期待へ合理的に沿うばかりの生き方をしていたよ。従順に、聞き分け良く、言われたことだけやってきた。ポケモンを貰って旅に出たのだって、実は私から頼み込んだことじゃない。この高性能なポケモン図鑑も、ジムチャレンジの招待状も、幼馴染に宛てられた分のおこぼれを頂戴していたに過ぎなかったんだよ」

 従順で、聞き分けがいい。その傾向は今でも見受けられる。ローティーンの頃などしたいことをしたいようにしたい盛りだろうに、彼女はこちらから打診しなければポケモンバトルの希望さえ口にしない。夕食の献立で揉めている門下生の輪に混ざって希望をぶつけ合おうともしないし、そもそも彼女が食べ物を選り好むところを見たことがない。
 随分とお利口な子供が来たものだ、いつ化けの皮が剥がれるのだろう、などと修行を始めた当初は斜に構えていたのだが、その皮は今も剥がれていない。つまり皮など最初からなかったのだ。彼女には端から、希望や好みを口にする意思がなかったということなのだ。

「合理を逸れる勇気、私らしく在るための勇気、そんなものを私は持ちたかった。でも持てなかった。持ち方も分からなかった。勇気を欠いたまま従順に進み続けて、チャンピオンにまでなってしまった」

 こうしてよくよく聞けば、彼女のそれはたいへんな問題、致命的な欠落であるように思える。けれどもその欠落には是正されることなくここまで来てしまった。そんな機会など彼女にはなかったのだろう。無理もないことだと思った。分かりやすい問題児ならともかく、傍目には従順で聞き分けがよく、完璧にさえ見えていたであろう彼女を呼び止め、人生の何たるか、人の何たるかを説法しようなどという酔狂な人間などそういるはずもない。ガラルに生きる人間は概ねそこまで暇ではない。

「ガラルの旅は、それはそれは楽しかったよ。ポケモン達のことも、バトルも、キャンプも、大好きだ。でも何かが足りなかった。綺麗に敷かれたレールの上をただ従順に歩くのは、その先がどんな栄光に続いていたとしても、少し、ほんの少しだけつまらなかった。つまらないと思ってしまっていること自体もまた、とても恥ずかしくて、心苦しかった。酷い話だろう? 素晴らしい旅を大人達の計らいでさせていただいておきながら、こんな言い草」
「……それを口に出して喚き散らしたのなら確かに『酷い話』ですが、あなたはどうせこんなこと、これまで誰にも言わず、独りで抱え続けてきたのでしょう? 誰にもあなたの感性を否定する権利はありません。此処ではもう、好きに言えばよろしい」

 ね、と同意を求めるように花を指さす。真っ直ぐに伸びた花の茎を、折れないように慎重に曲げる。「その通りだ」と相槌を打つように彼女の方へと傾けてみせた。もう、残忍な方法で手折ろうとは思えなかった。
 お辞儀をするような花の挙動を見て彼女はふふっと息を吐きながら目を細めつつ「ありがとう」と透き通るコントラルトで歌う。ままごとめいたこの遊びを、彼女は笑って喜びこそすれ、決して嗤わない。

「そういう訳でね、私はずっと道を逸れてみたかったんだ。でも自分から逸れる勇気はなかったから、私を道から外してくれる何かがあればいいと思った。もしくは私の方から道を拓きたくなってしまうくらいに、劇的で、神秘的で、綺麗なものに出会えたらいいと思った。そういうものをずっと見つけたかった」
「まさかそれが『これ』だった、とか、言うつもりじゃないでしょうね?」

 今度はその茎を横にくいと曲げる。人で言うところの「首を捻る動作」を真似たものだった。彼女はクスクスと笑いながら「おや、ご明察!」と首肯する。やれやれこの探偵、この力を買い被りすぎではなかろうか。
 テレキネシスは超能力の、ほんの一部に過ぎない。彼女の言う「劇的で、神秘的で、綺麗なもの」に百歩譲って該当するにしたとしても、それを神のように信奉するなどお門違いだ。セイボリーは神ではない。彼はそんなものとしてこの少女の隣に立とうとは思わない。

