7 (Mother)

アズール湾には幾つかの浅瀬や小島が点在している。今回、二人が降り立ったのは、周りを小高い崖に覆われた、西の方にある島だった。
海から見ると大きな岩礁にしか見えないその島は、しかし空から見ると内側に小さな浅瀬と平地を形成している。
自然が造り上げることの叶った不思議な空間に、彼女は目を丸くして驚いていた。

「こんな場所があったなんて、知りませんでした」

パンプスと二―ソックスを脱ぎながら少女はぽつりと感慨深そうに零す。小さな花柄のあしらわれた水着、そのレースが潮風に揺られてふわふわとはためく。
パキラも衣服や靴の類を砂浜に投げ捨てて、「そうでしょう?」と自慢するように笑った。

「私はよく、ファイアローに乗ってカロスの山や海を飛び回るの。皆が知っているところじゃなくて、誰も知らないところを探すのが好きなのよ」

「……誰も知らない場所を見つけることが、楽しいからですか?」

「それもあるけれど、カロスの美しさというものは、本当はこういうところでひっそりと見つけられるべきなんじゃないかと、思っているから」

その言葉に、服を畳んでいた少女は息を飲んだ。
バストの中央にあしらわれた細いリボンをくるくると指に絡めながら、裸足で砂浜を踏みしだけば、僅かに砂の鳴く音が聞こえた気がした。
服を畳み終えた少女を呼び「ここ、鳴き砂みたいよ」と足元を示せば、しかし少女は鳴き砂を知らないらしく、その単語だけを繰り返して首を捻った。
教えるよりも実際に聞いた方が早いだろうともう一度強く砂を踏めば、キュ、と今度ははっきりとパキラの耳にも音が届く。
「え?」と驚きのあまり声を上げた少女は、しかし自分でも砂を踏みしだき、その度にキュ、と高い音が鳴る様を何度も夢中で繰り返していた。

「わっ、ないてる……」

驚きと感動の混ざったその言葉は、「鳴き砂」の本来の意味を取るのなら「鳴く」と言う方が正しいのだろう。
けれどパキラにはどうにも、この少女が「鳴き砂」ではなく「泣き砂」と誤認しているように思われたのだ。
夢中になって幾度も砂浜を強く踏む彼女が、まるで「私の代わりに泣き続けてください」と、砂に訴えているように思われてならなかったのだ。

「……砂にも色々とあるみたいで、私は詳しく知らないのだけれど、綺麗な砂浜じゃないとこの音は聞けないらしいわ」

「じゃあ、此処は本当に美しい砂浜なんですね」

ようやく砂を踏みしだくことを止めた少女は、大嫌いだと叫んだカロスの一部であるこの場所を「美しい」として、微笑んだ。そのことに少しだけ救われた気分になった。
少しでも少女の、カロスに対する鬱屈した感情が取り除かれればいいと思った。けれど永遠にカロスを嫌ったままであるならば、しかし、それはそれでよかったのだ。
彼女がカロスをどう思っているか、それはパキラにとって確かにある程度重要なことではあったのだけれど、
それでもその思いがどんな形を取っていたとして、パキラのこの少女に対する想いは変わりようがなかったからだ。

『私は貴方が何をしても、何もしなかったとしても、私を嫌っていたとしても、憎らしくて情けない貴方のことが好きよ、シェリー。』
昨日のあの言葉が、パキラの全てであったからだ。

「さあ、折角海に来たのだから泳ぎましょうか。本格的な遠泳をしなくとも、浅瀬に浮かぶくらいならできるでしょう?」

規則的に打ち上げられる波に足を浸した。少女と共にゆっくりと歩みを進めた。くるぶしを掠める程度であった波は次第に膝まで及び、腰の辺りまで飲み込むようになった。
足を浮かせて泳げば、やはり海水だからか身体は特に問題なく浮き上がった。時折やってくる大きな波にひやりとさせられるけれど、特に危ない、ということもなさそうだ。

臆病な少女は果たして大丈夫だろうかと顔を上げれば、しかしパキラの予測に反して少女はあまりにも遠いところを泳いでいた。
パキラさん、と至極楽しそうに彼女を呼ぶその声が波に掻き消され、ひどく頼りないものとしてパキラの耳に届く。
さっと血の気が引いた。身を震わせるような恐怖というものを、おそらくパキラはこの少女に対して初めて抱くに至ったのだ。

シェリー、戻って来なさい!」

潮風に乾かされた掠れた喉は、あまりにも頼りない叫びを奏でることしかできなかった。
彼女は驚いたようにその場で硬直したけれど、やがてふわりと微笑み「大丈夫です!」と笑った。

「ちゃんと、貴方のところへ戻ります。だから心配しないでください!」

彼女らしくない気丈な声音は、しかしパキラを益々不安にさせた。
貴方はそう言って、私の連れ戻せないところへと行ってしまうのではないの?貴方は今もカロスを、そこに住む人々を、許せずにいるのではないの?
自分のことさえも大嫌いだと言ってしまった貴方は、足の着かない海に飲まれるならそれも本望だと、そんな破滅的な勇敢さでそこまで泳いでしまったのではないの?

