「わたしは何をすればいい?」
男はそう問い掛けた。
それは彼が以前、この広いカロスを旅していた時に、困窮していた人々に掛けた言葉と同じ様相を呈していた。
その言葉を浴びた者は感謝し、喜び、しかし次第に要求はエスカレートした。そんな愚かな人間がカロスを食い潰すのではないかと男は恐れていた。
人間というものは、得てしてそうした性を持ち合わせているのだと、人間とはそういう生き物だと、フラダリはまだ知らなかったのだ。
彼はまだ愚かな人間を許すことができずにいた。
しかしそんな彼に、少女はどんなものを要求することもなく穏やかに笑ったのだ。
「ただ、生きていてくれるだけで」
フラダリは息を飲んだ。この少女は何も望まない。求めない。
少女の唯一の願いが、懇願が、「彼が生きていること」であるというその事実は、男の胸を跳ねさせ、また同時に穏やかにもした。
彼と少女が共に過ごすようになってから、もう直ぐ一年が経とうとしていた。
*
そんな少女の提案はいつも唐突である。
散歩に行こうと言っては真夜中にフラダリを揺すり起こしたり、遠くの土地に観光に行こうと言っては朝食を摂らぬ早朝の内から彼を急かしたりする。
そんなめくるめく少女の発想と行動を、フラダリはしかし、時間をかけて日常のこととして受け止め、慣れつつあったのだ。
「フラダリさん、レストランに行きましょう」
今回もそうだった。即決、即行動をモットーにしているかのように突発的な提案をした彼女は、紙袋から新しい服を取り出して笑う。これを着ろ、ということらしい。
ポケモンは連れていますか、と尋ねられ、頷きながらフラダリは首を捻る。レストランに行くのに、どうしてポケモンが必要なのだろう。
そんな彼の疑問を他所に、少女は屈託のない笑顔でその手を引いた。彼女の手は驚く程に冷たく、けれどそれは確かに人の温度であった。
夕方のミアレシティには人が溢れている。此処はカロスが誇る大都市だ。
あの事件から1年が経ったとはいえ、世間の人はフラダリという男の名前を聞けば顔色をさっと変えるだろう。
それだけの威力がその名前には潜んでいたのだ。男の名前は畏怖の象徴として、あるいは口に出してはいけない禁忌の形として、今も尚、カロスに留まり続けている。
皆、声に出してこそいないものの、その人物の無残な最期を知っている。そして、何とか忘れようとしている。この美しいカロスに相応しくなかった、この男のことを。
だからこそ、それに似ている人物が姿を現したとして、他人の空似だと殆どの人が思うことにしている。
そして、彼が意図的にその風貌を変えていたなら尚更、気付かれることはない。
気付かれないし、気付いてはいけない。フラダリはそうした存在だった。
だからこそ、こうして月日が流れた今でもその平穏を保てているのであって、フラダリは完全にあの頃の自分を奥に隠して生きてきた。
髪にワックスを使うことなく、肩へと流すように伸ばした。特徴的なファーのついた黒と赤のスーツには、あの日以来袖を通してはいない。
彼の目にある薄い青は、伏し目がちに地へと向けられている。その口から紡がれる声も、言葉も、以前のそれとは比べ物にならない程に静かに、穏やかになった。
鏡を見て、以前の自分とは変わり果てたその姿にフラダリは苦笑した。けれどこの、肩に何の重りもないままに重ねていく生活は嫌いではなかった。
そして少女も、あの頃とはすっかり変わってしまった。
髪をオレンジ色に染め、短く切ったその上から赤い帽子を被り、服も靴も鞄も、何もかもに赤を湛えて笑っている。
まるでフラダリの赤をも引き取ったかのように、彼女は赤を纏い続けていた。
そんな、あまりの変貌を遂げた少女とフラダリの姿に、気付く人間はこのミアレにはいない。少女と更に親しい人物なら気付けたのかもしれないが、その人物は姿を現さない。
故に彼等はこの一年をかけて、少しずつ外へと出るようになっていたのだ。
少女はフラダリの手を引いて「こっちです」と大通りを堂々と歩いていく。
洒落たレストランに入る。少女に似つかわしくない高級そうな場所に男は面食らう。
外で食事をしたことは一度や二度ではなかったが、こんなレストランに少女と入るのは初めてだった。
マルチで、と囁いた少女の言葉の意味を計りかね、かつその財布から出てきた大金に目を丸くした男は、頃合いを見計らって少女に話し掛ける。
「わたしとの時間に大金を叩く必要はない」
「あ、大丈夫ですよ。ちゃんと元は取れますから」
どういうことだ、と男が尋ねるのと、ドアが勢い良く開いて2人のトレーナーが入ってくるのとが同時だった。
