End:/600は明日も踊るように

 道場の扉、その目の前まで来たところで二人は立ち止まった。手を離すタイミングがあるなら今がその時だろうと互いに判断し、そこに込めていた力をどちらからともなく緩めていく。名残惜しくはあったが、寂しくはなかった。
 けれども完全に解かれる前に扉が勢いよく開いた。「ヒャア!」と悲鳴が飛び出したのは不可抗力である。飛び出してきた「ミセスおかみ」は二人が今すぐにでも手を離そうとしている姿を認めるや否や、至極楽しそうに笑いつつ、こう言ったのだ。

「おや、おめでとうセイボリーちゃん! ようやくかい!」
「……ようやく?」
「とうとう成功したんだろう、告白が。鈍い相手を好きになっちゃったせいで、だいぶ苦労したんじゃないかい? よく頑張ったね」

 セイボリーは咄嗟に、離れる寸前まで緩められていた手をきつく握り直した。彼女はというと、その行動の意図を汲みかねているらしく、分かりやすい狼狽をその顔に乗せた。「ええ」とセイボリーが肯定の意を示す返事をしたことで、彼女の狼狽はより強くなった。なんてことを、とその表情は雄弁に語っていたので、そんな彼女にも、そしてミセスおかみにも知らしめる形で、セイボリーはいつかと同じ言葉を選ぶ。

「ワタクシ、やりました! ええ、頑張りましたとも……!」

 空いている方の手で涙を拭う真似さえしてみせる。ミセスおかみは声を上げて笑い、少女はひどく赤面する。「ねえ、どういうつもりかな」と小さく呟きこちらを睨み上げる彼女は、けれども手を離すことをもうすっかり諦めてしまったらしく、むしろ結んだそれを、セイボリーを引き寄せるための手綱にする始末だ。一筋縄ではいかないところも実に彼女らしい。

「あなたの態度が全く変わらなかったものですから、ミセスおかみはワタクシがあの夜にフラれたものと思っていたようです。心配をお掛けした身としてきちんと報告はしておかねば、ね」
「そうだったの? そんなに私は、冷たかったろうか」
「第三者の視点に限定していえば、イエスですね。いつも通りのあなたに振り回されてばかりの、憐れなウールーことワタクシ……という風に、傍目には見えていたはずですよ」

 ミセスおかみが道場の中に再び入っていったのを見計らってから、セイボリーは彼女の疑問に肯定で返した。やや傷付いたような表情を見せる彼女に、おやと思いつつもエレガントに傾聴の姿勢を貫いてみる。数秒後、その小さな口から爆弾が降ってくることになるとも知らずに。

「私なりに、喜んでいたつもりだったんだけどな。期待をしないように、自惚れないようにと努めるような、そうした自制の過ぎるきらいはあったかもしれないけれど」
「自制? ……フッ、あはは、自制! 自制ですって? こんなにも分かりやすい相手に対して期待もできない自制なんて! あなたって本当に厄介極まりない!」

 エレガント、は見事に瓦解した。清々しい爆発であった。虫唾のランニングパーティは本日も大盛況のようだ。ウィンナワルツの訛ったハイテンポのそれがぐるぐるとセイボリーの脳髄に木霊し始めている。こうなるともう手が付けられない。激情に任せ、どかどかと溢れ出すとんでもない言葉達をもう止めようがない。道場の扉が開いたままであることに思い至れる余裕などあるはずもない。

「そんな役に立たない自制なら、クタクタに煮込んでヤドンのサパーにでもして差し上げれば如何か! あなたの自制も警戒も慎重さも! ことワタクシに関してはいつだってとんだ的外れ、で……」

 そこまで叫んで、ようやく気付いた。俯いた彼女の体が、不自然な揺れ方をしていることに。
 噛み殺し切れなかった笑みが零れている。分かりやすく肩が震えている。愉快さからくる笑いはセイボリーにとって許容と承認の象徴であり、「ジョーカー気取り」を纏っている身としては歓迎すべきところであったはずなのだが、どうにもこれはいただけない。

「……ふふ、何、どうしたんだいセイボリー。続けてくれないの?」
「あの、もし、ユウリ。笑うのはおよしなさいな。ワタクシ、これでも半分くらいは本気だったのですよ」
「分かっている、ちゃんと分かっているよ。でもすまないね、やっぱり半分くらいは面白いから、笑わずにはいられないんだ!」

