雨と草の匂いが混じっている。足元が滑りやすくなっている。服が水を吸って徐々に重くなっていく。これで気温があと5度ほど高ければ、不快感に眉をひそめでもしていたかもしれない。でも今は夕刻で、分厚い雲の向こうではきっと陽も沈みかけているはずで、清涼湿原から吹き込んでくる風も涼しく心地の良いものだったから、足元の不安定感や重たい衣服についてはあまり気にならなかった。そして、それは今日という日において非常に都合の良いことだった。もしも、この集中の森が非常に蒸し暑いことになっており、またそれにうんざりなどしていたなら、若干の不機嫌を誤魔化すように下を向いて足早に帰路へと駆けていたなら、この「発見」はもっと後のことになっていたかもしれないのだから。
それは森の奥からふわふわと漂ってきた。見たことのないポケモンかと思い目を凝らしたけれど、そんなはずがないのはすぐに分かった。モンスターボールを連れ歩くポケモンなんて聞いたこともない。ボールに擬態して、油断したところに飛び掛かってくるあのポケモンとなら昨日一戦交えたばかりだから自信を持って言える。あれはタマゲタケではない。その進化系でも断じてない。ボールを6つも携え、シルクハット然とした頭を持ち、かつその足を地に着けず、ふわふわと空中浮遊して現れるポケモンが、……もし本当にいるなら会ってみたいものだ。いつか新種として発見される時が来るのだろうか。
「セイボリー! どうしたの」
「!」
浮いている。いつもは物や他者を浮かせる側の彼が、その十八番であるテレキネシスをあろうことか自分にかけている。指一本で大抵のものを浮かせ動かせ思いのままに指揮する彼が、十の指全てにその指揮の構えを取っている。背中を曲げて、ひどく姿勢を悪くした状態だった。項垂れているようにも見えた。まるでチェンバロの演奏でもするかのように構えられたその指からは、見えない糸が垂れている。それが、私には及びもつかない次元のねじれを経て彼の四肢に括りつき、彼の体ごと「吊り上げる」ようにして浮かせている。そんな風にも見える光景だった。
その糸、自らが指揮せざるを得なくなった見えない糸にうんざりするかのように、彼は私を睨み付けた。デンチュラの巣にかかったポケモンのような目だった。8割5分の「近寄るな」と1割の「見るな」と、そして5分ほどの「助けてくれ」で構成されているように見えた。
これらの表現は私が、この目の前の異様な光景を自身に納得せしめるためのガタガタの論理であり、妄想と言っても差し支えないお粗末なものだ。でも論理だろうが妄想だろうがその事実は目の前にある。彼がひどく姿勢の悪い状態で、更には顔色や目つきさえも悪くして、ふわふわと浮かびながらこちらへとやってくる様は私を驚かせるに十分すぎるものだった。何か尋常でないことが起こっていることは明白であった。
「どうしたの、と聞いているんだよ」
「……どうもしませんよ」
そして、その「事件」をおいそれと白状するような彼ではないことも概ね察しが付く。勿論その、吐き捨てるような台詞で納得できる程、私は聞き分けがいい訳ではない。
「ねえ、答えて。どうして浮いているの」
「この雨ですからね、足など着けて歩いていられるものですか。エレガントな靴がヨゴ・レールでしょう」
「そのエレガントな靴とやらは何処へ? 履いていないじゃないか」
「フッ、今日は随分と機嫌が悪いんですね。この雨の中、ワタクシの詮索などしてどうなさるおつもりです?」
機嫌が悪いのは君の方だろう、という言葉をぐっと飲み込んだ。何せ彼が「悪くしている」のは機嫌だけではないはずなのだから。もっと別の重大な何かを悪くしているのは彼の方であるはずだ。いつまでもこんなことを言い争っている場合ではないのだ。
