1-7

「外に、出ました」

帰宅したフラダリに、少女は疲れ果てた表情でそう告げた。フラダリはその言葉を疑うことこそしなかったものの、やはり驚きは隠すことができなかった。
もう何十年もの間、地下のこの住まいに閉じこもり、眠り続けているだけであったこの少女が、外に意識を向け、自ら地上へのエレベーターに乗り込む日が来るとするならば、
それは少なくとも、彼女を知る人が皆無になった時代、すなわち100年後くらいのものだろうと思っていたからだ。

あれから40年が経った。彼女を知る人はまだ、完全にはいなくなっていない。
そのような時代において、彼女が外へ出ていくことはすなわち、彼女の正体が暴かれてしまうリスクがある、ということを意味していた。
そして、この少女がこんなにも疲れ果てた表情をしているところからし、おそらくは出会ってしまったのだろう。
彼女は、彼女を知る「誰か」と会ったのだ。そうした確信に至ることは、フラダリにとって驚く程に簡単なことだった。

「外は夜で、薄暗くて、私の名前が刻まれた石碑があって、私は死んだことになっていて、
そこに花を、白いカーネーションを手向けようとしていたお姉さんがいて、そのお姉さんは綺麗な青い目をしていて、その海があの子にとてもよく似ていて……」

「……」

「ああ、シアにはもう子供がいるんだ、とか、きっとあの子が大好きだったあの白衣の男の人と結婚したんだ、とか、
海の目はこうやって、彼女の子供にもその次の子供にも受け継がれていくんだ、とか、まだシアは私のことを覚えていてくれたんだ、とか……」

いつになく饒舌に、少女は地上での出来事を話した。
彼女の口から「シア」という名前が零れ出たことに、フラダリはまたしても驚かざるを得なかった。
彼が「シア」と会ったことがある、というのもその驚きの理由の一つではあったのだが、それ以上にフラダリは、この少女の口から人の名前が出てきたことにこそ驚いていた。
フラダリの記憶する限り、彼女が誰かの話を持ち出すことは、二人が時を止めてから一度も、ただの一度もなかったからだ。

「でも私、長く、永く眠り過ぎてしまったから、シアが結婚したあの男の人の名前も、彼女が救った偉い人の名前も、彼女が率いた大きな組織の名前も、思い出せないんです。
シアが連れていた電気のポケモンの名前も、あの子が誇らしげに話していた、4枚の翼を持つ紫色のポケモンの名前も、何も……」

「でも、シアの名前は覚えているのだね」

フラダリがそう告げるなり、少女の、滝のように流れ落ちていた数多の言葉はぴたりと止んだ。
縋るようにフラダリを見上げた少女は、最早懐かしささえ覚えてしまうような、かつての「泣きそうな表情」のままに、震える声でこう呟いた。

「だって私、シアの親友なんです。親友でいたかったんです。私は最後まできっと、相応しくなかったけれど、それでも私はシアのことが好きでした。
彼女のようになりたかった。でもなれなかった。みっともない私のまま、シアの隣にいることが怖くて、逃げた。シアは、……ただの一度も、逃げたことなんかなかったのに」

彼女の姿は、……当然のことだが、40年前から殆ど変わっていない。
少しばかり髪が伸びたことを除けば、ソファに身体を沈めて泣きそうに顔を歪めるのは、紛うことなきあの頃の、フラダリが出会った頃の少女の姿そのものであった。
そんな彼女が、まるで40年前に戻ったかのように泣いていたとして、そこに何の違和感も生ずるものではなかった。
けれどもフラダリは少しばかり、彼女の心地に足を下ろすことに苦労していた。
それは他でもない彼が、彼女と同じく時を止めてしまっている彼が、しかしその実、この40年間、ずっと「時を動かしている振り」を地上で続けてきてしまったからである。

少女にとって、この40年間はほんの数日、あるいは数週間程度の出来事であったのかもしれないが、
地上の生き物と同じような時を規則正しく回し続けてきたフラダリにとって、その40年は正しい「40年」の形をしていた。
すなわち少女にとっては鮮明に思い出すことの叶う「数日前」の記憶でも、フラダリにとってはやはりそれは「40年前」の記憶以外の何者でもなく、
故に彼が、当時の少女を思い出すことに多少の困難を覚えたとして、それはしかし、正しく生きた彼の、正しく生きようとしていた彼の、当然の現象であったのかもしれない。

「……君は勇敢だったよ」

少し長い時間をかけて、フラダリは40年前の少女の姿を思い出した。
まだ眠っていなかった頃の少女。何もかもを恐れ、誰も彼もに怯えていた少女。美しいカロスに弾かれるのではないかと不安になっていた少女。それでもこの地で旅を続けた少女。
カロスを守るために、カロスに生きる全ての存在を救うために、フラダリに立ち向かった、少女。

