2-1:久遠かな、狂った針の隙間より

 今日のセイボリーは随分と機嫌が良かった。聞くところによると同年代の門下生さん達に三連勝を収めたのだとか。どうして私はその場にいなかったのだろう。すぐに駆け付けて祝福できる場所にいられればよかったのに。タイミングが悪すぎる。あんまりだ。そうした悔しさが私に、称賛と共に余計な負け惜しみを吐き出させるに至った。

「それはおめでとう。今日は私も三連勝してきたから、お揃いだね」

 道場のダイニングで紅茶をごくごくと飲み下しつつ、にっと笑いながらそう告げる。なんて品のない飲み方だといつもなら窘められるところだったけれど、今日の彼は余程機嫌がいいのか何も言わない。私の、みっともなく張り合うような言葉だって、今の彼には「どろかけ」以下の威力にしかなっていないのだろう。口惜しい話だ。
 でもそれほどまでに彼が嬉しそうであること自体は喜ばしい。その喜ばしさが私の不機嫌を上手に塗り替えていく。そういえばこの紅茶は彼が用意してくれていたのだったか。もう少し味わって飲めばよかった。そうしたことにまで、ほら、この毒の抜けすぎた笑顔が隣にあればすぐ思い至れる。彼のせいで私はろくに捻くれることもできやしない。

「ええ、おめでとうございます。それにしてもお揃いですか。フッ……ワタクシがあなたとお揃いねえ」
「不服かな?」
「まさか、滅相もございませんよ。ガラルの新しいチャンピオンと勝利数の上でだけでも肩を並べられるなんて、ええ、ワタクシ、嬉しみが深い!」
「……その肩書きに恨みはないけれど、此処ではやめてくれないかな。もう『お仕事』の時間は終わったんだよ。君の前、この道場では、ただのユウリでいさせてほしい」

 シュートシティのトーナメントにはチャンピオンとして定期的に参加しなければならない。別にそのような規定はないけれど、求められるからそうするべきなのだろうと心得ている。ダンデさんはチャンピオン時代、毎日のようにあの場所へ顔を出していたようだ。惜しむらくは私にはそれほどのガラル貢献精神はないことで、私の場合、頻度としては3、4日に1回と、かなり落ちる。ヨロイ島を拠点とするようになってからはもっと間が空くのではないかと勝手に思っていたけれど、ガラルのジムリーダーの皆さんとはヨロイ島でよく顔を合わせてしまうため、流石にその場所で堂々と、チャンピオンの「怠慢」を晒し続ける訳にはいかず、3日に1回は必ず本土へ戻るようにしている。故に私としては本日「一仕事」してきた、という心持ちだった。

「実は決勝戦の終盤のみ、ワタクシもテレビ中継で観戦していたんですよ。あなたのトーナメントバトルというのはいつもあのように苛烈を極めるのですか?」
「えっ、あ……そうか、見ていてくれたんだね。確かにあの場所でのバトルはいつも盛り上がるけれど、今日のあの盛り上がり方はちょっと特別なんだ。私の、因縁の相手が彼の手持ちにいたものでね」

 本日はルリナさん、ダンデさん、ホップとなかなかに豪華な面々とのバトルだった。特に決勝戦では幾度となく冷や汗をかいた。ホップが容赦なく繰り出してくるガラルの「剣」をどう止めたものかと考えながら、最後まで有効打を編み出せず、結局は今日もインテレオンのダイストリームでごり押しをした。あの戦い方はきっと、この人に言わせれば「ノン・エレガント」の部類だろう。有効打として活躍できそうなデスバーンと一緒に特訓する必要がありそうだ、と思う。
 そうした「収穫」は確かにあった。そして剣のポケモンに手こずらされたものの、私とインテレオン達はしっかり三連勝を収めてきている。故に私だってセイボリーと同じように喜んで然るべきだ。機嫌よくあって然るべきだ。
 でも「その勝利と収穫の代償に彼の三連勝を祝福する機会を逃した」という事実がキリキリと胸を締め付けている。なんて悪いタイミングだ、と悪態付きたくなる。毒のない彼の笑顔を見て機嫌はもうすっかり持ち直していたけれど、口惜しさはまだなくならない。惜しいことをした、とは思わせてほしい。

