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10番道路の風景も、ショウヨウシティの街並みも、山道を抜けた先にある花畑の広がる土地も、私の知っている姿とは随分と変わってしまっていた。
まるで新しい土地を冒険しているような感覚に、私はとても楽しくなって、目が覚める度に、フラダリさんを誘って外出した。

外の風は、温かくなったり冷たくなったりした。外の空は、眩しく煌めいたり、雲が影を落としたり、冷たい雨を降らせたり、星を瞬かせたりした。
地上の気候は目まぐるしく変わって、それは「過ごしやすい」とするには少しばかり忙しない気がしたけれど、そうした変化さえも、私には新鮮なもののように感じられた。

ミアレシティのような大きな街を歩くと、当然のように沢山の人とすれ違った。
その存在は等しく人の形をしていたけれど、私はもう、彼等に対する恐れを抱かないようになっていた。
彼等は私を知らない。彼等は大勢の中の一人である私のことなど気にも留めない。近い距離ですれ違えば挨拶くらいはするけれど、それだけだ。
誰も私を呼び止めない。誰も私が「シェリー」だと気付かない。
行きつけのカフェにいるお姉さんは私の顔を覚えてくれたけれど、私が「シェリー」であることは知らない。

カロスはとても美しい場所だった。町に、道に、あらゆる場所に綺麗な花が咲いていて、何処に行ってもポケモンがいて、その全てがキラキラと輝いていた。
私はそれらを微笑ましく眺めたけれど、その美しさは好ましいと思えたけれど、それ以上の愛着を抱くことはなかった。
その尊い美しさは、けれども私が一度だけ、たった一度だけ眠ってしまえば、なくなってしまうものであるのだと解っていたからだ。

「貴方達も、すぐにいなくなってしまうんだね」

道端の美しい花に向かって、私はぽつりとそう零した。
フラダリさんはその隣で「確かに我々の尺度で捉えれば、そういうことになってしまうのだろうね」と、悲しそうに眉根を下げつつそう言った。

花はすぐに枯れる。ポケモンも人もすぐに死んでしまう。
悲しいと思った。すぐにいなくなってしまう存在が悲しいのではなく、そんな存在に意味を見出そうとしているフラダリさんのことが悲しかった。
彼は、私のように長く眠ったことがない。彼は、眠りに身を委ねて年単位の時を飛び越えたことがない。
だから彼の価値観というのは、私よりもずっと「人らしい」ものであった。そんな彼の隣で、私はどんどん「人らしさ」を忘れていった。
私はそんな私のことを、けれども少しだけ、好きになり始めていた。

「貴方がシェリーさんですね?」

海の目をしたその男性に私の名前を言い当てられるまで、私は本当に、本当に、……この世界から私の恐れるべきものは何もなくなったのだと、そう、信じ切っていたのだった。

「……」

あまりの衝撃に、私は白を切ることができなかった。誤魔化す言葉を咄嗟に用意することができなかったのだ。
けれどもフラダリさんは私よりもずっと人に慣れていて、苦笑しながら私とその男性との間に割って入り、「失礼ですが、人違いではありませんか?」と、柔和な笑顔でそう告げた。
けれどもその男性は、空色の髪に海色の目をしたその不思議な男性は、私が「シェリー」であると確信しているような様子を崩さず、真摯な表情のままに、頭を下げた。

「お願いです、本当のことを言ってください。私は祖母の遺言を守らなければならないのです。貴方と祖母を会わせてあげてくれと、頼まれたのです」

祖母の遺言。遺言。
……ああ、やはり誰もがいなくなってしまっているではないか!

私は少しばかり安心した。よかった、と安堵に肩を落とした。私は誰にも謝らなくていいのだ、と確信した。
そして、一先ずこの場をやり過ごせればそれでいいだろうと考えてから、「私は、お墓に行けばいいんですか?」とその男性に確認を取った。
けれども彼はとても驚いたような顔をして、いえそうではなく、と口ごもり始めた。
すると彼の背中から、6歳くらいの少女が、茶色い髪に海の目をした小さい女の子が、ひょいと顔を出して、「おとうさん、しっかりしてよ」と甲高い声で告げたのだった。

「おとうさんにはおばあちゃんが二人いるでしょう?ちゃんと区別して呼んで?
この間亡くなったのは、未来が見える方のおばあちゃん。シェリーを会わせてあげなきゃいけないのは、目が見えない方のおばあちゃんだよ」

頭を殴られたかのような衝撃だった。
あの子の目が見えなくなっているのだ、という衝撃ではない。あの子がまだ生きていて、私は今からあの子のところへ連れていかれようとしているのだ、という、衝撃だ。

シア……」

「……ええ、そうです。僕の祖母、この子の曾祖母に当たる女性です。やはり知っていましたね、シェリーさん」

私は縋るようにフラダリさんを見上げた。
彼がこの場をなんとかしてくれるのではないか、などと、私は自分に都合の良すぎる算段を立てていた。彼なら、きっと私を逃がしてくれるだろうと思っていたのだ。
けれども彼は見たことのないような表情になって、シェリー、と私の名前を呼んだ。
それ以上を紡がずとも、今この場において、彼は私の味方ではないのだということが、頭の弱い私にも一瞬で解ってしまった。