「君が、その水色を引っ提げて現れてくれた。あまりにも劇的で、神秘的で、綺麗なその水色だ。それがただそこに在ってくれるだけで、もう、私の願いは叶ってしまったようなものだったんだ」
「フフッ、たかが浮遊の小技に随分な入れ込みようじゃありませんか。何故、これにそこまで? それに……癪ではありますが事実として申し上げます。もっと上質で優れた超能力を見たいなら、ワタクシではなくワタクシの親族を訪ねた方がよろしいですよ。チャンピオンのあなたなら、きっと諸手を挙げて歓迎してくれるに違いありません」

 最後の方は随分な棘を含んでしまっていることを自覚しつつ、それでもセイボリーは止まらなかった。彼女はその語気の強さに少々驚いたようだったけれど、やはり逆上などせずふわりと笑い、彼のささやかな八つ当たりをただ黙って許すのみだった。

「順番に話そう。先ず、何故その水色に惚れこんでいるのかという話だけれど、これはもう正直に『分からない』と言ってしまうしかないかな」
「……は? あなた、分からないものに対してここまで」
「分からないけれど、好きになったんだ、どうしようもなく」

 言葉の末尾を細くすぼめた彼女、その眉がほんの少しだけ下がる。本当に「分からなくて困っている」という表情であった。セイボリーは思わず目を見張った。はっきりと言語化できない感情に飲まれ、打たれ、振り回される心地のどうしようもなさは彼にも覚えがある。あの状態よりも遥かに程度の大きそうなそれを、きっと当時の彼女は扱いあぐねていたのだろうと思うと、からかいや叱責を浴びせる気などあっという間に失せてしまう。

「こんなこと初めてだった。不条理極まりない唐突さで、私の頭上にだけ落ちてきた雷みたいだった。ねえ、これは、一目惚れと形容するに足るものではないかな。私の感覚は、間違っている?」
「……」
「君の水色は、論理も合理も一足飛びに踏み越えて私を勢いよく突き飛ばしていった。敷かれたレールとか舗装された道とか、そういうものなんて関係なくなる程の遠くへ。私にも何が起こっているのか分からなかった。頭の中に大きな雷が落ちて、脳髄を一面、火の海にしていったみたいだった。論理も合理も全て燃え尽きた焦げ臭い頭の中に残っていたのは、君の水色がどうしようもなく好きだっていう、ただそれだけだった」

 それは、セイボリーの知る「一目惚れ」に親和性のある表現だった。成る程確かにそう形容して然るべきものだと思えてしまったのだ。その形容を何重にも上塗りする形でそのように、脳内の叙述まで丁寧にされてしまっては、彼女のそれに不信を抱くことはいよいよ難しい。彼女を疑うことはとても難しい。

「そこからはもう、君の水色を頼りに歩いてきたようなものだった。道なんてもうなかったから君を目印にするほかになかった。君に向かって歩いていた。ただ必死だった。そうしたらいつの間にか、君が見つめ返してくれるようになった。その目だってやっぱり、君が指揮する淡い水色と同じように綺麗だった。この訳が分からない気持ちの対象が、テレキネシスの神秘性から君自身に移るのは時間の問題だった」

 ぱっと、顔が赤くなるのを感じた。随分な言い様だと思った。丁寧に説明し過ぎているせいで肝心なところの重みを欠く傾向にある彼女の言葉、けれども流石にこれはセイボリーでも気付く。要するに「論理も合理も失った彼女に道を示したもの」が、彼の水色であり彼自身であったと言いたいのだ。その水色が「私」を作ったのだと、彼女はそうした趣旨のことを伝えてきているのだ。

 今、彼女という探偵が暴いているのは彼女自身の感情であり、彼女は自身の謎解きをしているに過ぎない。それでもやはり、追い詰められているのはセイボリーの方だった。白旗を上げることになるであろう未来をすぐ近くに見ながら、彼は小さく息を吐いて、彼女がしているのと同じように目を細めた。

「私が一目惚れしたのは、劇的で神秘的で綺麗なものをその指でつくる君だ。同じ色の目で神様のようにわらう君だ。そういう意味であれは信仰だったのかもしれない。でも今はそうじゃない。君のことはちゃんと、私と同じ人間として特別だよ」