「世界は勇敢な人を歓迎するように出来ている。君の名前が救世主としてカロスに残り続けることになったとして、それはきっと当然のことだ」

「でも私は、本当の私は、臆病なんです。あんな立派な石碑なんかを立ててもらえるような人間じゃ、なかった筈なのに」

「偽りの勇気でも、振るえないよりずっといい」

かつてそうしていたように、フラダリは彼女のための言葉を即座に選び取ることが叶っていた。
そうして彼女の憂いを少しでも取り除こうと、繊細な彼女を壊さないように、許されるギリギリのところまで踏み入って、
彼女が自分でつけた傷にそっと手を伸べて、彼の紡ぎ得る最大の言葉で癒し、塞ごうとした。
幸いにも、少女はそうした彼の存在に、40年前と変わらない彼の言葉に、悉く救われていたようであった。

「わたしも君のように勇気を正しく奮うことができていれば、こんな風に、忙しなく贖罪のために時を流し続ける必要などなかったのだが」

「……そういえば私、フラダリさんが眠っているところを見たことがありません。もしかして、ずっと眠っていないんですか?」

「いや、そんなことはない。長く眠らなかったところで特に支障はないのだが、たまに眠りたくなる時があるから、そういう時には隣のベッドで少しばかり眠っているよ。
6時間眠るときもあれば、丸1日、惰眠を貪ることもある。不規則な生活をしているのは、わたしも同じだ」

実におかしな会話であると思った。それを「おかしい」とすることができるところに、時を正しく回し続けたフラダリの所以がある。
けれども少女は「おかしい」とすることができない。「貴方が不規則だなんて」と、フラダリの口からそうした怠惰な単語が零れ出たことだけを面白く思い、ただ静かに笑っている。
彼女は時を回すことをすっかり忘れてしまっている。ここに少女の少女たる所以がある。

同じ呪いを受けている筈なのに、二人の在り方は悉く異なっていた。それでも二人はこの住まいを離れなかった。
二人は悉く別行動を取りながらも、やはりフラダリの帰る場所は此処で、そこには必ず少女がいるのであった。少女もずっと、此処で眠ることを選び続けていた。
今までも、この40年間ずっとそうであったし、それはこれからも続いていく。
終わることはない。

沈黙のまま、そうした感慨に身を任せつつ、フラダリはカフェオレの準備をした。
40年間、ずっと閉鎖することなく続いてきたミアレシティのあのカフェは、今日も変わらぬ味のカフェオレとチーズサンドを提供し続けていた。

少し冷えてしまったそれを少女の手に握らせ、チーズサンドの紙袋をテーブルの上に置く。
少女は「ありがとうございます」と柔らかくお礼を言って、ふわりと笑って、……そうして、ほら、すぐに40年前の何もかもを忘れていく。
何に怯えていたのか、誰を恐れていたのか、それらはもう、記憶の海のずっと奥に沈んで、容易には取り出せないところまで落ちてしまっていた。
ほんの僅かな時でも、少女が昔を思い出すことが叶ったのは、最早奇跡とでも呼べそうな、どこまでも稀有な現象であったに違いない。

「今日はとても厳かな服を着ているんですね。何か、外であったんですか?」

カフェオレを一口だけ飲んで、少女はチーズサンドの包みに手を伸べた。
フラダリは黒いスーツを脱ぎ、白いネクタイを外しながら、ああそういえばこの姿を彼女に見せるのは初めてのことだったな、と思い至る。
彼はもう、これまでこの衣服に何度も何度も袖を通していた。地上では40年という月日が正しく残酷に流れていたのだから、当然のことであった。

「知り合いの葬式に参加してきた」

「え……」

「君が眠っている間に、君も知っている人が何人も亡くなったよ」

事実だけを淡々と告げたフラダリは、その実、少女の表情がどのように変わるのか、息を殺してそっと観察していた。
彼女は「葬式」「亡くなった」という単語の意味に、時間をかけなければ辿り着けなかったらしく、その表情の変化は、フラダリが期待していたよりもずっと遅く表れた。
彼女は鉛色の目を見開き、沈黙して、息を止めて、細く長く吐いて、止めて、静かに吸って、そして。

「そうですか」

この上なく美しい笑顔で、この上なく惨たらしい相槌を打った。

「……シェリー、君の大切な人が亡くなったとき、あるいは亡くなろうとしているとき、わたしは君を起こすべきだろうか?」

「いいえ、そんなことしないでください。私は此処で、皆がいなくなるまで、眠ります」

いいのか、とフラダリは念を押さなかった。
君の両親は?君に特別目を掛けていた博士は?君の親友は?君はこのままでいいのか?これが本当に君の望んだ「時」なのか?
そうした全てを口にすることで、彼女の美しい笑顔が陰ってしまうことを恐れたのだ。
時を止めることで、呪われることでようやく平穏を手にした彼女を、同じく呪われたフラダリが掻き乱すような真似はしたくなかった。

フラダリは、この少女が笑える世界にしたいと心から思っていた。
その願いは、40年前も今も変わっていない。


2017.10.7
【41】

© 2024 雨袱紗