 いただけない、はずなのだが、彼女がずっと楽しそうに笑ってくれるものだから、それでいて「臆病はもうやめるよ、君に対してだけはね」と新しい約束まで付け加えられてしまったものだから、セイボリーはいよいよ追撃する意味を失い沈黙するしかない。脳内で煩く弾んでいたウィンナワルツはもうその激しさを失っている。後にはもう、子守歌のように緩慢で緩やかな旋律が細々と流れるばかりだ。

 呆れ半分、喜び半分といった心地でいると、開いたままのドアの奥から「ほら、入っておいでよ!」と声が聞こえる。そちらへ顔を向ければ、香辛料の複雑な香りが鼻を掠めていった。どうやら今日はカレーらしい。
 まだ笑い続けている彼女の手を今度はこちらが引く。彼女は呆気ないほど従順に付いてくる。力を込める必要はまるでなく、それ故に、手を引いているという実感さえセイボリーは持てなかった。まるで、手を支点として一体化しているかのようだった。二者の心臓の鼓動まで揃いであるのかどうかを確かめてみたら楽しいかもしれない、などと、ほんの一瞬だけ思ってしまった。

「あっ、二人共おかえりなさい!」

 挨拶まで一括りにされてしまい、手を離すタイミングがまた遠のく。故に二人はまだ一つの形を取ったままである。門下生のメンバーは、年長の男性も小さな男の子も誰一人として、手を繋いだままでいる二人を見ても驚かなかった。ただ何名かの年長組が「へえ」「よかったな」とにんまり笑って祝福の言葉を投げるのみであった。そのことに彼女は少しだけ照れた様子を見せる。そのゆるい表情のまま、彼女はテーブルの上に視線を移し、その目を大きく見開いた。釣られるようにして彼もそちらを見遣り、息を飲んだ。

「やれやれ、ガラルの雑誌関係者様は余程お暇なようだね。私なんかのオフを記事にしてどうするつもりだったんだろう!」

 そのガラル情報誌にはセイボリーの予想通り、「新チャンピオンのユウリ」の記事が載っていた。遠くからでも分かる、大きく載せられた一組の男女の写真。黒い部分はおそらく、男性が被っていると思しきシルクハットだろう。「また厄介なことをしてくれたね」などと苦笑しながら、そこで初めて彼女はセイボリーの手を離した。
 早歩きでテーブルへと歩み寄り、それを取ってパラパラと開いてから顔を上げ、困ったように笑ってみせた。そこには「不適正への恐れ」を示す影など微塵も見当たらず、ただ「ちょっとうんざりしている」とあの日告げたのと同じ、分かりやすい辟易が漂うばかりである。

「ねえ皆さん、これを読んで嫌な思いをしたんじゃないかい? 私が働いた不適正のせいで、この道場にまで泥を塗るような真似をしてしまったから」

 完璧な笑顔だった。普段通りの口調だった。そんな調子で口にするのは、自身の恐れや憤りではなく、周囲への配慮である。そう、配慮である。いつものように「とんだ的外れ」だと笑ってやろうと思った。けれどセイボリーが叫ぶまでもなかった。彼女は、セイボリーだけに好かれている訳ではなかったからだ。すなわちそれを聞いた門下生たちが、わっと彼女のところへ駆け寄り一斉に捲し立て始めたのだ。

ユウリがいい加減な奴じゃないことはよく知っている」「誰もお前が此処に泥を塗ったなんて思っていない」「雑誌なんて好き勝手に騒ぎ立てるものだから気にしなくていい」「随分と勇ましく暴れてきたみたいじゃないか、よくやった」「今度ユウリの悪口を言う奴がいたらオレがやっつけてやる」「チャンピオンなんてのは清く正しく強ければそれでいいんだ」「これからも堂々としていればいい」「此処にいる奴等はちゃんと分かっている」

 それはこの道場へ来たばかりの頃、セイボリーが彼等に浴びせられた言葉の温度によく似ていた。気さくで純朴なこの道場の門下生たちには一切の毒気がなく、セイボリーが彼等に傷付けてしまったことはあれど、傷付けられたことは一度もなかった。問題を起こしては一人外に出て落ち込む彼が何時間そこにいたとしても、帰ってくればいつだって、温かい声掛けで道場の仲間に迎え入れられた。優しい彼等を待たせたのは一度や二度では決してなかった。
 そうして棘の類を少しずつ、少しずつ抜かれていった過去を持つ身としては、同じ温もりに彼女が包まれているという今の状況はとても喜ばしく、誇らしかった。僅かに顔を赤くして、ありがとうと繰り返しながら彼等の言葉を受け止めて笑う彼女を、セイボリーは一歩離れたところから見ていた。妙な心の満たされ方もあったものだ、と思った。
 このヨロイ島には、心の純な人しか辿り着けない魔法でも掛けられているのではないか。この道場で厳しい罰ではなく優しい許しを得る度に、セイボリーはそのように思う。ただ自分というイレギュラーが入り込んでいる時点で、その魔法にはかなりの欠陥があると言わざるを得ないけれど。