 神などという高みから、同じ人というところに落とされてきたというのに、セイボリーの心は少しも曇らなかった。むしろ安堵してさえいた。信仰などというもので崇めてほしくはない、という気持ちもあったし、あとは単純に、そうしたお綺麗な心持ちを理由にして、この少女との間に物理的かつ心理的な距離が生まれてしまうのは耐えがたいことだと感じたからでもあった。

「あと、君以外の、君よりももっと優れているかもしれない方々の話については、もうはっきりと『どうでもいい』と言わせていただくよ」

 その近しい距離をもって、彼女はセイボリーが己の親族に抱いている劣等感を、彼女にしては随分とおざなりな言葉で吹き飛ばしていく。横顔を伺えば、本当に退屈そうな「どうでもいい」という表情をしていたので、思わず笑ってしまった。視線を花からこちらに移した彼女は、エンジンシティのカフェで作ったのと同じ、尊大で勝気な笑みを作ってみせた。この「どうでもいい」という発言も、彼女の言うところの「石を撃ち落とす」行為の一つに含まれているのかもしれないとセイボリーは思った。

「私が一番初めに出会えた水色は君だ。愉快な言葉を話して、見せつけるようにボール達を浮かせていた君だ。私が強者だと分かるや否やこちらへの敵対心を露わにして必死に食らい付いてきた君だ。いつだって懸命で切実な心持ちで生きていた君だ。そうした君の全て、私の焦がれた全てに、ただ優秀なだけの超能力なぞが勝つと思っているのなら、……ねえ君、それは『とんだ的外れ』だと言わざるを得ないよ。覚えておいて、いい?」

 とんだ的外れ。どこかで聞き覚えのある響きだ、などとセイボリーはしらを切りたくなった。ただ自らも、相手の発言を別の場面で「ミラーコート」してみせるという、ちょっと質の悪い言葉遊びを楽しんだ過去があるだけに、知らないふりをすることはやはり躊躇われた。かつての己の激情がこのような優しい形に書き換えられて返って来たことを、彼はほんの少し恥ずかしく思う。そしていっとう、嬉しく思う。

 そして彼女は息を吸う。わざと音を立てた呼吸であるとすぐに分かる。演出家めいた空気の作り方だ。謎解きで言えばきっとここは犯人を名指しする場面だ。
 その演出に飲まれてやることなど彼にはとても簡単にできる。それで犯人は誰なんですか。そうした冗談さえ口にできる程度の、覚悟を決めた心持ちで彼女に向き直る。花の形をした結露を飲み下したその喉に右手を添えつつ、彼女は真っ直ぐにこちらを見上げる。おおよそ予想した通りの、真剣で切実な紅茶の色であった。
 彼は息を飲んだ。
 紅茶は色を深めた。
 花はただ揺れていた。
 

「私に道を拓かせた唯一の色はすり替わったりしないよ。他の何色にも、染まるものか」

 
 彼が普段操っているのと同じ言語であることを疑いたくなる程に、その一音一音はあまりにも洗練されていた。劇的であった。神秘的であった。魔法のようでさえあった。
 瞬きと呼吸を為すのでやっとという状態のセイボリーの前で、彼女は照れたように、泣きそうに笑った。もう少し余裕があったなら、彼は「ワタクシだって」と大声で言葉を被せていたはずだ。けれどもそんな余裕はもうなかったので、彼はどこまでも彼らしく、心の中で叫ぶことしかできなかった。

 ワタクシだって同じだ。ワタクシもその目を追い掛けて此処まで来た。ずっと、あなただけだった。他の誰にも、替えなど効くはずがなかった。

 彼女は「何故、水色だったのか」の問いに関して、ただひたすらに「分からない」を連ねた。思考ができなくなった状態の脳髄の叙述まで懇切丁寧にしてみせて、その分からなさに根拠を持たせるという有様であった。
 けれども「何故、彼だったのか」こちらに関しては驚くほどはっきりと、断定的に、力強く捲し立ててきた。彼の懸念や不安は面白い程にバッサリと、勢いよく、美しい言葉の刃によって斬り捨てられてしまった。
 どちらの回答も実に彼女らしいと思った。そんな彼女を想えることを、ただ喜ばしいと思った。