私はそうしたつまらぬ問答を彼と繰り返しながら、その腕へ、肩へ、首の後ろへ、靴を失った両足へ、と素早く視線を泳がせた。何か異常を有しているはずだ、と推理したが故の行動だった。けれどもこの犯人、隠蔽が非常に上手いらしく、それらしき箇所をすぐには見つけることができなかった。ただ、死角から人を、とりわけ喉元の辺りを刺すことに長けている彼にかかれば、私からは見えないように異常を隠すことなど造作もないことであったのかもしれない。ひどく顔色を悪そうにしている、こんな時でさえも。
「ほら、あなたも早く道場へ帰った方がよろしいのでは? このようなところでずぶ濡れになっていては体を冷やしますよ。ワタクシと一緒に風邪を引いてしまいたいなどという馬鹿な考えはおよしなさいな。ああもしかして、あなたも靴が汚れるのがお嫌で? でしたら特別に浮かせて差し上げても構いませんよ、如何です」
随分な早口、随分な饒舌。人が何かを隠そうとするときの典型的な変化だ。後ろめたいこと、見抜かれたくないことがあるとき、相手の意識を逸らそうとするため、次々に新しい話題を持ち出そうとするのはよくあることだ。多かれ少なかれ人にはそういう傾向がある。彼にも、そしてきっと私にも。
それが彼の防衛手段であることは分かっていた。それでも私は少しばかり苛立った。馬鹿にしてくれるな、どれだけ長く君と一緒に修行してきたと思っているんだ。君の強情さも、質の悪さも、その実臆病で繊細なところだって、分かっている。その性質が時に君自身の首を絞めていることだってよくよく理解している。
そこまで考えて私はわざとらしく息を吐いた。何としてでもこの男の隠蔽を看破してやろうという意気込みの表れでもあった。
風邪、という単語が先程の彼の言葉に紛れていることを思い出す。もしかしたら外部ではなく内部の異常かもしれない。川にでも転落して体を冷やし、熱でも出しているのであれば大変なことだ。やや焦った私は、いかにも不機嫌ですという表情をした彼の目元へとぐいと顔を寄せて、その額に手を置こうとした。これには流石の彼も不機嫌の装甲をぽろりと剥がし、純粋な焦りに顔を赤くする始末。けれども彼がそうして身を仰け反らせたその瞬間、その犯行の痕跡はぽとり、と鮮烈な色で落ちてきた。
「!」
目の覚めるような赤色をしていたのはほんの一瞬だった。長袖のユニフォームの袖口から零れたそれは、雨と混ざって色を薄くし、その淡い色合いのままに私の靴の甲へと落ちた。見れば浮いている彼の足元、赤い花など咲いていないのに地面がほんのりと赤い。頭を殴られたような衝撃から立ち直れず、私はしばらく沈黙していた。
その間に、左足の靴下で隠した部分から一滴。それから右膝の上、ユニフォームでギリギリ隠れている辺りからまた一滴。つまり、傷は袖口に隠された右手首のものも含めて三か所ある。ろくに止血もせずおざなりにしていた分が溢れてきていることは明白だった。彼は怪我をしている。それも、自分では歩くことができないレベルの怪我を。
「物理的なものじゃないね。きっと『サイコカッター』だろう。何処で貰ってきたの。どれくらい前の傷なの」
「……」
「セイボリー」
「ハイハイ! ご明察! 鍛錬平原のカラマネロと戦っていましてね、余波を頂戴してしまったんですよ。10分ほど前のことでしたか」
降参、とするかのように肩を竦める。浮く必要がなければその両手さえも広げてみせただろうけれど、今の彼の両手は、彼自身を浮かせた状態で維持することに大忙しだ。他の動作に少しでも意識を移せばその、彼自身を覆う水色の光はふっと消え、ぬかるんだ地面にその体躯がくずおれてしまうに違いないのだ。だから彼は両手の構えを崩さない。だから彼は悪態をつくしかない。
でも本当に? 本当にその十の指による指揮は必要だった? こんな怪我までしておいて、それでも彼は何かを浮かせていなければならなかった? 一人では歩くこともままならない状況に置かれながら、それでも彼は彼自身を浮かせて、誰の力も借りず誰にも助けを求めないまま、偶然顔を合わせた私にまで隠蔽の姿勢を貫き、そうして静かに痛々しく、帰らなければならなかった? そんな虚栄や見栄や意地で、彼は彼の何を救わなければならなかった?
