4-2:Jの鎧、Qの冠

「私は、探偵に憧れていなかった頃の私を思い出せないくらい、もう、ずっと前からこうだったから」

 細い喉から零れたそれには、男性的な口調も力強い断定も、落ち着いたコントラルトの響きも存在しなかった。オペラ歌手が壇上で奏でる声とそうでない時の声、それ以上の開きさえ感じられた。不安そうに、縋るように、警戒するように、祈るように、そっとこちらを見上げてくる紅茶の色。その目の主は間違いなく彼の焦がれた相手であるはずだ。にもかかわらず、別人ではないかと疑ってしまいたくなる程の変貌がそこにはあった。劇的であった。神秘的であった。魔法のようでさえあった。

「これを剥がして君と向き合うのは、とても難しいことのように思えていたの」
「えっ、あ、剥がす……」
「でも、ふふ、思っていたよりずっと簡単だったね」

 セイボリーは青ざめた。先程の「捨ててください」という発言、彼女の鎧を脱ぎ落とさせるための発言が、いつか彼自身が投げた「とんだ的外れ」である可能性に思い至ったからであった。揃いであるかもしれないと喜んでばかりで、彼女がその「探偵」の鎧に並々ならぬ愛着を示していることを推し量れなかった。
 これは必要な配慮だった。欠いてはならないタイプのそれであった。慌てて体の向きをぐるりと変え、彼女へと向き直る。少女は驚いたように体を跳ねさせる。随分と、その肩が小さく見える。

「えっと、違うんですユウリ! あなたの化けの皮を剥がそうとしているのではなく! いえそもそも、それが化けの皮であるなどと思っている訳でもなく!」
「えっ?」
「あなたが纏っているそれ、その探偵かぶれとやらがもし『鎧』であるのなら、何かしらの無理があってそうなっているのなら、そんなものは今だけでも外して楽になってほしいと、そういう意図であって! 決して!」
「……ふふ、うん、知っている」

 彼女自身が軽い錯乱の様子を呈した際、セイボリーは「骨を折られたいんですか」などという質の悪い言葉でそれを諫めた。けれども彼女はそうしない。ただ笑って、彼の言葉を受け入れるのみであった。探偵という鎧を脱ぎ落とした彼女は、それでも尚、セイボリーよりもずっと広く深く誠実な何かをその小さな体に飼っているのだ。

「知っているよ。君のことだけは私、ちゃんと知っているの」

 いつからであったかはもう定かではないが、今のセイボリーの中には、彼女の魂が何よりも尊く何よりも美しいものであるという、彼だけの真理が存在する。その少女があの日曜の午後、たった数滴の結露であったとはいえ、空よりも薄く海よりも澄んだあの青を取り込み幸せそうに笑ってくれた、あの瞬間を思い出す度に、彼はただただ誇らしい気持ちに満たされる。
 今の彼女も、あの時と同じ表情をしている。であるならば、それ以上に素晴らしいものなど他には存在しないように思える。細めた彼女の紅茶色の瞳、そこへ僅かに自身の水色が差すこの一瞬を、セイボリーは「至福」と定義したくなった。幸せ、という感情が己の中に馴染み始めているという事実は素直に喜ばしい。それがこの少女からのものであるならば、尚の事。