「その雑誌は、本当のあなたを見ようとしている訳ではない。あなたのことは、あなたを本当に大事に想ってくれている人だけが知っていればいい」

 飛びついてきた男の子の頭を撫でていた彼女にとどめを刺すべくそう告げる。困ったように笑いながら「それは私が君に言った言葉だろう? 横取りは感心しないな」と告げてくれることを想定しての発言であった。けれども悔しいことに、彼女はセイボリーの予想のずっと上を飛び越えていってしまう。

「君まで悪目立ちさせてしまって済まないね、悪い意味で君をとても有名にしてしまったよ。ご親族様にも君のことは筒抜けだろうね。……どう? もういっそ、一緒に悪役宜しく君の実家にでも乗り込んだりしてみるかい? 強くなった君の力で何連勝できるか試すのも面白そうだよ」
「じ、……実家とはまた、随分と大きなところを狙ってきましたね。あの家に顔を出すというのは、ワタクシがジムリーダーになりでもしなければ難しい話ですよ」
「じゃあなってしまえばいい」

 息を飲んだセイボリーに対して、少女はまったくの平静である。「できるよ、君なら」なんて、息をするように続ける始末だ。

「ポケモントレーナーに関しては、きっと、幾つになっても遅すぎるなんてことはないんだ。ポケモンは5歳の子供にも80歳のおじいさんにも、等しく愛情を差し出してくださる生き物だよ。私達に同じだけのものを差し出し返す気概さえあれば、いつまでだって、どこまでだって強くなれる」
「愛情を差し出し返す気概、ですか。そんなものがワタクシにあるとでも?」
「そうだよ、私が証人だ。そして今度は、君が夢を叶えられる人であるという証人になろう」

 この少女は彼のことを彼以上に信じてしまっている。押しつけがましくなく、過度に鼓舞するでもなく、明日の天気を予想するかのような気軽さで彼への信頼を言語化していく。そして彼女の「ねらいうち」の精度はピカイチだ。ならば「みらいよち」の精度が完璧であったとしても、何らおかしなことではない、のかもしれない。そしてセイボリーはもう、彼女のそうした不確定さえ信じることを躊躇えない。

「不安なら一緒に行こう、セイボリー。これから幾つ夢を叶えられるか楽しみだね」
「……いいえ! 不安なものですか! まあいずれ来るであろうその日には勿論、あなたも一緒に来ていただきますけれどね!」

 そんな返答を聞き、周囲の門下生たちが一斉に笑う。「まあそうなるだろうなあ」と年長の男性が面白そうに目を細めながら呟く。彼等の中で、二人はとっくに一組の形として認識されているらしい。どうしようもない問題児、騒がしい新入り共、どのような「一組」であるかは判り兼ねるけれど、二人がひとつであることを当然としている周囲の認識を、セイボリーはただ喜ばしく、そして面映ゆく思う。
 そうこうしているうちに、カレーの匂いが鼻に迫ってきた。どうやら鍋の蓋が開けられたらしい。その匂いを合図として、門下生全員で協力して夕食の準備が進められていく。その過程であの下らない雑誌はダイニングの外へと押し出されようとしていたけれど、それを目ざとく引き留めたのはミセスおかみであった。

「その雑誌、要らないならあたしに頂戴。一枚ずつ破いて、生ごみを包むのに使うから」

 道場の皆は顔を見合わせる。どっと笑いが起きる。この女性の一撃はどんなものであれ、何よりも効く。「実力」はこんなところでさえ折り紙付きであった。セイボリーなどではもう一生、頭が上がりそうになかった。
 完璧に整えられた夕食の場へ最後にシショーが着席し、食事が始まる。しばらく誰もが無心で食べ進めてから、ぽつりぽつりと言葉が零れ始め、やがていつもの喧騒となる。それがこの、最早「家族」と化した集団における日常の、夕食の風景である。食べ終えた離席者が一人、二人と増え、喧騒も少しずつ落ち着き始めた頃、徐にシショーが口を開いた。

