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迷いの森に降り立った私は、ライモンシティのような都会町の近くにこんな場所があったのか、と思わず溜め息を吐いた。
木が濃い密度で生い茂っていて、テントを張るどころか、その木々の隙間で寝転がるのがやっとであるかのような、それこそ「樹海」と呼ぶに相応しい場所だった。
気を抜けば直ぐにでも迷ってしまいそうなこの場所で、しかし彼は微塵の迷いも見せることなく、真っ直ぐに樹海の奥へと進み、何もないところに手を伸べた。

「!」

するとそこに、まるで「ずっとそこに鎮座していた」かのような自然さで、霧のように一台のキャンプカーが現れたのだ。
それまで見過ごしていたとするにはあまりにも大きなその車は、しかし彼が手を引っ込めればまたしても、樹海に溶けるようにその姿を隠してしまった。
あまりの驚きに息を飲み沈黙していると、Nは私の方へと振り返り、「此処にお世話になろう」と告げた。
彼を恐れることも、大きすぎる彼との隔絶に愕然とする暇もなく頷いた私に、彼はついておいでと促すようにその中へと乗り込んだ。

他人の車に無断で立ち入るなんて、と少しばかり驚きながら、けれど超然的な何もかもを持ち合わせた彼はそうした礼儀すらも知らないのでは、と青ざめて追いかける。
しかしそうした心配は杞憂だったようで、彼は中にいた一人の女性に、親しげに話し掛けていた。

「久しぶりだね。この場所を少しだけ借りたいんだけど、構わないかな?」

私は少し、いやかなり安心した。
彼も人間なのだと、私やプラズマ団の他にも人の知り合いがいたのだと、そう認めてこれ以上ない程に安堵したのだ。
しかしそうした、私の幸福感を伴った心地良い「安堵」は、しかしその女性が人ならざる鳴き声を上げて、ぱっとポケモンの姿に変化したことにより、
驚愕という力をもってしてあまりにも呆気なく絶望の心地へと突き落とされ、粉々になってしまった。
先程までの幸福感が嘘のように、私はただ青ざめて愕然と立ち尽くしていた。硝子の割れるような幻聴が、鼓膜に張り付いてなかなか消えてくれなかった。

……よく考えれば、当然のことだったのだろう。
「普通の人」には見ることのできないキャンプカー、そこに暮らす女性が「普通の人」である筈がなかったのだろう。
だからこの絶望は私の思慮不足が招いた当然の結果なのだと、この青年に「普通」を求めること自体が間違っているのだと、私は静かにそう言い聞かせていた。
Nはポケモンの声を聞くことはできるけれど、人である私の心を読むことなどできないから、私は超然的な彼から視線を逸らして、何度も何度も、無音で繰り返した。
彼は「ヒト」なのだと。人であるけれど私とは少し違うのだと。けれどそれを恐れる必要など何一つないのだと。恐れてはいけないのだと。

黒と赤の毛並みを持つゾロアークは、そっと目を細めてNに頭を数回撫でてもらった後で、キャンプカーを飛び出し、直ぐに戻ってきて頷いた。
彼はさも、そうであることが当然のように「此処を貸してくれるみたいだ」と告げた。
私はまだ少しばかり恐れながら、彼とゾロアークへの訝しさを完全に消し去ることのできないまま、それでも何とか頷いてみせた。
彼は「見つかる」などという不安を微塵も抱いていないかのように「大丈夫」と断言していつものように、底の知れない、不気味な笑顔を浮かべる。

「ゾロアークは幻覚を見せるポケモンだ。他のヒトにはこの森は、足の踏み場もない程に木々が生い茂っているような、そうした薄暗い場所にしか見えていないよ」

「……あんたの、トモダチなの?」

何故そんな、解り切ったことを尋ねたのだろう。私は自分の間の抜けた質問に呆れてしまった。
彼にとってポケモンの全ては「トモダチ」であり、私の手持ちであるポケモンにだって「トモダチ」と呼ぶのだから、
この森に暮らすポケモンだってその例に漏れていないのだと、そんなこと、容易に想像がついて然るべきであった筈なのに。
けれど彼はそうした私の愚かな質問に気分を害することなく、寧ろ嬉しそうに「そうだよ」と肯定の意を示して、キャンプカーに備え付けられたソファに腰掛けた。

ポケモンしか立ち入ることのできないこのキャンプカーは、しかし驚く程綺麗に片付けられていて、埃の一つも見当たらなかった。
ゾロアークというのはその実、とても綺麗好きなポケモンであるのかもしれない。

「さて、キミの話を聞こうか。キミが何に迷っているのか、何故ボクと戦うことを躊躇っているのか、教えてほしい」

彼は私の中の混乱を読まない。だからこそ、そうしたマイペースな態度で私に言葉を促したのだろう。そうした姿に少しばかり救われた心地がした。
彼が私の顔色を窺うといった「人らしい」行為をしないことに安堵してしまい、そして益々、彼は人では有り得ないのだと認識して愚かにも絶望した。
彼の背に伸びているだけであった筈の白い糸は、私の方にも伸びてきているように思えた。腕が、首が、呼吸が、徐々に締め付けられているような気がした。

