2-3:共に散れども

 応急処置はもう慣れたものだ。ワイルドエリアではこのようなこと、日常茶飯事だった。怪我をしたジムチャレンジャーに出くわさない日の方が少なかった。他者の血を見る度に粗雑なナースめいたことをしていれば、自然とこういう手際は身についていく。傷の種類も、その原因も、それが致命傷になるか否かも、なんとなく分かる。
 彼のこれは傷こそ派手で凄惨で、痛みもかなりのものだろうけれど、重傷ではない。慌てるには及ばないし、こんな怪我で「死」を連想する必要だってない。分かっている。理屈では分かっている。

「ねえ君、こんなに血を流してまで助けを求めないのはどうかと思うよ。脚の筋を切ってはいないはずだけれど、歩くことができないレベルの痛みだったんだろう。だから浮いていた。そうだよね?」

 ならば、その理屈から外れ過ぎた恐れを抱いている私は、彼の未来に控えているかもしれない「死」を思って身を震わせさえする私は、きっともう普通ではないのだろう。

「でも君は呼ぶべきだった。私に見られたくなかったのであれば別の誰か、マスタード師匠やミツバさん、誰でもいいんだ、とにかく誰かに依頼すべきだった。君の傷だらけの体を支えるのが、よりにもよって君自身だなんて、そんなことあっちゃいけない。家族なんだろう、そんな相手に虚勢を張って何になるっていうんだ。そんなものでは誰も救われない。師匠も、道場の皆も、君自身も」
「……」
「君がこれからも強くなっていきたいと思うなら、助けを乞うことを、力を借りることを覚えた方がいい。君達が強くなる程に、君の特訓に足る場所の険しさは増していくんだ。何もかも一人でどうにかしようとしていたら、最悪、命を落とすかもしれない。そんなこと誰も望まないよ。師匠も、道場の皆も、私だって」

 随分な早口、随分な饒舌。人が何かを隠そうとするときの典型的な変化だ。後ろめたいこと、見抜かれたくないことがあるとき、相手の意識を逸らそうとするため、次々に新しい話題を持ち出そうとするのはよくあることだ。多かれ少なかれ人にはそういう傾向がある。彼にも、そしてきっと私にも。

ユウリ
「黙れと言ったよね、もう一度怒鳴って差し上げようか」
「……ええ、そんなことであなたの気が済むなら、幾らでも」

 ぐい、と私の意識が過去に引っ張られていく。無残に散った黄色い花。私の頬を思いっきり打った水。あの湿原に沈める覚悟でさえあった私の骨。水辺にまるい月の筏を作った彼の指。全力かつ真剣な心持ちでこの人と向き合うのだと誓ったあの夜。
 折ってくれるの、などと口にして骨を差し出した私を、あの日の彼はきつく叱った。あの憤りは今も忘れられることなく、彼の中で燻っていたのかもしれない。清算されたと思っていたのは私だけだったのかもしれない。ならばこれはあの日の意趣返しなのだ。そんな風に私は推測して、軽く絶望する。

『君の気が済むまで、幾らでも』
 よりにもよってその言葉に被せてくるなんて卑劣が過ぎると思った。けれども生憎私は曇らせるべき眼鏡をかけておらず、黙れと怒鳴ることはできても彼を突き飛ばすことなどできやしない。激情の切り札は先程使ってしまった。私にはもう、彼を責めるための手札がない。

「……私のことは、どうだっていいんだよ」

 けれども顔を上げた先、こちらを真っ直ぐに見る水色の目にはそうした復讐心の欠片も宿っておらず、私は毒気を抜かれて唖然としてしまう。今に始まったことではないけれど、彼の目には一切の「悪意」がない。彼は常に自身のことを認めさせたいと思っているけれど、そのために他者を貶めたり傷付けたりするようなことは決してしない。そんなことができる程、彼の魂はくすんでなどいない。
 であればこれは意趣返しではなく言葉遊びだ。彼は「あんなこともありました、ね」と言外にそう告げて楽しんでいるに過ぎないのだ。随分と質の悪い遊びに私は眩暈を覚える。これは呆れによる眩暈であると、そういうことにしておきたいのに、続く彼の言葉が邪魔をする。

「よくありません。だって泣いている」

 縋るようにこちらを見つめ、ものの見事に看破していった二つの水色に対して、今更、彼みたく虚勢を張ろうなどということは思いもしない。いや、虚勢を張るべきであったのかもしれないけれどできなかった、の方がきっと正しいのだろう。雨のせいにすることだってできたはずなのに、私はあろうことか、痛々しい怪我をした彼に、彼のための言葉ではなく私のための言葉を、ぶつけることを選んでしまったのだ。これは不適切なことだ。質の悪いことだ。きっと、彼と同じくらい。