「君が時間をかけて、言葉を尽くして、丁寧に教えてくれた君自身のこと、ちゃんと分かっていたいって、思うよ」

 この鎧を脱ぎ捨てることはきっと、彼女にとって必要なことではなかったのだろう。彼女の話を聞くに、慣れ親しんだそれ、子供の頃の純粋な「憧れ」から好んでしていた振る舞いが、長く続けているうちに心理的装甲へと化けてしまっただけのことであるようだった。つまりは端から「鎧」とすることを目的に纏ったものではなかったのだ。
 彼女は好んで身に着けた「探偵かぶれ」に正しく愛着を抱いていた。その後で、生きるために必要だと判断し、その愛着を「鎧」に化かすことを選んだ。セイボリーは必要性から「鎧」を身に纏い、使い続けた。そこへ生まれた愛着が、彼の「ジョーカー気取り」を確固たるものにした。結果として揃いの様相ではあったけれど、その過程は真逆である。それを手放すことへの意味だって当然のように大きく異なる。
 それなのによくもまあ、そんな大事なものを「捨ててください」などと、言えたものだ。
 彼女がいたく気に入ったそれを「捨ててくれ」と無理強いしたのは他でもない彼自身である。重装備を外すことは気分を楽にするが、自らの体と癒着してしまった皮を無理矢理剥がすことには強烈な痛みが伴う。セイボリーが強いたのはまさにそうした痛みを伴うものであったのかもしれなかった。けれど、そう、彼女はそんなものにさえ従ってしまったのだ。彼のために、懸命に「揃い」を為そうとしているのだ。

 こんな男のつまらない懇願に、彼女はどこまでも誠実に、健気に応えている。男性的な口調も理知的な論理も冷淡な合理も全て捨てて、ただの女の子として口を開き、いつもよりもずっと高く幼い声でこちらに何もかもを明け渡してくる。
 そして不思議なことに、……そう、実に不思議なことではあるのだが、彼女が明け渡してきているはずの何もかもが、セイボリーの致命的な「何か」を余すところなく奪い取っている。

「……あなたは」

 その「何か」はきっと心臓だ。セイボリーはとっくに心臓を奪い取られていたのだ。おそらくこの瞬間、彼の心はもう一度、その厄介で非合理な想いの奈落に足を踏み外していたに違いなかった。それはそれは滑稽な有様で、真っ逆さまに落ちていったのだろうと認めざるを得なかったのだ。一度目の転落がいつだったのか、その致命的な瞬間を特定することはもうできない。いつからだったのか、などもう分からない。けれども二度目のそれは間違いなく「今」であると断言できた。それ程にこの瞬間は決定的であった。忘れたくとも忘れられるはずがなかった。

「分かってくださっています。ワタクシのことを、十分すぎる程に」
「……」
「ありがとうございます、その、……揃えてくれて」

 また、落ちた。落ちてしまった。けれどもその落下を彼は悔いなかった。むしろ喜ばしいとさえ思った。落ちた先に彼女がいると知っていたからだ。独りではないと分かりきっていたからだ。二人の靴底はいつだって同じところにあり、その大小の足跡だって、これから先も、いっとう近しいところに並べられて、揃えられていくのだと、彼はようやく確信できたのだった。

『もう二度と君に、寂しい思いなんてさせないよ』
 十分です。十分すぎる程だ、ユウリ

「こんな私を見せたところで、良いことなんか何も起きないだろうって思っていたの」

 彼女はこちらからの追及を受ける前に、こうして自らの心地を開こうとしてくれている。彼女の誠意は鎧を外しても尚、健在であった。つまりは「探偵」の気質がそうさせたのではなく、彼女そのものの有様として誠実であるということに違いないと思った。だからこそ彼は遮ることなく静かに相槌を打った。

「むしろ君を驚かせてしまうんじゃないかって、嫌な気持ちにさせてしまうんじゃないかって、怖かった。でも、違ったね。君がこんなにも喜んでくれたし、私にも良いことがあったんだもの」
「……何か、変わってしまったことがあったのですか?」
「うん、大したことじゃないよ、私が勝手に喜んでいるだけ。君は、私がどうあったとしても私のことを好きでいてくれるのかもしれないって、そんな風に思ってね、嬉しくなったの。それだけ」

 そうした可能性を照れるように、それが驕りであることを自覚し恥じるように、彼女は年相応の少女のままに、いやもっと幼い子供のように、頬を赤くして笑っていた。どうしよう、とセイボリーは思った。大変なことだ。これはどうしようもなく、大変なことだ。
 彼女が先程察したように、己の「可能性」を「確信」に変えることを求めたのはセイボリーの方である。彼女は求められる側である。その変化のために言葉を尽くす側である。そのために慣れ親しんだ探偵の鎧まで外している。彼女の準備は万全であると言っていい。にもかかわらず、彼女のこのような発言を聞いてしまっては、先んじてセイボリーの方が動かずにはいられない。
 彼は今すぐに、その「かもしれない」を「違いない」に変えてしまわなければならなかった。「可能性」を「確信」に変えてしまわなければならなかった。そう、今すぐに!