けれど少女は「戻ってくる」と言った。だからパキラは自らの足が着くギリギリの深さで少女を待つしかなかったのだ。
残念なことに泳ぎに関しては、そうした破滅的な勇敢さを持つ少女の方が上手であったし、
何よりここで少女の言葉を信じなければ、二人がこの1日で積み上げてきた関係は大きく形を崩し、二度と戻らなくなってしまうような気がしたからだ。
だからパキラは自らの不安と恐怖に嘘を吐き、奔放な行動を取る彼女に呆れているのだという表情を作りながら、
しかし少女が泳ぎ疲れてこちらへゆっくりと戻ってくる姿から決して目を離すことなく、浅瀬の終わりで彼女を待った。

そうしてようやく戻ってきた少女の手を、強すぎる力で掴み、引き寄せた。呆れたような笑みを作る余裕さえ失われていた。
よかった。彼女は戻ってきた。当たり前だ、彼女が戻ってくると言ったのだから、戻ってこない筈がなかったのだ。
けれどパキラはどうしようもなく安堵していた。そして安堵している自分が、ひどく滑稽に思えてならなかったのだ。
そんな彼女の心に吹き荒れた嵐を読むように、少女はライトグレーの目を細めて眩しそうにパキラを見上げる。

「大丈夫ですよ、私は戻ってきます。貴方がどんな私でもいいと言ってくれたから、私は貴方のところへ必ず戻ります」

「……何のことかしら?私はただ、貴方が溺れてしまうことが怖かっただけよ」

砂浜に腰を下ろして、コンビニで買った菓子パンの包みを開けた。
海に濡れた手では甘い菓子パンも塩辛くなるのだと、そんな当たり前のことがおかしくて、顔を見合わせて笑った。
平地の草むらに視線を移せば、カラフルなくちばしと羽を持つポケモンが二人の笑い声を真似るように鳴いていた。
「ペラップ」というポケモンなのだと、指差して示せば少女は楽しそうにその鳥ポケモンを見ていた。ポケモン図鑑は取り出さなかった。

昼からも同じように海へと向かった。
浅瀬で水を掬い上げては彼女の綺麗な顔に投げつけるようにかけた。少女も対抗するようにパキラへと足元の水を投げ返した。
少女はやはりパキラよりずっと深いところを泳いでいたけれど、もう呼び止めることはしなかった。
自身の中で渦巻く不安と恐怖に嘘を吐きながら、彼女が自分の手の届くところまで戻ってきてくれるのを、ただ待っていた。
長く水に身体を浸したことにより、手や足の指先がふやけ始めていた。
3時を過ぎた頃には二人とも、恐ろしい程に疲弊していて、鉛のように重くなった身体を叱咤して、なんとか砂浜に腰を下ろし、互いに力なく笑い合った。
そんな何もかもが幸福であるように思われた。そのことに恐怖する必要はもうなくなっていた。

「私もカロスが嫌いよ。窮屈で息苦しくて、たまにどうしようもなく寂しくなる」

「パキラさんでも、寂しいと思うことなんてあるんですね」

だって私も貴方と同じ人間なのよと告げれば、しかしそんな当然のことにもひどく驚いたような表情を浮かべる。
「そっか、そうなんですね。同じなんですね」と繰り返しながら、少女はパキラの肩に凭れ掛かった。
その華奢な身体に体重を掛けられたところで特に困ることはなかったから、パキラはそうやって自ら動き出すことの叶った少女を、ただ黙って許した。

「でも、好きになろうと思うの。好きになる努力をしようと思ったのよ。だってこの土地じゃなければ貴方に会えなかったのだから」

この嫌いなカロスに生きていたから貴方に会えた。貴方がこんなにも臆病で愚かでなければ、きっとカロスはあの花に毒されていた。
だから私は貴方のことを嫌いになどなれやしないし、きっとカロスのことも長い時間をかけて好きになれる筈だと、しかしパキラは伝えることができなかった。
何故ならパキラがそう告げるより先に、隣から小さな寝息が聞こえ始めたからだ。

何時間もずっと泳いでいた疲れが今になって現れたのだろう。緊張することさえ忘れてしまう程の疲労だったのだと、パキラは苦笑しながら少女の横顔を見る。
さてどんな言葉でこの子を起こしたものかと考えていると、揺れた頭がそのままこちらへと倒れてきて、咄嗟に腕で受け止めてから、膝へと頭を下ろした。

「こら、起きなさい。貴方を抱えて町まで戻れる程、私は力持ちじゃないのよ」

苦笑しながら彼女を咎める言葉を紡いだその瞬間、しかし信じられないような単語が少女の口から紡がれたのだ。

「おかあさん……」

なんですって、と冗談交じりに怒ることも、あまりのおかしさに笑い出すこともできた。
けれどパキラはそうしなかった。できなかったのだ。
代わりに少女の頬を摘まんで思いっきり引っ張れば、「痛い!」という甲高い悲鳴が二人だけの砂浜に木霊した。

もういっそのこと「お母さん」でもいいように思えた。だってこの少女は危なっかしすぎるのだ。「お母さん」が、いてあげなければいけない気がしたのだ。
それにこの少女は自分のところへ戻ってくると言った。何があってもパキラの下へ帰るのだと、そのライトグレーの目を細めて笑ったのだ。
それならば、そうした位置にいるパキラを母親と呼んだとして、それはとても自然なことであるような気がしたのだ。
このひどく寂しがり屋な女性でも、彼女の何もかもになることくらい、できる筈だ。


2016.3.14
(母)

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