「セイボリちん、もう切り傷はすっかり治った? ほら、鍛錬平原でやられちゃったやつ」
「ええ、もう跡形もありませんよ」
「そっか、そっか! きっと応急処置の仕方が良かったんだろうね」

 ちらりと視線を遣るが、彼女は浅く俯いたまま、カレーを咀嚼し飲み下すことに随分と熱心であった。コホン、とわざとらしく咳払いをすれば弾かれたように顔を上げ、しばらくの沈黙の後で「ああ、私のことだったんだね!」と合点がいったように苦笑する。

「師匠に私の手際を評価していただけるなんて光栄だよ。でもどうして急にそんな話を? 何か別件で、大事な相談事がおありなのかな」
「いやあ、ユウリちんもそろそろ、課題をクリアできた頃だろうからさ。食べながらで悪いけれど、もうここで評価しちゃおうと思って!」

 課題、と聞いて彼女は首を捻る。セイボリーは全く見当が付かない。そして彼女も思い至ることがないようである。けれどもシショーは慌てることなく穏やかに笑っている。まるで最初から計算づくだった、とでも言うような笑顔で。このために魔法で君をこの島へと呼んだのだ、とでも言いたげな、歌うような口調で。

「もう怖くなくなったみたいだね。チミらしく在ること、チミのしたいようにすること、チミ自身のために……捻くれることも!」

 ぴたり、と彼女のスプーンが止まる。掬い上げられていたマッシュルームがバランスを崩し、コロンと落ちる。丸いキノコがやや粘性の低いカレーの海に沈んでいく様をセイボリーはぼんやりと眺めていた。この、強さを極めすぎた二人のすぐ傍で、既にカレーをあと一口のところまで平らげてしまっている身としては、もうできることがマッシュルームの見守りくらいしかなかった、というのが正直なところであった。

「今のユウリちんなら、あっちでどんな目に遭っても大丈夫だろうと思ったよ。仲良しな二人に森のヨウカンを頼んだのは正解だったね」
「……ふっ、あはは! 流石は師匠、完敗だよ。本当に、何もかもお見通しでいらっしゃったとは!」
「そりゃあそうさ。家族のことくらいすぐに分かるもん。克服できてよかったね。うん、合格! チミたちの成長、これからもワシちゃんや皆にいっぱい見せてよね!」

 シショーは楽しそうに笑っている。彼女も笑っている。セイボリーは笑うことができずにただ息を飲む。
『これからは心も強くなっていこうね』
 この少女、シショーにさえ無敗を貫き、修行の必要性などないのではと思わせる程の強靭な精神を併せ持っていた彼女にも、克服すべきものが確かにあったらしい。あれは己だけに向けられた言葉ではなかったのだと、セイボリーは今更、気付く。

 彼女の強靭性がある種の装甲であったことを、セイボリーはこんなにも長い時間をかけて今日の午後、ようやく知った。長く、本当に長く、一緒の時間を共に過ごしたからこそ、彼は「彼女は不適正であることを恐れている」という仮説にやっと辿り着けたのだ。けれどもこの口ぶりでは、その装甲も、彼女の恐れも、シショーは最初から見抜いていたに違いない。知っていながら、何も言わなかったに違いない。
 シショーよりもずっと青く幼く拙い振る舞いしかできていなかったであろうセイボリーが、何も分かっていない状態のまま、全力でこの少女にぶつかっていく様を、この人はどう見ていたのだろう。それを考えるとにわかに恥ずかしくなった。けれどもそれ以上に、全てを知っていながら見守りに徹してくれたことについて、見限ることなくずっと此処に置いてくれたことについて、感謝の念が強まっていく。セイボリーは改めて、頭を下げずにはいられない。

「ありがとうございます」

 その声は、隣でスプーンを置いた彼女の声とぴったり重なった。彼女もまた、シショーに並々ならぬ感謝を覚えているようだった。同じように感謝を告げて、同じように頭を下げた二人を見比べるようにきょろきょろとしてから、歴代最強のチャンピオンと謳われたその人はニコニコと笑う。「うふふ、どういたしまして!」といういつもの陽気な声と共に、彼は小さなスプーンで残っていたカレーを一気に口へとかき込んだ。

