1-6

目が覚めると、フラダリさんはいなかった。どうやら外へ出かけているらしい。
緩慢に瞬きを繰り返しながら腕の中の時計に視線を落とせば、「あれ」から31年の時が経っていることが分かった。
ついこの間眠る前、ベッドの上でこの時計を確認したときは、画面の右上の数字は「29」であったように思う。
単純に計算して、私は2年間、眠っていたことになる。けれどもその常識外れの事実を、私はもう恐れなくなっていた。

この「呪い」という事実を「祝福」という幻想に都合よく変換してからというもの、私はこの現実を悲観することをすっかり忘れてしまっていた。
けれども何故、この呪いの形をした祝福を喜んだのか、私はこの優しい呪いを受けることで「何」から逃れようとしていたのか、
そうした全てを、私は少し時間をかけなければ、思い出せなくなってしまっていた。
あれから30年余りが経ったのだから、当然のことであったのかもしれなかった。

美しいカロスは、今も美しいままなのかしら。カロスの人達は、相変わらず親切で優しくて、美を重んじる高尚な人ばかりなのかしら。
カロスの道は恐ろしいままなのかしら。お隣さんは恐ろしいままなのかしら。ポケモンは?人は?視線は?言葉は?想いは?願いは?期待は?賞賛は?

「……」

それらを思い出すことの難しさは、私が眠る度に少しずつ大きくなっていった。
「恐ろしかった」ことは覚えている。とにかく怖くて、怯えていて、いつだって不安で、逃げ出したかったことははっきりと覚えている。
けれども私が恐怖を抱いていたと思しき対象の輪郭は、この30年余りで徐々におぼろげな様相を呈し始めていた。

長く、本当に永く眠っていたのだ。
30年という時は、私の恐れた全ての尺度で言えば、正しく長い時であったのだろうけれど、私はその長さを感じないまま、あっという間にその30年を飛び越えてしまった。
私の心は「あっという間」だったけれど、まだ人の形をした身体は、頭は、やはり30年という長さを等しく流していて、
それ故に、流れた30年という時は、私の記憶を徐々に薄れさせることに成功していたのだと思う。

私は何を恐れていたのだったかしら?

本気でそう思ってしまった私は、あの日から一度も出たことのなかった「外」へ、出てみてもいいのではないか、という気持ちになることができていた。できてしまっていた。

あの頃は、とにかく外に出ることが恐ろしかった。お隣の男の子にも、博士にも、博士の助手を名乗る二人にも、友達を名乗る3人の子供にも、誰にも会いたくなかった。
皆、早くいなくなってしまえばいいと思っていた。私が眠り続けていれば、あとほんの数十年、そうしていれば、その願いは呆気なく叶ってしまう筈であった。
けれども私はその「ほんの数十年」を待たずに、気紛れな心地で外へと出てしまった。待たずとも、いいような気がしたからだ。

私は「何を、恐れていたのか」「何故、恐れていたのか」ということを、簡単には思い出せなくなっていた。
それが、ただその事実のみが、30年という時を正しく証明しているように思われた。

腕の中の時計が「時」を示し、私の薄れる記憶が「それ」を証明した。
こうして私は、この電子時計が「50」を示しても「100」を示しても、その数字と私の記憶とで、時の流れを受け入れていくのだろうと思われた。

けれども、そうして薄れていく筈であった私の記憶は、ひとたび「想起」させる対象に出会ってしまえば、あまりにも鮮やかに、鮮烈に、痛烈に、呼び起こされてしまった。

エレベーターに乗って、地上への扉を開いた。セキタイタウンの中央へと進めば、そこは綺麗に埋め立てられていた。
最終兵器の一部がひっそりと顔を出していたその小さな広場には、立派な石碑が立てられていた。
私の名前が刻まれたその石碑に、白い花を手向けようとしている、一人の若い女性がいた。

「こんばんは」

その花が「カーネーション」であることと、そのメゾソプラノの声の主が「海の目」をしていることに気付いた瞬間の私の心臓は、
きっと彼女のために、私のただ一人の親友のために、停止することを選んでいたに違いないと思えたのだ。

「貴方もお墓参りに?」

ああ、どうやら「シェリー」は死んだことになっているらしい、とか、このお姉さんが「彼女」である筈がない、とか、
でもそれならどうしてこの人の目には海が揺蕩っているのだろう、とか、どうしてそんなちっぽけな石の前に白いカーネーションを手向けているのだろう、とか、
そうした、納得も驚きも疑問も困惑も、混ぜこぜになって私の頭の中をぐるぐると周り、気が付けば私は、その見知らぬ女性の前で長く沈黙していた。
けれどもその沈黙を、どうやらこのお姉さんは「シェリー」を追悼するためのものであると勘違いしてくれたらしく、静かに優しく微笑んで、口を開いた。