レストランの場でありながら、何故か彼等はボールを構えている。
そこでようやく男は気付いた。少女が男に「ポケモンを持っているか」と尋ね、ウエイターに「マルチで」と囁いたその意図を。
レストランでありながら、異様に広く作られたこの空間の目的を。
そして少女は男の手に、小さな淡く輝く石を握らせる。
「どうぞ、ギャラドスのメガストーンです」
その言葉にフラダリは息を飲んだ。
「貴方はメガリングをその中指に持っています。もう一つの必要なものも、ちゃんとあります。私にギャラドスの石は要らないから、だから使ってあげてください」
少女は現れたフィールドにボールを投げた。サーナイトは少女の方を見て僅かに頷いてみせる。
男も一瞬の躊躇の後に、ギャラドスの入ったボールを投げた。
「先制は貴方から、どうぞ」
名前を呼ばないのは自分に対する配慮だと男は知っていた。その言葉に頷き、左手のメガリングを掲げた。
いきなり始まったメガシンカに、相手のトレーナーは唖然として立ち竦む。
あの時に対決をしたギャラドスとサーナイトが、今度は味方として同じ相手に挑むという、そんな運命の悪戯がおかしくて二人は顔を見合わせ、笑った。
初めてのマルチバトルということもあり、多少ぎこちない部分はあったものの、辛くも勝利を収めることができた。
久し振りのポケモンバトルを終えた男のコートを、少女がすかさず引っ張る。
「手を出してください。あ、片手じゃなくて、両方です。……こう、こうやって上げて」
言われるままに両手を小さく掲げる。
すると少女はぴょんと飛び跳ねて、男の手の平に自分の手の平を重ねるように叩いた。
「!」
「勝ちました!やっぱり貴方のギャラドスは強いですね」
年相応にはしゃぐ少女にフラダリはしばらく沈黙し、その手を少女の頭に伸べて、そっと撫でる。
自ら彼に触れることはあっても、彼からこちらに触れてくることはあまりなかった。しかもそれがこうした人前でのことだったので、少女は当然のように驚いてしまう。
「君のおかげだ」
しかしそんな彼女に、フラダリは本当に優しく微笑んだのだ。どうして彼女が次の言葉を紡ぐことができよう。
呆然と立ち竦む少女の背中を押し、まだ次のバトルが控えていると諭す。慌ててサーナイトに向き直る少女がおかしくて、彼は笑った。
*
レストランはその建物の最上階にあった。白い大きなお皿に、ほんの少しの料理が次々と運ばれてくる。
少女と男はあれからも勝利を重ね、少女が事前に支払った代金の殆どを帳消しにしていた。
「一度、フラダリさんと一緒にバトルしてみたかったんです」
少女はその華奢な身体に似合わず、出された料理を素早く平らげていく。
食器の使い方はぎこちない。ずらりと並べられたナイフとフォークのどれを使えばいいのか解らないらしく、適当な大きさのものを選び取る彼女にフラダリは苦笑する。
外側から順番に使うのだと説明すれば、顔を真っ赤にして笑ってみせた。
食事マナーは完璧には程遠いものだったが、少女なりにこの食事を楽しんでいるらしい。それで十分だとフラダリは思った。
「一度だけでいいのか?」
「……いいえ、また来ましょうね」
それどころか、そんな風に問いかけることさえもできた。
少しだけ頬を赤らめて少女は笑う。つまりはそうした距離に二人はいたのだ。
デザートにパンケーキを追加注文した少女は、徐に外を見遣り、歓声を上げる。レストランの最上階から見下ろす町は絶景だった。
海に星が落ちているみたいですね。そう言って少女は窓ガラスに手を添えた。
「私の親友は、絵を描くのが好きなんです。きっとあの子がいたら、この景色を見てスケッチブックを広げるんだと思います。
……彼女の絵画は、過ぎる一瞬を永遠にするための儀式なんです。素敵でしょう?」
「そうか。……わたしとは気が合いそうだ」
「いいえ、その逆です」
適当に紡いだその言葉を否定され、フラダリはフォークを宙に漂わせたまま沈黙することになる。
そうか、と笑うことすらできなかった。少女があまりにも真剣な顔をしていたからだ。
「彼女は、知っているんです。全てのものがそのままでは在れないことを。だからこそ彼女はその理想を、決して届かない理想をスケッチブックの上に落とすんです。
切り取ってしまえば、それは確かに美しいかもしれません。でも、ほら、花は風に揺れるでしょう。だから綺麗なんですね」
ふわりと表情を緩めて笑った彼女に同調するようにフラダリも笑った。
目を閉じれば、あの日の雨音が直ぐ近くで聞こえた。フラダリはまだ少女の全てを理解することができない。
2013.10.23
2015.3.23(修正)