馬鹿げたことを。
「ああそれにしても、傷口だけでどの技か、なんてことまでお見通しだなんて実にエレガント。ねえ、その観察眼には敬服しますよユウリ。デリカシーのなさはノン・エレガントと言わざるを得ませんがね!」
それが彼の最後の足掻きになるだろうからと、私は最後まで言わせた。吐き捨てるように言い終えて空笑いする彼は、けれども眉ひとつ動かさず無表情でいる私に気付くと、その虚勢をぱっと散らせてあからさまな怯えを見せた。叱られることを恐れる子供のような表情だ。馬鹿げていると思った。けれども彼が怯えるのはもっともなことだ、とも思った。だって私は彼を許していない。彼が許せていないであろう彼自身のことを、おそらく今だけは私の方がずっと重く深く、許していない。
「まだ浮いていられるね? ちょっとそのままでいて」
私は鞄をどさりと地面に下ろし、タオルやガーゼの類をありったけ引っ張り出した。包帯は切らしていたけれど、幸いにも鞄の底から予備のハンカチが出てきた。近くの手ごろな枝に軽く引っ掛ければそれは面白い程にあっさりと二つに裂けてくれた。これで手首と足首を両方圧迫できる、と計算を進めている私の目に、花のような形の染みが飛び込んできた。ほぼ同じタイミングで、彼が息を飲む音が聞こえた。私は、舌打ちをしたくなった。
赤い花の染み。それはどう考えても先程、彼の血と雨が私のスニーカーに落ちて出来たものだ。ちなみにこの靴は、ヨロイ島にやって来た時に、セイボリーに先んじて受け取ってしまった道着セットの一部だ。ああそんなことはどうでもいい。どうでもいいに決まっている。でもこの人はきっと、私の靴を自らの血が汚したことに焦って、謝罪と自責のための文句をつらつらとその甲高い声で並べ立ててしまうのだろう。ああなんて、なんて馬鹿げたことを!
「ユウリ、あの、もし」
「ごめんね、痛くするかもしれないけれど先に止血だけしておくよ。手元を狂わせないためにも集中したい。黙っていてくれないかな」
「お、お止しなさい! これ以上あなたの私物を汚す訳には」
「黙れと言ったんだよ、セイボリー!」
彼の肩が大きく震える。左足から、右手首から、ぽたぽたと血が落ちていく。地面に佇む小さな水溜まりが濁っていく。草の上に淡い色の花が咲いていく。眩暈がする。大きく息を吸い込む。大丈夫だ、見た目は派手だけれどそんなに大変な怪我であるという訳ではない。だから大丈夫、恐れなくていい。しっかりしろ。
「いいから、もう黙って」
手首と足首と太腿にそれぞれタオルを押し当てる。ミツバさんが丁寧に洗濯してくれているそれらは、面白い程に雨と血を吸っていく。少し動かすだけでも痛みが生じるはずなのに、今の彼は怪我の痛みよりも私に対する恐れが勝っているらしく、呻き声の一つも上げず、ただ顔を青ざめさせて沈黙していた。それとも「黙って」を遵守するため、呻き声さえ噛み殺しているのだろうか。確認したい気持ちになったけれど、やめた。彼の顔を、ひどく怯えた泣きそうな表情を真正面から見てしまっては余計に集中を欠く気がしたのだ。
いっそ人形めいた美しい、完璧な造形を有するこの人にも、私と同じ色の血が流れている。それを知ることができるのは素直に喜ばしいと思う。ただ、もっと別の状況で知りたかった。落とした硝子コップの破片で指先を切ってしまったとか、いつものテレポートダッシュで勢い余って躓いてしまったとか。そうした平和な状況で喜びたかった。笑い合えるレベルの怪我であればいい思い出になったはずだ。
こんな、こちらが死んでしまうのではないかと思うような恐怖のもとに知りたくなどなかった。
2020.7.2