ああ。
ごめんなさい、とは、どういう風に紡ぐべき音だったかしら。

イッシュ地方の大きな船の上に彼女の自宅はあった。懐かしいような気がしたけれども、私は上手く思い出すことができなかった。

彼女の部屋の窓は空いていて、外からは少しだけしょっぱい風が、海風が優しく吹き込んでいた。
装飾物のあまりない寂しげな部屋、その窓辺には木製のロッキングチェアが佇んでいて、それに身体を預ける形で、彼女がいた。
……いや、実のところ、私の心はそれを「彼女」とすることを拒んでいたけれど、事実として、きっとあれが「彼女」なのだろうと認めざるを得なかった。

努力家で、強欲で、強くて優しくて、誰もに愛されていた、私の、かけがえのない親友。
いつだって私に力強く神託をくれた、誰よりも何よりも美しい、海。

「あら、初めて聞く靴音だわ。どなた?」

凛としたメゾソプラノは、乾いて、掠れて、細く弱くなっていた。
潮風を受けて翼のようにはためいていた茶色い髪は、色素を限りなく落として、波の色へと変わっていた。
小柄だった彼女の背は曲がり、更に小さくなっていた。
海は、閉じられていた。

「……シア

 
誰なの。

誰がシアをこんな風にしたの。
 

彼女はぴたりと動きを止めて、声をする方へと顔を向けた。
それでも海は開かれないままで、その目が私を捉えることはなくて、こんなにも小さく弱く頼りなく色褪せてしまった彼女は、けれども、ああ、確かに、生きているのだ。

シア

私の喉は、私の意思に反してもう一度はっきりと彼女の名前を呼んだ。
彼女は弾かれたようにロッキングチェアから立ち上がった。一歩、二歩とこちらへと歩みを進めた。ふらりとその小さすぎる身体がよろめいた。
私の両腕は、私の意思に反してしっかりと彼女を抱き止めた。

「……シェリー?」

私の名前を呼ぶその声は、もう、あの凛としたメゾソプラノではない。
私がいつも縋ってばかりだったその小さくも逞しい腕は、逆に私の頼りない腕に縋り付いている。
私を真っ直ぐに見つめてくれていた、深く眩しいあの海は、しわだらけの目蓋の裏に隠されている。
そんな、何もかもが変わってしまった彼女は、けれども何も変わっていない私を確かめるように、私の腕に触れて、爪に触れて、髪を撫でて、頬をそっと指で突いて、
そうした全てを終えてから、時を止めた私を許すように、褒めるように、羨むように、そっと微笑んだのだ。

「……ふふ、あの頃のままだわ。ああ、どうして、どうして私、目が見えないんだろう」

ぽろぽろと、目蓋の裏から海が溢れ始めた。
それはどうしようもなく透明で、やはりあの海から零れ出たとは思えない程に冷たく、悲しい塩気を孕んでいた。
虚しい、と思った。どうしようもなく虚しくて、悲しくて、私は一刻も早く、このしわだらけの細い腕を振り払って、逃げて行ってしまいたかった。

彼女は私を見上げて、恐る恐るといった様子で、両目を開いた。
そこには81年の時を正しく生きた、私の、かけがえのない親友の、深い深い海の色があった。
弱視を極めたその目は、私の輪郭こそなんとか捉えることができているものの、私の視線とその海は、きっとどう足掻いても交わらないのだろうと思われたのだ。

「会いに来てくれてありがとう。生きていてくれてありがとう。もう、思い残すことなんか何もないわ」

歌うようにそう告げた彼女と、そう、とだけ短く相槌を打った私との会話は、私が彼女を抱き留めた状態で、しばらくの間、続けられた。

シェリー、寂しくない?」と尋ねられたので「うん、寂しくない」と答えた。
「でも私は、寂しかったなあ」と海を細めつつそう言ったので「ごめんなさい」と久しく紡いでいなかった魔法の音を奏でた。
彼女はクスクスと笑いながら「いいんだよ、もう、シェリーは誰にも何にも謝らなくていいんだよ」と告げて、私の頭を2回、3回と撫でた。

 
シェリー、幸せになってね。貴方はこれから、素敵な世界をいっぱい、いっぱい、見ることができる筈だから。貴方が幸せになれる時が、必ず、どこかにある筈だから」
 

ぽろぽろと子供のように泣きながら、「ありがとう」と「ごめんなさい」ばかりを繰り返し続けていたこの女性が紡ぐことの叶った、神託らしい神託は、この一つだけであった。
その弱々しい、彼女らしくない神託は、もう神託の輝きを有していなくて、あまりにも弱々しい光のみが、頼りなげに揺蕩うばかりであったので、私はひどく困惑したのだった。

「それじゃあ、またね、シェリー

しわだらけの笑顔で彼女はそう告げて、まるであの頃のように手を振った。私も手を振り返したけれど、笑うことはできなかった。
笑ったところで彼女の海にはどう足掻いても映らないのだから、私の表情など、きっとどうでもいいことだったのだろう。


2017.10.7
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