4:陶酔

男の一日はこの小さなカフェの奥、元フレア団のアジトの中で過ぎ去っていく。少女も毎日をこの場所で過ごしていた。
朝の7時にフラダリが少女を起こす。朝に弱い彼女は、その目を擦ってゆっくりと意識を覚醒させ、そのライトグレーの瞳に彼を映して微笑む。
朝食を作るのは彼女の役目だ。焼いたトーストに林檎のジャムを塗って、フラダリカフェに備え付けられたサイフォンで淹れたコーヒーにミルクを入れる。
たまに思い付いたように、フルーツの類が皿の上に加えられることもあった。フラダリはそれに頓着することもなく、文句を言わずに食べていく。
それを楽しむように少女はいつだって笑っていた。その様子が、男の知る少女の姿からは悉くかけ離れていて、フラダリは時々、恐ろしくなる。

この少女は、本当に自分の知る彼女なのだろうか?あの臆病で卑屈で、他人の目を真っ直ぐに見ることにすら躊躇いを見せていた、あの彼女なのだろうか?
その屈託のない穏やかな笑みに、あの頃の彼女の面影を見つけることはできなかった。
けれどそのソプラノでフラダリの名前を呼ぶ、その声は同じものだったので彼は信じざるを得なかったのだ。

彼女は何を目的として自分の傍にいるのか?この変わりなく過ぎていく、あまりにも退屈で退廃的な時間に、彼女は何を見出そうとしているのか?
彼女の全てを理解することができないまま、時間だけが過ぎていった。そうこうしている内にフラダリも少女も、この不可思議な日常にすっかり慣れてしまっていたのだ。

「フラダリさん、外に出てみませんか?」

だからこそ、少女のその提案に、フラダリは目を見開いて驚いたのだ。

少女がフラダリをこの場所に運び込んでから、1か月程の月日が流れていた。
だが彼女は決して、フラダリを外に出そうとはしなかった。
……当然と言えば、当然のことなのかもしれない。今やこの男の存在は「なかったこと」にされているのだから。もう彼の存在は「なくなっている」筈なのだから。
だからこそ、そのいなくなっている筈の彼が外に出歩き、誰かの目に留まるようなことがあってはならなかった。
それをフラダリも理解していた。だからこそ彼は、少女に一度も「外に出てみようと思う」とは言わなかったのだ。

……そう、彼がこの場所から一歩も外に出なかったのは、彼女にそのように強いられていたからでは決してなかったのだ。
それは紛れもなくフラダリの思惑故の選択だったのであって、つまるところ、少女がフラダリを強いて従えているというその力関係は、本当は正しくはなかったのだ。
不思議な強迫と契約で始まったこの日常は、しかし男にも少女にも同じ穏やかさと柔らかさをもってして溶けつつあったのだ。

幸いにも、此処には生活するための全ての施設が揃っている。必要なものはその都度、少女がミアレの町で仕入れてくる。
だからこそフラダリは、この決して不快ではない環境に甘んじていたのだ。
そして、おそらくは約束の30年が過ぎるまで、二度と自分は外に出ることができないのだろうと思い始めていた。更に、それでもいいとまで思っていたのだ。

「お散歩に行きましょう。私に付き合ってください」

この、傲慢で愚直で、諦念を知らない純粋な男には時間が必要だった。
彼が切り捨てた人間という生き物の小ささと、その小さな人間から成る大きな世界とを知る時間が必要だった。
王の弟の子孫である彼は、大きすぎる勘違いをしていた。その歪に膨れすぎた風船のようなプライドと信念を、少しずつ解していかなければならなかった。
その時間として、30年という月日は十分すぎる程の長さを持っているように感じられた。
もっとも、少女がそこまで理解した上で、男に自らと生きることを強いたのかどうかは定かではないが。

ただ、言えることがあるとすれば、この少女はフラダリと暮らし始めてから、全ての人間との連絡を絶っていた。
少女の旅を支えた博士にも、アサメタウンの隣人であるポケモントレーナーにも、彼女が出会った友達にも、血を分けた両親にさえも、彼女は連絡を取らなかった。
長かった髪をばっさりと切り、美しいストロベリーブロンドの髪を鮮やかなオレンジ色に染めて、別人のような笑顔を湛えていた。
自らを知る全ての人の目を欺き、彼等から隠れるようにして少女は自分を偽りの色で塗り重ねていた。
その理由は、目的は、フラダリが知るべくもないのだろう。少女しかその真実を知らない。
ただ、少女は疲れ果てていたのだ。倒錯的な生き方に陶酔してしまう程に。たった一人の親友の制止をも振り切ってしまう程に。

「はい、どうぞ」

「……これは?」

「そのままの服だと、直ぐにバレてしまいます」

少女は紙袋を差し出し、肩を竦めて微笑んだ。男はそれもそうだと頷き、着替える為に部屋の奥へと姿を消す。
最初の邂逅でこそ一悶着あったが、男は少女のおままごとに付き合ってくれる姿勢を見せていた。疲れ果てていた少女にはそれすら嬉しかった。

