8 (Anyone)

ヒヨクシティのホテルでシャワールームを借り、海水を洗い流して、それなりの服に着替えた。
またしても少女は髪を乾かすことなく階段を降りてきたので、慌てて腕を掴んで2階へと連れ戻し、椅子へと無理矢理座らせてドライヤーを当てた。

「パキラさん、ドライヤーが好きなんですね」

そんなことを言って笑う少女の頬をもう一度引っ張りたくなったけれど、
その的外れな指摘に対する呆れを押し留めて、「ええそうよ、私は貴方の髪を乾かすのが大好きなの」と得意気に告げれば、少女は黙って顔を隠すように俯いてしまった。

少しだけ顔を赤くした少女を再びファイアローに乗せて、初日に待ち合わせたミアレシティの大通りへと降りた。
まだ日が沈むには早いけれど、それでも人の波は帰宅するために忙しなくその歩幅を大きくしていた。
その合間を縫うように、少女の手を引いて通りを歩いた。特に言葉は要らなかった。
パキラの行き先は既に決まっていたし、そこが少女の行きたいところでもあったから、今更、「何処に行くんですか?」と尋ねるまでもなかったのだろう。

ミアレではそれなりに名の知れたレストランに入り、予約の確認を取った。
ポケモンバトルを楽しみながら食事のできるレストランということでも有名だが、今日は単に食事だけを楽しむつもりで、パキラは一般席を予約していたのだ。
誰かに背後を取られない壁側の席に少女を誘導すれば、彼女は安心したように笑って席に着いた。

「あの、こういうところで食事をしたことがなくて……」

「あらあら、それじゃあ今日は色々と覚えて帰らなきゃいけないわね」

そう告げれば、少女の顔が少しだけ曇った。
学ぶ姿勢を知らない彼女は、勉強に類するそうした暗記事項を頭に詰め込むことすら嫌悪の色を見せるのかと思ったけれど、どうやらそうではなかったらしい。
手を拭くための温かいハンドタオルで右手を包みながら呟かれたその言葉は、パキラの予測を悉く外してきたのだ。

「もう、二日経ってしまったんですね」

ああ、彼女の顔を曇らせた単語は「覚える」ではなく「帰る」の方であったのだと、そう理解して心臓を何か熱いものが押し潰していった。上手く息ができなかった。
変だわシェリー、貴方は私のことが大嫌いなのではなかったの?
しかしそう告げることはしなかった。
大嫌いだと叫びながら、それでも縋らざるを得ないその感情の名前を、手放すことのできずにいるその愛しさの正体を、パキラはとてもよく知っていたからだ。
それは他でもない、この少女に教わったものであったからだ。

「ありがとうございます、パキラさん」

「あら、どうしてお礼を言うの?私はただ、私の行きたい場所に貴方を連れ回しただけよ」

「でも、貴方がいなければ私はカロスを美しいと思うことができないから」

カラン、と前菜を切り分けていたナイフを取り落とした。
彼女の口から決して聞く筈のなかったその音を、幻聴でないかとすら思ってしまった。
「なんですって?」と冗談っぽく笑いながら尋ね返せば、しかし彼女は真っ直ぐにパキラの目を見据え、今度こそ聞き間違えようのない響きで彼女の鼓膜を揺らしたのだ。

「カロスは私が思っていたよりもずっと美しいところだって、貴方が教えてくれたから」

それは、もっとずっと長い時間をかけて彼女に教えていこうとしていたものだった。
たったそれだけのことを、しかし彼女にとってはひどく難しい筈であったそのことを、彼女が彼女自身のものとするには、もっと長い時が掛かる筈だったのだ。
けれど臆病で卑屈な少女は、たまにこうした思い切った変化を見せる。少女をよく知っていた筈のパキラでさえ息を飲む程の鮮やかな変化は、彼女をただ驚かせる。
そう、と小さく相槌を打って再びナイフを手に取った。他愛もない話を重ねながら、夜はゆっくりと更けていった。

シェリー、私は貴方の望んだ私で在れたのかしら。

夕食を終えた二人は、再びファイアローの背に乗って北東へと向かっていた。
本当はあのレストランでの食事を終えた段階で解散、となる筈だったのだが、最後の最後で少女が「行きたい場所がある」と口にしたのだ。
彼女が自ら発した希望を、聞き届けないなどという無粋なことができる筈もなかった。

ヒャッコクシティの日時計は、陽の沈んでしまった夜でさえも、僅かな月明かりを反射して眩しく煌めいていた。
弾けるような光の点滅に思わず目を細めたけれど、少女は寧ろ瞬きさえ忘れてしまったかのように、真っ直ぐにその輝きを見上げていた。
「この場所が好きなの?」と尋ねれば、しかし彼女は困ったように笑い、首を振る。