「そうですよ! その通りだ! あなたがどうあったとしても、あなたのことが好きだ!」

 彼女はぽかんと音が零れてきそうな表情を作った。そして数秒の沈黙を挟んでから、顔を真っ赤にした。今にも泣きだしてしまいそうだった。これ程までの赤みと狼狽ぶりはこれまで見たことがなく、セイボリーは羞恥を忘れて茫然とした。
 それは、探偵めいた振る舞いを捨てた彼女だからこそ表出することの叶った感情であり、表情である。長く同じ道場で修業をしてきた妹弟子の、全く新しい表情である。それを見て、セイボリーは確信せずにはいられない。
 つまりこの言葉、セイボリーの発言の真の意味は、彼女がその装甲を外さない限りはどう足掻いても届かないものだったのだ。彼女が「探偵」で在り続ける限り、永遠に理解されることのなかったものだったのだ。あの夜の「告白」、それをセイボリーが何度繰り返したところで、探偵かぶれを貫いたままの彼女には正しく伝わるはずがなかったのだ!
 ああ、と、言葉にできない感情が彼を満たした。有り体に言えば……そう、どうにかなってしまいそうだった。

 何度か告白紛いのことをしてきたにもかかわらず、好きだと明言さえしてきたにもかかわらず、彼女がそのことに心をほとんど乱されず、安定した強さだけを着々と得続けていたのは、おそらく、その「好意」の種類、分類、その他諸々のタグ付けを、絶妙に間違えた状態で取り込んでいたからであったのだろう。親愛か、憧憬か、家族めいたものか。中身は分かりかねるけれど、間違いなく「こう」ではなかったに違いない。セイボリーが投げたそれと彼女が受け取ったそれは、今の今まで全く別の様相を呈していたのだ。
 それが彼女の、自分に都合の良い情報を警戒する、探偵めいた気質から来ることくらいは察しが付いた。とりわけ「こういうこと」に関して度の過ぎる程の慎重さを発揮したくなるのも無理からぬことだ。けれど、それにしたって此処までの誤解はあんまりではなかろうか。どれだけ伝えてきたと思っているのか。どれだけ。……ああ、でももういい。構わない。だってもう分かっている。彼女は今度こそ本当に、ちゃんと分かっている。

 その、常日頃から彼女を守っていた警戒心を取り払い、たった一つの想いを突き付け今度こそ認めさせることに成功したという点において、……彼の「捨ててください」という懇願は、きっと意味があったに違いない。

「ご存知でしょうユウリ。あなたは知っているはずだ。これがどういう意味なのか、今度こそ分かっているはずだ」

 懇願ではなく断定の、そして確認の形を取ったその問いかけに、彼女は真っ赤な顔のまま何度も頷いた。頷く度にぽろぽろと、幼さを極めた水が紅茶の目から滑り落ちていった。セイボリーは一瞬だけ躊躇った後で、「二本目の矢」として用意していたそれをポケットから取り出した。

 かつて彼が怪我をした時、止血を行うため、彼女が見事な雄々しさで破いてしまったハンカチがあった。真っ二つになり血で汚れたそれを修繕することなど勿論叶わず、かといって随分と古く珍しい品だったようで同じものを調達することもできず、セイボリーは自らのセンスで代替品を用意するしかなくなってしまったのだ。ハンカチ選びは困難を極めるかと思われたけれど、つい先日の彼女の言葉が彼の迷いを一気に押し流していった。