灰色のシャツの上から、黒いコートを羽織った彼が姿を現す。適当に選んだサイズだったが、どうやらぴったりだったらしい。
そのことに安堵した少女は、カフェのシャッターを僅かに開けて外に出た。
外は激しい雨が降っていて、人通りはないに等しかった。成る程、とフラダリは頷く。この人の少なさなら、確かに外に出ても構わないだろう。

少女が広げようとした黒い傘を、彼はそっと取り上げて広げた。少女の方に僅かに傾けられる。その配慮に少女は気付いている。
しかし声には出さない。そうすることで彼が顔を僅かにしかめるのを知っているからだ。
これまで男と交わしたのは他愛のない世間話ばかりだったが、それでも男の人格を計り知るには十分だった。
彼はさり気ない配慮をするのがとても得意ではあったが、それを指摘された時のかわし方を心得てはいないのだ。
そんな人間らしいところを少女は好きになり始めていた。この閉鎖的で倒錯的な時間に、歪んだ愛着と愛おしさを持つのは至極簡単なことであるように思えた。

「4番道路を歩いたことはありますか?」

「いや、最近は通っていない」

「とても素敵な場所ですよ」

ミアレシティの南にあるゲートを抜けた先には、洒落た庭園が広がっていた。
雨なので人通りも少ない。晴れた日には庭師が笑顔でバトルを申し込んで来る賑やかな通りだが、今日は彼等の姿も見えなかった。
少女は気ままに歩みを進める。男は傘を少女の方に差し出しながら後を付いていった。

「フラダリさん、屈んでください」

とある黄色い花畑の前で少女はそう紡いだ。言われたとおりに男はその高い背を折り曲げるが、彼女の視線の先には黄色い花があるだけだった。
「流石にわたしでも花は知っている」と返したフラダリに、少女はクスクスと笑いながら更に下を指差した。
その指の示すままに黄色い花の下を覗き込むと、小さな目がじっとこちらを見上げていた。
フラべべだ。白い花に寄生するものを初めて見たらしく、少女は目を輝かせていた。
「雨宿りしているんでしょうか」と呟いて、少女は鞄の中からカラフルなお菓子を取り出し、手の平に乗せて差し出した。

「私達は貴方と戦ったりしません。その綺麗な花を見せてくれませんか?」

フラべべは自分が乗っている白い花と、少女の目とを交互に見遣り、しばらくしてそっと距離を縮めた。
ポフレを頬張りながら、嬉しそうに笑う。自分の花を褒められたのが嬉しいらしい。
少女がそっと指を伸ばしてその小さな頭を撫でると、心地良さそうに目を細めた。

可愛い、と零す少女の感嘆の声音が、完全にカロス地方のものであることに男は驚いた。
自分の前ではぎこちない言葉しか喋れなかった筈のあの少女と、目の前の人間がどうにも上手く一致しない。
一致しない。けれど目の前にいるのは、間違いなく、あの時の少女なのだ。フラダリはこの1か月という月日をかけて、その変化を受け入れつつあった。

「随分と上達したものだ。もうすっかりカロスの人間ですね」

「!」

すると少女は掌のポフレを取り落とした。フラべべがそれに驚き、さっと花畑の奥に逃げていく。
何か少女を動揺させる言葉を言ってしまったらしい。男は苦い顔をして謝罪の言葉を紡いだ。

「すまない」

「あの、違うんです。……嬉しくて」

私、カロス地方の人間になれたんですね。そう付け足して少女はほっとしたような安堵の笑みを浮かべた。
そうした表情を浮かべる彼女に掛けるべき言葉が思いつかず、男は少女の頭を赤い帽子の上から撫でた。
それが続く言葉をなくした時の彼の癖だと、少女は他愛のない会話を経て知ることができていた。

立ち上がって、再び雨の中を歩く。一つの黒い傘は大きいが、二人を入れて歩くには些か足りないらしく、フラダリの左肩が雨に濡れる。
勿論、少女はそのことに気付いている。けれど何も言わなかった。
言ったところでフラダリはきっと、自分の方に向ける傘を止めない。かといって、これ以上二人の距離を詰める勇気はまだ、彼女にはない。
故に少女は気付かない振りをして、楽しそうに言葉を紡ぐことを選んだ。

「雨の日は空気が違いますね。私、この空気と音が好きなんです」

「……何故?」

「目を閉じてください」

男が言われたとおりに目を閉じると、空気に溶け込んだ雨音が鼓膜を震わせた。生き物が静まり返るこの天候は、カロスの町を洗い流していく。
ああ、この音は町が浄化される音なのか。男はそう思ったが、声には出さなかった。そんなことを声に出せば彼女が泣いてしまうような気がしたからだ。
実際は、あの日から彼女が泣いたことなど、ただの一度もなかったのだけれど。

「止まない雨はないけれど、それでも素敵でしょう?」

その少女の言葉の意味を、男が理解するのはずっと後のことだ。


2013.10.23
2015.3.22(修正)

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