 かくして夕食もつつがなく終わる。二人の成り行きを見守って楽しみたいらしいミセスおかみは、皿洗いを二人に任せて、今すべきでもないはずのトレーニンググッズの整頓を始めてしまった。勿論、時計の破壊や怪我や風邪など、彼女に多くの迷惑をかけた経歴を持つ二人に拒む権利などあるはずもなく、肩を並べてキッチンに立つことは最早避けようがなかった。

「ねえセイボリー、一ついいかな」
「おや、何です?」
「君ね、もし自覚があって自分のことを『ジョーカー』としているのなら、それはもう、随分と尊大で傲慢で高飛車で、とても……とても頼もしいことに違いないよ」

 皿やコップの擦れる音と、水の流れる音、カチャカチャ、ザーザーと断続的に鼓膜を揺らすそれは子守歌のようにも聞こえた。ひどく穏やかな心地で二人は軽口を叩き合った。テレキネシスを使わずとも二人の気分はすっかり「浮かれて」しまっているため、このような些末な任務であったとしても、随分と愉快な気持ちで取り組むことができた。水は冷たく、泡は滑らかで、隣から飛んでくる声は澄んでいる。非常に、そう非常に悪くない気分である。

「手品や曲芸はお嫌いですか?」
「そうじゃないんだよ、そっちの意味じゃなくて、……えっ、まさか君、トランプで遊んだことがないの?」

 彼女の尋ねたいことが分からず、セイボリーは首を傾げた。
 トランプのジョーカーは勿論知っている。古代の宮廷道化師をモチーフにデザインされた特別なカードだ。宮廷道化師はそのまま「コートジェスター」と呼ばれるが、そこまで改まった名前を己の「鎧」とするつもりは更々なかったので、「道化者」の意味合いで用いるのならジョーカーが適当だろうとの判断だった。
 彼女も今日の午後、あの会話の中ですぐに「ジョーカー」を理解したから、これが間違った使い方である、という訳ではないはずである。にもかかわらず、今の彼女には狼狽が見える。トランプのジョーカーを前提としていないことは、彼女にとってそこまで驚くべきことだったのだろうか?

「見くびるのはおよしなさいな。メモリーゲームやオールドメイドくらい経験済みです」
「どうしてよりにもよってそんなものばかりなんだ! ワイルドポーカーは? スピードは?」
「存じ上げませんが……どうしたんですユウリ。そこまで致命的なことなのですか?」
「致命的? いいや違う、決定的なものだよ」

 ぽちゃん、と泡の中にスプーンが落ちる。無数の泡がシンクの上に散る。表面に薄く虹を宿した小さな球体が、まるで意思を持っているかのように二人の間でふわふわと踊る。その泡の向こう、目の細め方だけでその至福をこちらへ伝えてくる彼女の小技を、セイボリーはほんの少しだけ羨ましく思った。

「ジョーカーは手元に来た瞬間、その人の勝敗を決定的にするんだよ。いいものであれ悪いものであれ、ジョーカーはいつだってゲームの運命を動かしていく。あれは……そう、雷みたいなカードなんだ」

 雷、とセイボリーは口の形だけでそう紡いだ。よりにもよって「雷」とは!
 そんな単語を使われてしまってはもう分かってしまう。この少女が何を言わんとしているのか、とてもよく分かってしまう。
 つまりジョーカーというのは「不条理極まりない唐突さで」手元にやって来るおそれのあるカードであって、「論理も合理も一足飛びに踏み越える」だけの力を有したカードであって、「脳髄を一面、火の海にする」程度には威力のあるカードであって、すなわちそれは彼女にとって「運命を動かし得る決定的な」ものに違いないのであって。

『私に道を拓かせた唯一の色はすり替わったりしないよ。他の何色にも、染まるものか』
 彼女にとってそれは、そんな色は、もうたった一つしかあり得ないのであって。

「今度、皆で遊んでみようか。『君』がどれくらい頼もしく素晴らしく決定的なものであるか、思い知っていくといいよ!」
「……あ、あなたって本当に、どこまでも質の悪い人ですね!」
「そうとも、お互い様! どこまでも揃えていこうじゃないか。ね、セイボリー」

 吐き出した「質が悪い」の声は震えている。そうした彼らしい、水色の雷鳴を受けて、紅茶の目はいよいよ幸せそうに細められる。
 彼の指揮を受けずとも浮遊する小さな泡たちが、水の中、1分へ踊るように溶けていく。

2020.7.11

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