『私はずっと、これに染まりたかったんだよ。だって一目惚れだったんだもの』
 あんなことまで言われてしまっては、これ以外の色を選べるはずもない。

 彼女は顔を上げ、そして目を丸くした。大きく見開いたせいでまた零れた。苦笑しつつ、両手でそれ……淡い水色のハンカチを広げて掲げて見せれば、何故だか先程以上の勢いで泣かれてしまった。ついには嗚咽さえ零れてくる始末だ。慌ててハンカチを畳み、右手の上に乗せ、左頬を包むようにそっと押し当てた。

「お気に召していただけたようで何より」

 彼女はセイボリーの右手ごとそのハンカチを両手で包み、ころんとそこへ頬を寄せた。「ありがとう」と囁くように紡いできたので「どういたしまして」と歌うように返した。「嬉しい」と口角をほんの少しだけ上げた状態で呟かれた。「それはよかった」ともう一度肯定した。すると「違うよ、ハンカチのことだけじゃ、なくてね」と、嗚咽を飲み込むための沈黙を挟みつつそんなことまで告げてきた。いよいよ顔を赤くしたセイボリーを見て、目まで赤くした少女はクスクスと花のように笑った。

「君は、私のことが好き」
「ええ」
「認めるとか、支えるとか、お揃いを喜ぶとか、許し合うとか、そういうことだけじゃなくて、本当に、そういう意味で私のことが、好き」
「よくできました」

 安心したように、彼女の目がそっと閉じる。下りた幕の端、ハンカチを当てていない右の目から落ちてきたそれを思わず指さす。ふわりと浮き上がった一滴に、彼女が一目惚れをしたという水色が宿る。右から零れた分はハンカチに、左から零れた分はテレキネシスに。全ての涙を水色に引き取られているという状況を、さて、目を開けた彼女はどんな顔色で見るのだろう。

「あなたが、あなたのために泣くところを始めて見ました」

 自覚があったのだろう、彼女は更に口角を上げて小さく頷いた。ゆっくりと目を開けた彼女は、けれどもセイボリーの予想に反して、彼がハンカチを持っていない方の指で彼女の涙を浮かせているという事実を発見しても、驚かなかった。ただひどく愛しいものを見るように、至福を極めた目の細め方をするのみであった。すっかり泣き止んだ彼女は穏やかな笑みを見せつつ、彼が差し出した「確信」に従い、お得意の推理を披露してくれる。

「何となく、君なら、そうしてくれる気がしていたよ」
「……フッ、ハイハイ! それはご明察! 相変わらずですね、お利口な名探偵さん」

 名探偵。その単語を受けて、彼女が一回、瞬きをする。生理現象に従った自然なものではないことくらいすぐに分かる。緩慢な動きで見せつけるように為されるそれは、明らかに意図的なものだ。タイミングを見計らった上で為される、演出の様相を呈したものだ。
 実に劇的な変化である。夜を朝にするような、晴れを嵐にするような、花を果実にするような、魔法めいた神秘性で、彼女は先程までの幼さを完全に排していく。緩慢に閉じて、勢いよく開いて、そうしてこちらを真っ直ぐに見る彼女は、もうただの女の子のかたちをしてはいない。厄介な好奇心と追究性とを併せ持つ、強靭な紅茶の色が鋭くこちらを射抜くばかりだ。

 おかえりなさい、と優しく迎え入れることもできたけれど、それはきっと彼らしからぬことだったのだろう。その心地に従う形で「お見事ですね」と冷やかせば、彼女はいつもの聞き慣れた、透き通る気取ったコントラルト、彼の焦がれたその音で「君の真似をしたんだ」と、よく分からないことを奏でて、笑った。

「ねえ、とんでもないことをしてくれたものだねセイボリー。『可能性』を『確信』に変えなければいけないのは私だったはずなのに、随分な横取りがあったものだよ!」
「ええ、自覚はあります」
「……それで? 私はやっぱりこのまま、君の確信を支えるだけの情報を開示しなければいけないのかな?」
「是非お願いしたいところですね」

