1-8

60年。その月日は、フラダリの旧友を確実に殺していった。
フラダリは「置いていかれる側の痛み」を覚え始めていた。

老いて、弱り、静かに息を引き取る生き物の惨さに直面する度に、彼はさめざめと涙を流していた。
何か自分にできることがあったのではないかと、フラダリは誰かが死ぬ度に自分を責めた。
けれどもその数が10を超え、20を超えると、フラダリの中に不思議な心地が芽生え始めたのだった。その不思議な心地は、フラダリの悲観する時を確実に短くしていた。

人が、生き物が、フラダリを置いて死んでいってしまうのは「当然のこと」なのだということ。
「置いて行かれる側の痛み」を、少なくともフラダリが、フラダリの知る誰かに与えてしまうことは決してないのだということ。

長すぎる、多すぎる別離を経て、フラダリが心得るに至ったその二つの事実は、彼に人間らしからぬ強さを与えていた。
彼は自らに降りかかった永遠という呪いを噛み締め、それでも尚、正しく考え正しく生きようと努めていた。
その正しさは誰もが模範とするような、完璧なもので、……けれども「完璧」であるというただ一点こそが、彼を正しくないものにする、という皮肉を生んでいた。

彼は人間らしい正しさを決して手放さなかった。その徹底ぶりは、時を止めた彼でなければ会得できないものであった。
人間らしくあろうと、時を忘れずにいようとした結果、彼は随分と、人らしからぬ様相となり果ててしまっていた。
彼はその皮肉に気付いていながら、それでもその「正しさ」を手放さなかった。

「君を知る人間は殆どいなくなったよ。君はもう、この世界を恐れなくていいんだ」

5年振りに目を覚ました彼女にそう告げれば、やはり彼女は綺麗に綺麗に、笑った。
嬉しい、とそう零した彼女はどこまでも「間違って」いたが、フラダリはその間違いを決して指摘しなかった。
正しく在ろうと努め続ける彼も、嬉々として間違いに駆けていく彼女も、同じように滑稽であることを彼は弁えていたからだ。
少女はフラダリの正しさを軽蔑しない。ならばフラダリも、少女の間違いを尊重して然るべきだ。
それはどこまでも彼らしい、優しすぎる肯定であった。少女は肯定されていることにさえ気付かないまま、変わらない味のチーズサンドを少しずつ食べた。

「それじゃあもう、誰も私を責めないんですね。私はもう、ごめんなさいって言わなくていいんですね」

ああ、そうだとも。そう相槌を打ちながら、フラダリははて、と思った。
カロスの人間が、この少女を責めたことは果たしてあっただろうか。少女は本当に、カロスの人間に責められていたのだろうか。
正しく生きた彼は、60年前のことを正しく思い出すことができた。薄れてこそいたが、その記憶は決して消えなかった。

『ごめんなさい』

彼女の唱えるその呪文は、彼女が許しを請うために紡ぎ続けたその言葉は、果たして本当に必要なものだったのだろうか。
あれはカロスの人間のための言葉ではなく、本当はこの少女のための、彼女自身が楽になるための言葉だったのではなかったか。

「……」

けれどもフラダリは口を開かなかった。彼女の認知を尊重していたかったし、何よりそう指摘したところできっと彼女は忘れているだろうと思ったからだ。
永く眠りすぎた彼女の記憶は、フラダリのそれよりもずっと早く劣化していた。
どういうメカニズムなのかは彼にもさっぱり分からないが、とにかく彼女はフラダリよりもずっと多くのことを忘れていた。

カチ、と時計の音が鳴った。それは日付が切り替わった合図であり、彼女はその音を聞くや否や、嬉々として立ち上がり、サーナイトの手を取ってからフラダリを見上げた。
いつの間にか、チーズサンドは綺麗に完食されていた。カフェオレはまだ少しばかり残っていたが、少女はそれを空になるまで飲み干す気はないようだった。

「ねえ、外に出ませんか?三人で一緒にお散歩をしましょう」

「今から?何もこんな真夜中でなくてもいいだろうに。君はもう、昼間でも外に出られるし、もっと人通りの多い場所にだって、気兼ねなく出ていけるようになったのだから」

そう告げて苦笑しながら、けれどもフラダリは迷いなく、出掛ける準備を始めていた。
実に60年振りに、フラダリと少女は共に地上を歩くことになる。そのおかしな事実はフラダリの心を少しばかり浮き立たせていた。
それを「おかしい」と認識できない少女でさえ、外出することを楽しみにしているような表情であったのだ。
サーナイトもまた、静かに笑って頷いて、ぴたりと少女の隣に並んだ。
そうやって和気あいあいとした心地のままに、三者はエレベーターへと続く廊下を緩慢な足取りで歩き、地上へと上がるボタンを押した。
彼等の異常性を指摘する存在は、この場には誰もいなかった。