「そうだよ。君が怪我をしたせいだ。そんなにも痛々しい姿をしておきながら、下手な虚勢で私から逃げようとしたせいだ。怪我をしたトレーナーなんて、これまで沢山見てきたのに、こんな気持ちになったのは初めてだ。痛いし苦しいしひどく悲しい。もしものことがあったらと思うと気が狂いそうになる。君だからだ。君のせいだ、セイボリー」

 今、傷を負っているのは彼で、治療が必要なのも彼だ。そんな彼を見て勝手に負った私の心の傷、それを彼が慮る必要は何処にもない。もしそのような機会が訪れたとしても、それはずっと後でいい。少なくとも彼の傷が癒えるまで、私の番など来ない方がいい。
 にもかかわらず、彼は私から目を逸らさない。私を泣かせた責任を今すぐにでも取らなければいけないと焦ってさえいる。やっぱり、泣きそうな顔だった。馬鹿げていると思った。彼だって普通ではないのだ。……このような驕りを抱くことが許されるのであれば、もしかしたら、きっと、私のせいで。

「……ええそうです、ワタクシのせい。叱責なら甘んじて受けましょう。だからどうか泣かないでください。今のワタクシは手が塞がっているんですよ。あなたが泣いていても、拭ってあげられない」
「ああそうだね、拭えないんだ。……ふふ、いい気味じゃないか! せいぜいそこで悔しい思いをしていればいいよ。今、応援を呼ぶから」

 怪我をした状態で自らの体を浮かせ続けるというのは随分と、彼の言うところの「エスパーパワー」を消費するらしかった。十の指全てで指揮を執っていないと浮遊は維持できないらしい。そこまでして自力で戻りたかったのか。彼の見栄ないし虚勢の強さに今一度呆れ返りつつ、ミツバさんを呼ぶためのスマホロトムを取り出そうとして彼から視線を外しかけた。
 その瞬間、思いも寄らぬことが起きた。彼がぐいと空中で身を乗り出し、右手を私の頬へ伸ばしてきたのだ。

「えっ!? ちょっと待って」

 指揮を執っていたはずの右手の指5本、それを失った彼の体は、テレキネシスの加護から緩やかに外れていく。彼の全身を覆っていた水色の淡い光が、蝋燭の火のような儚さで消えていく。ぐらり、と宙で傾いた体の下へと咄嗟に潜り込んだ。傷だらけの体が地面に叩きつけてしまう様を、そうなると分かっていてじっと見ていられるはずがなかった。そのまま優雅に受け止められればよかったのだけれど、そもそもの体格差がありすぎて、彼の体躯に圧し掛かられるような形にしかならず、足を滑らせた私達はそのまま、雨の降る地面に倒れ込むこととなってしまった。
 いつかと同じように尻餅を付いて上体を半端に起こしつつ、私は彼の脚を見遣った。私が受け止めきれたのは彼の上半身だけで、出血の酷かった下肢部分は靴さえ履いていない状態でそのまま地面へと叩き付けられている。傷口を不衛生にしてしまっては悪化の一途を辿るばかりだ。塩を塗るような真似、ではなく、物理的に泥を塗るような真似をした彼を咎めるべく私は口を開こうとした。どうして急にこんな、と責める準備なら出来ていた。けれどもそれを放つより先に、彼の指が私の手元へ伸びてきて、そして。

ユウリ、ごめんなさい。許してください。泣かないでください」
「……」
「ごめんなさい……」

 すみません、でもなく、申し訳ありません、でもなく、ごめんなさい、などという彼らしくない子供っぽさを伴った謝罪の言葉。それが、泣きそうに顔を歪め、雨粒に塗れた彼の顔のずっと奥、喉元から絞り出すように吐き出され、繰り返し零れ落ちていく。テレキネシスの指揮を執ることを完全に放棄した右手が、あまりの衝撃に絶句し、泣くことさえできなくなってしまった私の目元を何度も拭う。状況を理解するのに少し時間が掛かった。その間、きっと呼吸さえ止まっていた。

 この人はこんなことのために「落ちた」のだ。私に許しを請うために。私に訴えかけるために。私の涙を拭うために。
 ねえセイボリー、君は、なんて馬鹿なことを!