「寧ろ、怖かったんです。眩しすぎて、美しすぎて、恐ろしいと思ってしまったんです。
カロスの美しさってそうした、暴力的な迫力があるような気がして。……この日時計は特に、そうした力を持ちすぎているような気がして」

そう、と小さく相槌を打って隣に並んだ。美しいことは恐ろしいことなのだと、パキラはこの少女がこうして口にしなければおそらく知ることもできなかった。
この少女に教えるべきことは沢山あったが、彼女自身もこの無知で無学な少女から、あまりにも多くのものを学ばなければいけなかったのだろう。

「でも、今はあまり怖くない」

溜め息混じりに発せられた言葉に、パキラの心臓は大きく震えた。
シェリー、手を出しなさい」と告げれば、少女はようやくその日時計から目を逸らして彼女を見上げる。
どうしたのかと窺うように差し出された手を強く握れば、当然のように握り返された。少女の手はパキラのそれよりも少し、ほんの少しだけ小さい。

「それじゃあ、この町に住む?」

「え……?」

「レンリタウンもいい町だったし、海の見えるヒヨクシティも捨て難いけれど、貴方がこの日時計を気に入っているのなら、きっとこの町が一番いいわ」

彼女は驚愕と動揺にぎこちない瞬きを繰り返し「え」とか「待って」とか、意味をなさない音ばかりを繰り返した。
「パキラさん、引っ越すんですか?」と、ようやく彼女が自分で導き出すことの叶った答えは、しかし無知で無学な彼女らしい、若干の的を外したものだったので、
パキラは笑いながら「引っ越し先を探していた訳ではないのだけれど、」と前置きしてから、おそらくは尋常でない程の勇気を振り絞って、告げた。

「ミアレシティのあの部屋は、貴方を招くには狭すぎるでしょう?」

長い、長すぎる沈黙を経て、少女は声を上げて笑い始めた。
その笑い方には強烈な既視感があった。『生きるって、とても醜いことなのよ。』と嘗て告げたあの日を思い出させるような、強すぎる衝撃を持て余した不安定な笑い声だった。
遅からず、わっと泣き出されることが分かっていたので「ほら」と手を伸べれば、笑いながら少女は胸に飛び込んできた。
手の大きさは少ししか変わらないけれど、その肩や背中はパキラのそれよりも格段に小さかった。少し力加減を誤れば抱き潰してしまいそうだった。
やがて聞こえてきた嗚咽に苦笑しながら、パキラはゆっくりと言い聞かせるように囁く。

「貴方の何にだってなってあげる」

「……」

「貴方が恋人を望むならそうなるし、母親や姉の姿を望むならそれらしく振る舞うわ。
お友達でいたいなら、これからも今日みたいにふざけ合いましょう。またあの人を悼みたくなったなら、一緒にいつまでも覚えていてあげる」

貴方の行きたいところへ行きましょう。貴方のしたいことを一緒にしましょう。貴方の望む何もかもになりましょう。
貴方を救うための言葉は私が用意してみせる。貴方の恐怖を取り払うためなら何だってしてみせる。
だから私を貴方の傍に置いて。勝手に消えてしまおうだなんて馬鹿なことを考えないで。

すると不思議なことが起きた。少女は嗚咽を不自然に止め、ぼろぼろと涙を零しながら再び笑い始めたのだ。
どうしたの、と尋ねれば、たっぷりの長い沈黙を置いて彼女の口が魔法の言葉を放つ。

「それじゃあ、パキラさん。貴方のままでいて」

その言葉はパキラの思い上がりをあまりにも呆気なく砕き、そして欠片は僅かな痛みと消えない温もりをもってパキラの心臓を揺らし続けた。

与えるのはいつだって自分の方なのだと思っていた。支えているのは他でもない自分なのだと信じていた。
けれどいつの間にか、彼女は支えるべきこの小さな少女に支えられていた。与えるべき対象である少女から、彼女は多くを受け取り過ぎていたのだ。
これでは何のために二人でいるのか解らない。与えたり与えられたり、支えたり支えられたりしながら、彼女たちは一体、何処へ向かおうとしているのだろう。
その行き先は、この女性にも、その腕の中で再び嗚咽を零し始めた少女にも解らなかった。

けれど本来、互いに想い合うとはそういうことだったのだ。凭れ掛かるばかりでは、求めるばかりでは共に生きてなどいかれないのだ。
そうした当然のことを、しかしこの少女を前にすれば呆気なく忘れてしまいがちになるそのことを、この女性が思い出すまでにそう時間は掛からない筈だ。

そうして二人の姿はあるべき形を取る。
その歪な形をした関係に名前はない。けれど確かにそこに在る。二人の手の中で煌めいている。
人はそんな彼女たちの煌めきに「絆」を見ることも「愛」を見ることもできるのだろう。


2016.3.14
(誰にでも)

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