外に出ると、少女は大きく伸びをした。サーナイトもそれに倣うようにして、赤い目をすっと細めて夜空を見上げた。
セキタイタウンの閑静な風景は、60年前と大して変わっていない。
ポケモンセンターの改築が行われたり、石碑の手入れがされたりといった微々たる表情の変化こそあったものの、
セキタイタウンは今も昔も変わらず、静かであることを美徳とするかのように、真新しいものの何もない、ひっそりとした美しさを保っていた。

その中央に位置する石碑に、自らの名前が綴られていることが、この少女にとってはとてもおかしく思われたらしい。
スキップするように石碑へと駆け寄り、その滑らかな表面に彫られた自らの名前を、指でなぞっては笑い、なぞってはまた笑った。

「死んでいった皆はきっと、向こうに私がいるものだと思っているんでしょうね。カロスの立派な救世主は今日も向こう側から、美しいカロスを見守っているって、そんな風に。
……変なの。私は死んでなんかいないのに。此処にいるのに。これからもずっとそうなのに。皆、誰一人として知らないままに、いなくなった」

この少女が生きていることを知る人間は、少なくともフラダリの知る限りでは一人もいない。
カロスの救世主はこの穴の中で死んでしまった。フラダリの悪行が一人の可憐な少女を殺した。そういうことに、していた。
フラダリはこの少女の眠りを守るために、人殺しの罪まで被ったのだ。

「……ねえ、お父さん、お母さん。聞こえる?私がいなくてがっかりしたでしょう?私を叱れなくて、悔しい?」

その結果、こんなにも美しく微笑む彼女の姿が、フラダリのすぐ傍に在る。
「この少女が笑える世界にしたい」という、あの頃のフラダリの願いは、共通の呪いを被り、あらぬ罪を被ることでようやく、叶っている。
他に何が必要だったというのだろう?

「私はもう二度と貴方達に会わないわ。二度と、私はそちらには、向こう側へは行かないの。二度と、私は貴方達に「ごめんなさい」って言わないの。
私はずっと、フラダリさんとサーナイトと一緒にこちらでいるの。ずっと、ずっと……」

構わない。彼女の言葉が非倫理的であったとして、彼女の考えが人徳に悖るものであったとして、そんなことは最早、どうだっていい。
何故ならばフラダリも少女も等しく異常だったからである。フラダリの生き方も、少女の生き方も、異なる形を呈しながら、やはり等しく常軌を逸していたからである。
この広すぎる世界の永すぎる時において、その「等しさ」を共有できる相手は、フラダリには最早、この少女を置いて他にいない。
彼が彼女の傍を選ぶ理由など、それだけで十分だった。

 
「私は、貴方達の行けないところへ行くのよ」
 

おかしい、おかしい。やっぱりおかしい。歌うように告げて少女は笑う。まるで陽気で快活な女の子のように、まるで朝日を喜ぶポケモンのように。
サーナイトにはそうした、不謹慎な笑顔を湛える少女を責めるための言葉がない。フラダリにはそうした、美しい笑顔を崩さず死者を愚弄する少女を咎めるだけの気概がない。

「だって皆、あんなに立派だったのに。ジムリーダーの人達も、私にポケモンを預けたあの博士も、お父さんもお母さんも、とても強くて、賢くて、あんなに立派に生きていたのに。
でも、たったこれだけ眠ってしまえば、そんなもの、何の役にも立たなくなるんだわ」

私はどうして、そんな人達を恐れていた?
私はどうして、そんな人達に「ごめんなさい」と言い続けていた?
私はどうして、そんな人達の目を真っ直ぐに見ることができなかった?

予め用意されていた文句であるかのように、それらはカロスの言語で、あまりにも流暢に紡がれ続けた。
永い眠りの中に記憶の大半を溶かしてしまった彼女は最早、自分がイッシュの生まれであることを覚えていないのかもしれない。
彼女が永く眠ることを覚えてから、彼女の口からイッシュの言葉が零れ出たことは、少なくともフラダリの記憶している限りでは、一度もなかったから。

「皆、死んでいった」

「……」

「もう誰もいない。私を責める人は、私を蔑む人は、誰も、誰も」

君が責められたことなど、これまでだってきっと一度もなかった。誰も、懸命に旅を続ける君を蔑んだりはしなかった。
全ては君の歪み過ぎた恐怖が見せた、歪んだ幻想だ。

正しい生き方を異常なまでに貫き続けたフラダリには、そうしたことがとてもよく解っていた。解っていながら、それでもフラダリは彼女の言葉を否定しなかった。
ただ静かに少女の隣に膝を折り、冷たい石碑に触れすぎて冷たくなった少女の手を取って、ささやかな相槌を打つのみであった。

「ああ、そうだとも。君はもう、何も恐れなくていいんだ」


2017.10.7
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