「此処には、……この石碑の地下には、私の母の、親友だった人が眠っているんです」

「……シア

「あら!……ふふ、貴方も私の母のことを知っているんですね。ありがとうございます」

知っている、などというものではない。あれから30年余りが経過したこの地上の世界において、彼女がどれほど有名な人物なのかは知らないけれど、
それでも私は、彼女が有名に、立派になる前からずっと、彼女のことを知っているし、そもそも私が彼女に出会えたあの時から既に、彼女は私よりもずっと立派で、勇敢だった。
彼女の言葉は神託に似ていて、その海に「シェリーにもできるよ」と言われてしまえば、それがそのまま私の真実になっていた。

私にとって「シア」はそうした存在だった。かけがえのない、ただ一人の親友だった。

「母は随分と悔やんでいました。私がシェリーの背中を押し過ぎたのだと。私が、あの子の苦悩をもっと早く汲み取ることができていれば、と。
毎年この時期になると、白ワインを飲んで、泥酔して、酷く泣くんですよ。痛々しいけれど、それがきっと、母のグリーフワークなんだと思います」

「グリーフワーク?」

「喪失を受け入れる過程のことです。「喪の作業」と呼ぶこともあります。
大切な存在を失ったとき、人は泣いたり悔やんだり、憎んだり恨んだりしながら、長い時間をかけてその喪失を許していくんですよ。そうしなければ、人は前に進めないんです」

彼女の娘であるこの女性は、そこまで告げてその海の目をそっと閉じた。夜風が強く吹いて、彼女の美しい、少し癖のあるブロンドをふわふわと靡かせた。
その金色は、あの子がとても慕っていた、あの白衣の男性に似ている気がした。
ああ、けれどその男性の名前は何と言ったのだったのだろう。彼女が支え、変えた組織は何という名前だったのだろう。
彼女がいつも傍に連れていたポケモンの名前は?彼女をこの地に運んだ、4枚の翼を持つ紫色のポケモンの名前は?

解らなかった。もっと時間をかければ思い出せるのかもしれないけれど、とにかく今はそれらの名前に思い至れそうになかった。
けれども……こんなにも多くのことを思い出せずにいる今となっても、何故だか私は、あの子のことだけはこんなにも鮮明に覚えているのだ。
その海の目を見た瞬間から、私の中に「シア」はこんなにも鮮やかに蘇ったのだ。

「私も一度でいいから、シェリーに会ってみたかったなあ。母のただ一人の親友と、話をしてみたかった。私は彼女の姿を想像することしかできないから、少し、悔しいんです。
……貴方にとって、この中で亡くなったシェリーはどのような存在でしたか?」

私がそのシェリーです、とは、口が裂けても言えなかった。
だから私は、30年前の「シェリー」と今の私を切り離して考えることにした。
30年前の私。まだ人のように時を回していた頃の私。一度眠るだけでは、何年もの時を超えることの叶わなかった私。臆病で卑屈で怠惰で、どうしようもなく惨めだった、私。
それでも、誰かを好きになってしまった私。それでも、誰かの親友で在り続けたかった私。

「私は、シェリーが嫌いでした。臆病で、卑屈で、怠惰で、本当に、どうしようもない子でした」

「あら、貴方は……私や母の知らない「シェリー」を知っているんですね」

「そんなあの子だったから、死んでしまったところで誰も悲しまないって、思っていました。ましてや、こんな風に、綺麗な花を手向けてもらえるような存在じゃないって。
……でも、貴方のお母さんは悲しんでくれていたんですね。シェリーは、覚えてもらえていたんですね」

今も、シアは私を忘れていない。あれから30年が経った今でも、「シェリー」は彼女の記憶から消し去られていない。
そのことに私はとても驚いていた。それと同時に、胸の奥が確かな罪悪感で満たされた。
私は逃げたのに。カロスから、そこに住む大勢の人から、シアからも逃げて、ひたすらに逃げて、この石碑の地下で臆病かつ怠惰な眠りをずっと、30年も重ね続けていたのに。

こんな卑怯な私を知れば、きっとシアは私のことを嫌いになってしまうだろう。
そう思っていると、お姉さんが声を上げて笑い始めた。私が驚いていると、彼女はお腹を抱えながら、「ああ、貴方は随分と遠くから来たんですね」と納得したように口にした。

「貴方はこのカロスで、シェリーがどのような存在になっているか知らないんですね。もしかして、随分と遠くから来たのかしら?」

「え……」

「30年前の救世主は、カロスの誰にも忘れられていませんよ。彼女は真に英雄でした。誰もがその活躍を称えていました。今も、その栄光は褪せることなく輝き続けています」

彼女はそう告げつつ、腕に抱いていたカーネーションの花束から、1本だけ抜き取って私に差し出した。
「お花がないならこれを使ってください」という言葉に、断ることさえ忘れて私はその1本を手に取った。
確か私は、この花が似合うと言われたことがある気がする。他の誰でもない、あの子がそう言ったから、その神託は私の中で真実になった。
これは紛うことなき、私の花だった。

金色の髪に海の目を持つそのお姉さんは、私に小さく会釈をしてから、踵を返してセキタイタウンを出ていった。
一度だけお姉さんは振り返り、「でも」と呟くように告げて、あの子の面影を残す眩しい笑顔で、付け足した。

シェリーの栄光を祝福できていないのは、私の母くらいのものです」


2017.10.6
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