「では今からはフリータイムということですね。ワタクシがその時間、全て頂いても?」

 けれどもその口惜しさを帳消しにするような提案さえ、機嫌の良い彼はニコニコとしながらこうして持ち掛けてくれるのだ。許可など必要なものか、と思いつつ、私は「勿論」と口にして笑った。
 この人になら大抵のものを差し出せる。時間を捧げることはその「大抵」の枠内に余裕で収まる。

「ただ、ポケモン達がかなり疲れているから、バトルはできそうにないんだ。……それにもうすぐ夕食だから、フリータイム自体もそんなにない。君のお気に召す時間潰しができるかどうか」
「ええ疲れている、そうでしょうね、そう見えます。だから別の形であなたの時間を頂きましょう。ですが確かに時間はあまり残されていませんね。今、何時です?」

 そう問いかけられ、私は大きな冷蔵庫に貼り付けられているマグネット式のアナログ時計に視線を移す。ミツバさんが夕食の報せをくれるまであと20分しかないことを、その長針は惨たらしくもはっきりと示していた。外へ出るにも、ダイマックスバトル以外の修練に勤しむにも、ジャージに着替えて筋トレ紛いの運動に励むにも、中途半端に時間が足りない。どうやらセイボリーもその結論に至ったようで、そのアナログ時計を見て眉をひそめていた。

「どれ、ちょっと見ていなさいな」

 けれども流石は破天荒な兄弟子、そこで終わるような柄ではなかった。彼はいつものように人差し指で時計をくいと指し示した。二本の針が淡い水色の光を纏ったかと思うと、次の瞬間、時の流れを完全に無視する形でそれらをぐにゃりと、曲げてみせた。

「……え?」

 いきなり時計を破損させにかかるとは思ってもおらず、素っ頓狂な声を上げる私の隣で、ニコニコと微笑む彼の奇行はまだ続いた。畳の間にある壁掛け時計、ダイニングテーブルの隅に置かれたアラーム機能のある時計、門下生さんの腕時計、とにかく針を使って時刻を示すタイプのものが全て狂っていく。錆びついたように動かなくなったり、倍速で動き出したり、風車のようにくるくると回ったりと、様々だ。
 異変に皆が気付き始めている。困惑、驚愕、歓声、その中に当然のように混ざる「セイボリー」という、犯人の名前。いきなり時計が水色の光を纏って瞬き始めたら、此処に暮らす者は誰だって「セイボリーの仕業だ」と思うだろう。見抜かれることなど分かりきっている。あまりにも愚かであまりにも露骨な悪戯。ねえ、君はどうしてこんなことを?
 そう尋ねようとした。けれども私が混乱の中で口を開くより先に、彼がもっと大きく口を開けて大声で笑い始めたのだ。

「あっはは! どうです! これでは誰も夕食の時刻など分かるまい!」
「えっ、いやスマホロトムがいれば時間なんてすぐ確認が」
「ほら行きますよユウリ! お察しの通り、今日のワタクシは気分がいいんです。あなたに話したいことが、沢山あるんだ! たった20分なぞで足りるものですか!」

 そのようなとんでもないことを言いながら、彼は私の手を取った。「ほら行きますよ」などと急かすような早口で捲し立てておきながら、椅子がひっくり返るのではないかと思うような荒々しい立ち上がり方をしておきながら、私の右手を握る手、そこに込められた力はあまりにも弱々しく儚いものであった。割れ物に触るような手つきだった。私は思わず笑ってしまった。馬鹿にしているのではない。嬉しかったのだ、とても。

 その気になればお得意のテレキネシスで私を思いのままに動かし、一緒に道場の外へと連れ出してしまうことなど彼にとっては造作もないことであるはずなのに、こういう時に彼はそれを使わない。私に、抵抗する猶予を与えているのだ。彼に従うか、拒むか。その選択権を私に委ねているのだ。愉快に厄介、質が悪い。そういうもので自らを装飾しながら、それでも彼の本質はこうした、ひどく誠実な思慮深いところにある。私はそれを理解している。理解してしまっている。
 だから私は微塵も抵抗せず付いていく。彼の誘いに従う形で「同意」を示し、ほんの少しだけ力を込めて握り返す。そうすることで彼の機嫌が益々よくなるであろうことを分かっている。私には、私のこんな些末な「同意」でさえ、彼を喜ばせるに足るという確信がある。