それでも、彼と向き合うことがこうした絶望の心地を伴うものであったとしても、彼と私の世界とが相容れないところに在ったとしても、
それでも彼は紛うことなき私の味方であった。唯一の理解者であったのだ。
そうした彼が私に与えるこの息苦しさなど、英雄という肩書きを背負うことに比べれば、どうということはなかったのだろう。
それにこの息苦しさは、誰かに押し付けられたものでは決してない。私が選んだのだ。私がNの手を取り、私がこの息苦しさを負うと決めたのだ。
だから私は、私とNの背中に張り付き、私とNとを締め上げる、見えない糸に決して屈しない。屈するものか。
私はいつか、この糸を断ち切って自由になるのだ。この時間はそのための一歩なのだと信じていた。

「話をするのもいいけれど、その前に食事の準備をしましょう。あんた、料理をしたことはある?」

「料理?」

まるで新しい単語を見つけた子供のように、彼は色素の薄い目を真ん丸に見開いてこてん、と首を傾げた。
ああ、「プラズマ団の王様」として大事に大事に育てられてきた彼は、料理などついぞしたことがなかったのかと、呆れたように笑いながら少しだけ安心した。
私にも彼に取れるイニシアティブがあったのだと、誇らしくなった。彼が人間らしくないのであれば、これから私が少しずつ教えていけばいいだけのことだと思えたのだ。

キャンプカーに備え付けられた簡易キッチンが今も使えることを確かめてから、私は鞄からインスタントのラーメンを2つ取り出して、割り箸と一緒にテーブルへと並べた。
彼はソファから身を乗り出して、不思議そうに首を傾げた。一つを手に取れば、そのあまりの軽さに驚いたらしく、
彼は小さく声を上げてから、それを小さく振ったり耳に当てたりして、中の様子を探ろうと試行錯誤していた。

「それにお湯を注いで3分待てば、ラーメンっていう料理になるのよ」

「……これが料理になるのかい?」

半信半疑といった風に眉をひそめる彼の腕を取り、コンロを捻れば暫くして問題なく火が付いた。
その上に水を入れたやかんを置いて、沸騰するのを待っている間にラーメンの蓋を開けておこうと、そちらから目を離したのがよくなかったのだろう。

料理の経験がない、お湯を沸かしたことさえもない。そんな彼に教えられることはあまりにも沢山あるのだと、そんな些細なことに舞い上がっていた私は、
彼がコンロの上でふわふわと踊る赤い炎に興味を示して立ち上がったことも、やかんの下に手を差し入れてその炎に触れたことも、
「熱い」という感覚さえも体験したことがない彼が「痛い!」と声を上げて手を慌てて引っ込めたのも、そうした事が全て終わってしまうまで、全く気付いていなかったのだ。
気付いた時にはもう、炎に焼けた赤い指をひらひらと仰ぐように動かして、困ったように笑う彼の姿が完全に出来上がっていて、私は衝撃と後悔にくらくらと眩暈を覚えた。

「何をしているの!」

「え、……いや、とても綺麗なものがあったから、手に取って確かめてみたいと思ったのだけれど、どうやらこれは触れてはいけないものだったようだね」

それは「炎」というのだと、水を温めたり食材に火を通したり、部屋を暖めたりするのに使うのだと、
人がそれに触れれば、ポケモンが炎タイプの技を食らったのと同じように火傷という状態になるのだと、
ポケモンに使える「火傷なおし」のような便利な薬は、しかし人には効果を示さないから、私達が火傷になった場合にはただ水で冷やして自然治癒に身を任せるしかないのだと、
そうした全てを果たして、どれから説明すればよかったのだろう。私は彼にどうやって、どのような言葉で、それらを伝えればよかったのだろう。
解らなかった。解らなかったから私はただNの腕を勢いよく掴み、すぐさま冷凍庫から氷水を用意してNの指をそこへと突っ込ませた。
冷たいよ、と困ったようなNの懇願を無視して、私は大きな溜め息と共にまくし立てた。

「あれは炎っていうのよ。人が触れたら火傷をするの。こうやって冷やすことでしか対処できないのよ。だから不用意に触っちゃいけないの」

「……ああ、これが火傷なんだね。けれどキミは火傷なおしを持っていないのかい?」

「あれはポケモンにだけ使える薬よ!あんたには使えないわ!あんたは人でしょう!」

貴方と私は同じ形をしているのだと、性別も背丈も髪の色も違うけれど、それでも貴方は私と同じ人間なのだと、ポケモンでは有り得ないのだと、
お願いだから理解してくれと、受け入れてくれと、訴えるように、言い聞かせるように、懇願するように叫んだ。
彼は小さく頷いて「そうだね」と、普段の早口を忘れたようにゆっくりと、噛み締めるように呟いた。そして私の顔に視線を移して、ぎこちなく微笑んだのだ。
おそらく彼は狼狽していたのだろう。だって私はみっともない顔をしていたから。きっと泣きそうな顔になっていたから。

コンロの炎に指を突っ込んだ彼の方がずっと痛くて、その火傷によって自らがポケモンではなく人であるのだと知らしめられた彼の方がずっと苦しい筈であったのに、
そんな彼が私に向かって「大丈夫かい?」と労るように告げて、困ったように首を傾げている。その様はあまりにもおかしく、滑稽だった。
私達はずっと、おかしかった。

私は自分の首に手を当てた。細く黒い糸が強く巻き付いているような気がして、酸素を求めて大きく息を吸い込もうとしたけれど、できなかった。
次に深く息を吸えば、吐き出されるのは空気ではなく嗚咽になってしまうような気がしたからだ。
私よりもずっと深く傷付いている筈の彼の前で、私が泣くことは許されないと、思ってしまったからだ。


2016.4.7
(「シンデレラ」より、姫の幸せを妬んだ継母と、その目を突き抉り取った、姫のトモダチである小鳥)

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