「あとはもう、君と過ごした時間が私の想いの証明になってくれるはずだよ。私は君と過ごしただけ。君と一緒に懸命に、真剣な心持ちで生きただけ。それだけで『こう』なってしまったのはひとえに、君がそれだけの魅力を有した人だから、というだけの話じゃないのかな。君を素敵だと想う根拠を余すところなく語り尽くしてもいいけれど……ふふ、それはまた今度にしておこうか。君の作ってくれた1分もそろそろ限界みたいだから」

 謎解きの山場を終えたらしい彼女は大きく伸びをして上を見る。緊張の解かれたその仕草にセイボリーも釣られて安心の心地を覚えつつ、視線を揃える。1分の限界を告げる彼女の言う通り、もう陽が傾き始めているようだった。水色よりも濃い青をした西の空に、紅茶の色よりも薄いオレンジが混ざる様をセイボリーは見た。あまりの感慨に心臓が潰れそうになった。思わず隣を見れば、彼女も伸ばした手を硬直させて目を見開き沈黙していた。この感慨さえ揃いであるという驕りはやはり心地がいい。とても。

「ねえ、これでどうかな。こんな私の長い話は、君の『告白』の返事として相応しい? それとも極々シンプルに、君が好きだと告げてしまうだけでよかったのかな」

 ぎこちなく両腕を下ろし、改めてこちらを真っ直ぐ見つめてくる。この少女は本当に、全てを語り尽くしたのだろう。セイボリーの希望に余すところなく応えてみせたのだ。惨たらしい程に健気なその生き様を、彼はやはり美しいと思った。それ以外の言葉で形容することは彼には難しすぎた。

「いえ……いいえ! そのままで十分です。十分に相応しい。一般的な告白に比べると、随分と言葉を使い過ぎている傾向にはありましたが、それだって実に、その、あなたらしい」

 本当だ。本当にそう思っている。彼女の言葉を、彼女の想いを疑わしく想う余地など微塵も残されていない。それは今日の開示だけでなく、これまでの彼女の言葉や表情や一挙一動の全てで示されている。
 ミセスおかみの制止を聞かずに夜の清涼湿原へと飛び出し、水を掛けられても突き飛ばされても文句ひとつ言わず、君の気が済むならなどと告げて骨まで差し出し、悪趣味な時計の針遊びによって生まれた時の永遠性を心から信頼し、虚勢で傷を隠し通そうとしたことを随分な剣幕で叱り、こちらの怪我に死まで連想して涙を零し、他者が投げてきた暴言に分かりやすい激情を見せ、石をひとつ残らず撃ち落とすと宣言し、水色の花を飲み下し、君に染まりたいなどと希い、大事にしていたはずの探偵という冠まで打ち捨てて……。
 彼女がセイボリーに示してきたものは、思い出すだけで眩暈を覚えさえする量になってしまっていた。その全てが痛々しい程の切実さで証明している。「君が好きだ」というそれだけを、こんなにも雄弁に、饒舌に。

「では確信を頂けたことですし、先程の言葉を少し変えなければいけませんね」

 あとはもう、セイボリーが彼女を信じるだけ。彼女がセイボリーに抱いているのと同じだけの切実さで、彼女を想えばいいだけのこと。彼にはそんなこと、もう、息をするような自然さでできてしまう。

「あなたにここまで言わしめたのがこのワタクシであるという事実を、光栄に思います」

 彼女は目を細めて笑った。結露の花を飲み下した瞬間と同じ表情であった。つまりはセイボリーにとっても、その瞬間は至福であるに違いなかった。彼の確固たる定義に則れば間違いなくそうであった。
 「さて」とどちらからともなく呟く。空気を読んだ絶妙のタイミングで彼女の鞄から飛び出してきたスマホロトムが「5時53分」を告げる。所在なく漂ったままのアナログ時計の長針と短針に指揮を執る。人差し指を宙で幾度か回し、5時53分ぴったりに合わせる。長針と短針の帰還を喜ぶように、秒針は規則正しくカチカチと時を打ち始める。今日の1分がこうして終わっていく。

「話の続きを聞きたくなったらまたこの時計を指さすといいよ。道場の壁掛け時計の方がお好きなら、また派手にやってくれると嬉しい。あれは……ふふ、正直かなり面白かった」
「あ、あなたねえ! ワタクシに、またしても弁償させるおつもりですか?」
「人聞きが悪いな。あの日に君が壊した分はちゃんと半分出すと言ったのに、君が代金を頑として受け取らなかったんじゃないか。全額をミツバさんに押し付けて、そそくさと逃げ出して、ねえ?」