「謝らないで、もういいんだよセイボリー」
「ごめんなさい」
「ね、そんなに心苦しく思わなくたっていいんだ。君を想って泣くことなんか私にとってはとても簡単なことなんだから。でも、もし私にこれ以上泣いてほしくないと思ってくれるのなら、今後は私達に傷を隠さないでほしい。一人きりで、苦しもうとしないでほしい」

 でもそんな「馬鹿なこと」でこんなにも心を打たれてしまっているのだから、私もいよいよ、馬鹿げている。

 既視感のある水の冷たさの中に、彼の肌の温度が混ざっていることを私は素直に喜ばしく思った。懐かしんでいる場合ではないのに、あの月筏が脳裏でキラキラと瞬いて、一向に消えてくれなかった。
 あの夜、彼は最後まで私に「触れる」ことはなかった。私も彼に手を伸べたりはしなかった。けれどもあれから更にいくらかの時間を重ねた私達は、若干の躊躇いを挟みながらも互いに手を伸ばすことができるようになっていた。それは相手の手を取る、とか、髪をそっと撫でる、とかいう些末なもので、それらだって、繊細な硝子細工に触れるような、あまりにも不格好なこわごわとした手つきにしかなっていなかった。それでも、テレキネシスを介さずに私達の距離が少しずつ変わっていくことはそのまま私の喜びになった。彼の指揮に従うものが纏う水色の光が大好きだったのに、勿論今だって大好きなのに、その光を介さず彼に触れられることがこの上なく嬉しいと、私は感じ始めていた。

「……ええ、申し訳ありません。浅はかでした。これからはその、善処します」
「ふふ、そこは確約してほしかったなあ」

 今日、そうしたこれまでの繊細な手つきとは全く違う、乱暴で強引な触れ方を私達はしている。文字通り、血と雨にまみれた物騒な触れ合いだ。浮ついた幸福な心地も甘い遣り取りも私達の間には存在しなかった。でもこうして全力で、真剣な心持ちで向き合うことでしか分かり得ないことがあると、私達は既に知っている。だから今更、この距離を悔いるなどということが起こるはずもない。

 彼の頬に触れてみた。すぐ近くに彼の顔があったからだ。彼が私にしているように眼鏡の内側へと指を滑らせ目元を拭ってみた。彼も泣いているように見えたからだ。雨のせいであり彼のせいでもあった。もう私は泣いていない。ならばきっと彼だって泣いていない。それでも私達は指を離さなかった。何か形容しがたいものが、離れることを「口惜しい」と思わせたからであった。私達はその口惜しさに従った。それだけの話だった。

「痛かったよね、とても。でも酷い怪我じゃなくて本当によかった。早く治して、万全の状態になってからまた一緒に頑張ろう。破いたハンカチは洗濯こそしてあったけれど、随分と古いものだったから、気にしなくていい」

 彼は三回小さく頷いてから、最後に大きく何度も首を振った。これは何が何でもハンカチを弁償しようとする表情だと確信し、私は肩を竦めて笑った。じゃあお言葉に甘えることにするよ、と付け足すだけで、彼は本当に安心したように笑ってくれた。
 とはいえ今日破いたあのハンカチは、ガラルの外で仕事に勤しむ父の土産物だから、同じものはきっと手に入らないだろう。ならば代替品は彼のセンスに任せるしかない。奇天烈なユニフォームの着こなしをする彼は一体、どんなハンカチを選んでくれるのだろう。その近い将来のことを思うと愉快な心持ちになれた。残念ながら私はファッションに疎い。故にデザインに拘りはない。何でもいい。本当に何でもいいのだ、彼が選んだという事実が付随するものであれば何だって。

「さあ、また揃って風邪を引いてしまう前に今度こそ応援を呼ぼう。ミツバさんならすぐに来てくれるはずだよ」
「ええ、……でもあと1分だけ」

 最後にそんな強情を発揮した彼に息を飲む。道場中の時計を狂わせ、夕食までの20分を永遠にまで引き延ばしたあの前科を思い出し、心臓が跳ねる。
 勿論だとも。君があと1分待ってというなら喜んでそうしよう。でもセイボリー、君の1分は本当に、今度こそちゃんと「1分」なんだろうね?

2020.7.2

 

『久遠かな 狂った針の 隙間より 花照る赤と 共に散れども』
→ 貴方の狂わせた針の隙間に在る時間は永久に壊れぬものだ。血で彩られた花畑の上、一緒にくずおれてしまうことがあったとしても(私はその1分に永遠を見るだろう)

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