 勢いに任せるようにして、いつもの調子でさらさらと捲し立てた彼女は実に楽しそうであった。愛着のある鎧に袖を通したことを喜んでいるような口ぶりだった。彼女の愛した装甲は、むしろ品の良い装飾品……いっそ「冠」としても良いくらいに素晴らしく美しいものである。それを一時的にではあるものの、捨てるようになどと懇願したことを改めて反省しながら、それでも彼はしっかり強情を発揮していく。彼はもうこの少女、小さく気高い探偵に対して、自らの欲しいものを口にすることを躊躇わない。

「先程のあなたの反応で、もうワタクシの確信には十分すぎる程です。それは間違いありません。ただあなたもご存知の通り、ワタクシは」
「質が悪いんだろう? 知っているとも、それはお互い様だから仕方がないね。君が望むならまあ、やぶさかではないのだけれど……ただ、長い話になるかもしれないよ?」

 そう告げて、彼女は脇に置いていた鞄に手を突っ込み、奥の方から小さなアナログタイプの置時計を取り出した。プラスチック製のガワをしたそれは、あまり高価そうには見えないが傷一つなく、使用感の全く感じられない綺麗なものであった。彼女はその文字盤をこちらに見せつけるようにして差し出し、楽しそうに笑っている。5割の驚き、3割の呆れ、2割の期待がセイボリーの心臓を揺らしていく。おやこれは、一矢報い返されたか。そんなことをセイボリーは思う。思って、どうしようもなく楽しくなる。
 あの万能なスマホロトムにアラーム機能が付いていないはずがない。古風なアナログ時計を持ち歩く必要性など本来は何処にもない。にもかかわらずこんなものを新しく調達してきた妹弟子の思惑、セイボリーにはそれがいよいよ透けて見える。再演を望んでいらっしゃるのであればお望み通りに。そんな風に思いながら、先程からずっと引き取ったままであった彼女の一粒、それを宙でパチンと弾けさせて指を構え直す。足並み揃えた質の悪さが本当にただ愉快であり、喜ばしくてならない。

「長い、ね。具体的には?」
「1分」
「フッ、あっはは! そうですか、1分ですか、では何の問題もありませんね!」

 セイボリーはその人差し指を時計に向けた。思いきり曲げることは造作もないが、これからも幾度となく活躍してもらうことになるだろうから、針を曲げるようなことはしないでおこうと思った。くいと宙を混ぜるように指先を回し、短針と長針を水色に染める。彼等を何度も回転させてから、宙に漂わせる要領でふっと開放する。二本の針は進む先を決めかねているかのように、12と1、5と6の間をゆるゆると彷徨う。たった一本で規則正しい時を刻もうとしている細い秒針に些かの同情心を覚えつつ、顔を上げれば、彼女は先程と同じ、至福を極めた目の細め方をしている。

「準備ができましたよレディ。さあどうぞ、いつまででも」

 お道化たようにそう告げて笑うこのジョーカーは、さて近いうちに何か口実を作ってこの唯一無二の相手に、もっと繊細かつエレガントに「狂う」ことが叶いそうな時計を贈れないものかと、そうした新しい、ささやかな夢を見始めている。機械式の腕時計がいいと思った。取り残された秒針さえ連動して動くあの繊細な造りの全てをこの水色で染めてやりたいと思った。きっと彼女は喜んでくれる。その確信の中に揺蕩うのは心地がよかった。とても。

 探偵かぶれも、ジョーカー気取りも、実に二人らしい揃いの装甲である。二人が二人であるための誇らしい「鎧」であり「冠」である。でも少しだけ、それらを忘れて、敢えて捨てて、息抜きをする時間があってもいい。それだけだ、今日のこれはきっとたったそれだけのこと。
 「私は」と、静かに零れたコントラルトボイスが午後の晴天を軽やかに滑る。探偵の告解に耳を傾ける者など、この男と、足元の黄色い花以外にありはしない。

2020.7.9

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