 ええそうでした、そうでしたとも。などと苦笑しつつ相槌を打ちながら、このアナログ時計が次に狂うのはいつのことになるだろう、と彼は考えていた。これが正しい時を示す時間は、セイボリーにとっては短ければ短い程によかった。そしてそれを縮めるための「三本目の矢」を、セイボリーは既に喉元へ構えていた。いつどのように放ったものかと機を窺っていたのだ。
 目の前の相手が一矢報いるべく矢をつがえているなどとは流石の彼女も考えていないらしく、ひどく穏やかな表情で立ち上がった。そして思い出したように振り返り、二人の間に咲いていた花、彼女の話に相槌を打ったり首を捻ったりしていたあの花の前で屈んでから、右手の指でその花弁を撫でつつこんなことを語りかけた。

「貴方の名前は分からないままかもしれないけれど、それでも私達はちゃんと貴方を覚えておくよ。貴方が月であったことを、いつまでも」

 名前。そうか名前か。セイボリーはそう考えてにっと笑う。左の口角だけを上げた、いつもの調子付いた笑い方である。「ジョーカー気取り」を極めたひどく彼らしい表情である。立ち上がりこちらを見た「探偵かぶれ」は笑顔のまま訝しむように眉をひそめる。どうしたんだい、などと笑いながら、けれども彼女はそうした彼らしさをもうすっかり許している。

「さあ一緒に行こう、セイボリー」

 花を踏むリスクを無くすため、彼女は水辺を走ることを好む。靴が濡れるのもお構いなしだ。あの夜だってそうだった。セイボリーはそれに倣うようにして足を踏み出した。染み込んできた透明な水の冷たさに思わず目を細めた。水辺の中央辺りで彼は立ち止まった。あの夜に月が欠けたのも、丁度この辺りであったかもしれなかった。

ユウリ!」
「何かな?」
「恋人という名前にしましょうか!」

 心臓を穿ってやる、などという気概で放たれた大声。機会がなければそのまま持ち帰るつもりでさえあった三本目。振り返った彼女は不思議そうにしていた。「私達がこの花を名付けるってこと?」と、予想通りの誤解を為している。誤解を生ませるよう意識して放った矢だ、そうならなければ意味がない。

「それは随分とロマンチックだね。でも黄色い花に恋をあてるパターンは初めて聞いたかもしれないな。そういうのは真っ赤な花の専売特許で」
「花の話をしているんじゃないんですよ!」

 セイボリーはいよいよ得意気に微笑む。その鎧の下、心臓が張り裂けそうになっていることを、この名探偵にさえ悟らせずに。

「どうですか? その名前がワタクシとあなたの間にあれば、もっと頻繁に『1分』を作れると思いますよ」
「……それは、素敵な提案だね、とても」

 茫然と呟かれたそれは消え入るような声であった。やや高めの声でもあった。女の子、を悉く極めた顔色にも見えた。探偵の「冠」が外れているという自覚さえなさそうであった。
 ジョーカーは、容赦しなかった。

「あなたの1分、これからずっとワタクシに下さいませんか」

 その言葉を受けて彼女の顔に花が咲いた。そう、彼の焦がれた相手が溶けるように笑った。ならばそれが今日という日における、全ての正解に違いない。

 歩幅を大きくして水辺を駆ける。濡れた靴で隣に並びそちらを伺う。彼女はセイボリーを見上げて、右の口角を上げて笑う。彼の笑みを鏡映しに真似た表情だと気付いてしまい、上手く笑うことが難しくなってしまう。
 指を絡めるように結んだその手に力が入る。此処から道場まではどんなにゆっくり歩いたところで10分と掛からないはずだ。さてどうしよう、あと10分で離してやれる気がしない。やはり腕時計が必要だ。鞄に手を入れて探るという手間をかけさせずとも、欲しいと思ったその瞬間に、すぐにでも彼女の1分を受け取れるものが。たった一指し、それだけで、二人だけの永遠を保証してくれる最上のものが。

2020.7.10

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