「こらそこの問題児二人! やってくれたわね!」
「ごめんなさいミツバさん、時計は後で弁償するよ!」

 機嫌が良すぎて加減を誤ったらしく、壁掛け時計の長針は文字盤を外れ、畳の上に落ちていた。曲がって、使い物にならなくなったそれを拾い上げ、ひらひらと見せつけるように振りつつ、ミツバさんが笑いながら私達を叱る。長く道場で寝食をさせてもらっている身であるから、もう分かっている。あの笑顔は本気で私達を引き留める気のないものだ。彼女のお説教を免れることはどう足掻いても叶わないが、「さきおくり」は容易であるようだった。故に私は謝罪のみ先に済ませ、彼女の笑顔に甘える形で、ぴたりと彼に付いていった。
 一方の彼は「問題児」というミツバさんの呼びかけに返事さえしなかった。子供のような振る舞いであった。道場にいる二人の男の子の方がまだ聞き分けがよかった。随分な退行である。私がそうさせてしまっているのであれば、さてこの想いというのは随分と質が悪いなと、少しばかり反省してしまう。

「ねえセイボリー! 君、ちょっと……ふふ、いい加減に落ち着いた方がいいよ。ほら、どうしたの?」
「どうしたのもこうしたのもありません! 20分ではタ・リーヌと言ったばかりでしょう。あなたに聞かせたいことが、良いことも悪いことも沢山あるのです」
「……良いことも、悪いことも?」
「ええそうですよ! ワタクシの三連勝を一番にあなたに褒めていただきたかったのに、とか、あなたの『因縁の相手』がワタクシの手持ちであればどんなにか喜ばしかったろう、とか、いつかワタクシもあのスタジアムであなたと戦えればいいのに、とか、でもそんな日はきっと永遠に来ないだろう、とか!」

 思わず立ち止まった。手がするりと離れた。彼は振り返った。まだ笑っていた。
 私は大きく首を振ってその水色を睨み上げた。勿論最後の言葉に対する否定と叱責であった。そのようなことを言ってくれるなと無言のうちに懇願した。するとその水色はすっと細まった。先程までの狂ったハイテンションが幻だったのではと思われる程の、息を飲む程に静かな水色だった。

「そうした全てをあなたに、話したくて仕方がなかった」

 彼は本当は、笑っていられるような精神状態ではなかったのではないか。彼は私の不在の間に達成してしまった三連勝に、画面の向こうで私が達成した三連勝に、どうしようもなく心を掻き乱されていたのではないか。やや不機嫌な状態で戻ってきた私に紅茶など入れている場合ではなかったのではないか。彼は、彼の心は最初から尋常ではなく、でも道場の中では「ご機嫌」を貫き、道場のメンバー全員を欺く形で、問題児として意気揚々と飛び出してきて。
 そのようにしてお上手に隠してきた心の内を、狂わせた時計の針の向こう側、今から、私だけに曝け出そうとしているのだ。

「聞くよ、セイボリー」
「……ええ」
「大丈夫、時間はいくらでもある。君が狂わせた時計の中、きっと私達はいつまででもこうしていられるよ!」

 今度は私が笑う番だった。彼の弱々しさを真似るようにそっと手を握った。彼は一瞬の逡巡の後で、にっと笑って握り返してきた。時計の針など壊れずとも、きっとこの人のためなら私は20分を永遠にまで引き延ばしたに違いないとさえ思えたのだ。

 ふざけるなら潔く貫き通せ。ヨロイ島の問題児二人は紫色の海へと駆けていく。壊れた時計。曲がった長針と止まった短針。聡明の過ぎるスマホロトムは空気を読んで出てこない。彼は子供のように笑っていて、私もひどく嬉しくて、それ以上など何も望むべくもないように思われた。
 ヒトデマンのコアが夕日を弾いてキラキラと瞬く姿に目を細めつつ、手を繋いだまま、白い砂浜へと腰を下ろす。さて話してもらおうか。終われば次は君が耳を傾ける番だよ。私も話したいことが沢山あるんだ。

2020.6.30

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