2

Nはレシラムの背にひょいと飛び乗り、私の方へと手を伸べた。
残念なことに、この時の私はまだポケモンに乗って空を飛ぶという体験をしたことがなかったから、少しばかり躊躇いの心地が残っていたのだけれど、
それでもこいつに、私が怖がっていると思われてはいけない、などといういつもの強がりを発揮して、なんてことのないように苦笑しながらその手を取った。

レシラムの背中は見た目を裏切らない大きさで、私とNが同時に乗ってもまだ余裕があるようだった。
これが、かつてイッシュを建国した英雄を乗せた背中なのだと、そう思い直して背筋が伸びた。背筋を伸ばしてしまった私が、どうしようもなく滑稽に思われてならなかった。
馬鹿げている。私はそうした、イッシュの伝説のことなどどうでもよかった筈なのに。
私とNとの喧嘩は、私とNとの間にだけ収まる筈のもので、そこにこんなにも大きなポケモンや、あんなにも大勢の人が入り込む余地など、まるでなかった筈であったのに。

「さて、キミの心の準備をする場所は此処ではいけないとのことだったけれど、何処に行けばいいかな。ボクは特に希望する場所などないから、キミが決めてくれて構わないよ」

「いいの?」

「勿論。キミが静かに思いを巡らすことの叶う場所に行こう」

静かな場所。
そんなもの、この土地にあるのだろうかと疑いたくなってしまった。
何処に行っても人は当然のようにいるし、その声音から逃れることなどできやしない。
更にNにしてみれば、人がいなくとも、彼の耳にはポケモンの声がひっきりなしに聞こえてきているのだろうから、「静か」など、本当は在り得ないのだ。
けれど、そうした彼の、人間らしい気遣いが少しばかり嬉しかったから、私は彼の言葉を一笑に付すことはしなかった。馬鹿げたことをと笑えなかった。
代わりに「ありがとう」と告げれば、やはり彼は不思議そうに首を捻った。上空で強く吹き荒れる風、それに揺られる彼の長い髪を引っ張りたくなった。

ああ、なんて息がしやすいのだろう!
想像を絶する心地良さに思わず目を細めた。レシラムは私達をこんなにも高い場所に運んでくれた。
そこからこれまで歩いて来た町を見下ろすと、それはまるで箱庭のように見えた。
人の、ポケモンの営みなどあまりにも小さなものだったのだと、この俯瞰を経て私は思い知ったのだ。
この空からなら、私は何だってできる気がした。何にだってなれる気がした。
だって私はもう、逃げてきたのだから!もう英雄になんかならなくてもいい筈なのだから!

……けれど、現実的に考えて、この上空でずっとレシラムに飛んでいてもらう訳にはいかない。私達は果たして、何処に行くべきなのだろう?

静かな場所と聞いて、真っ先に思い浮かんだのはカノコタウンだった。私の故郷はそうした、あまりにも静かで面白みのない、閉塞的な無音を貫く場所であった。
けれど駄目だ。確かにあの場所は静かだけれど、あの町にはチェレンやベルの両親、それにアララギ博士だっている。私が「逃げてきた」ことなど直ぐに知られてしまう。
それで叱責されるだけならまだいい。軽蔑される程度のことをしているということは解っていたし、逃げてしまった罪なら被ってやろうという気構えならもう、出来ていた。

けれど最悪、連れ戻されるかもしれない。
狡い大人達が望む、英雄になるためのレールに乗せられ、ポケットの中で眠る黒い石を目覚めさせて、いつかまた、こいつと戦わなくてはならなくなるかもしれない。
それだけは避けたかった。私はもう二度とこいつとは戦いたくなかった。

上空を揺蕩う空気は、まるで空を漂う雲の全てが綿飴であるかのように、私の肺と喉を、砂糖に似た甘い香りでいっぱいに満たしてくれた。
折角手に入れたこの、あまりにも涼しく心地良い空気を、私は絶対に手放すまいと心に決めた。
だって私は、今まで私の酸素の全てを奪って来た彼等を、こんなにも小さく些末なものとして見下ろすことの叶う視界を手に入れたのだから。
彼等が奪い続けた空気は、こんなにも近くに在ったのだから。

Nの手を強く握れば、彼は苦笑しながら「どうしたんだい?」と尋ねてきた。

「誰にも見つからない場所に行きたいわ。あんた、何処かいい場所を知らない?」

「それはとても難しい質問だね。イッシュには人もポケモンも沢山いるから、全ての目の隠れるところに移動することはできないと思うよ」

「ポケモンには幾ら見られたって構わないわ。人のいない場所に、私とNを「英雄」だなんて大層な名前で呼ぶ人のいない場所に行きたいの」

すると彼は考え込む素振りをした後で、レシラムに行き先を命じた。
その森は、私がこいつを追い掛けることに躍起になっていたが故に、訪れることを忘れていた場所だった。
イッシュではそれなりの都会である、ライモンシティにほど近い位置にあることが少しばかり気掛かりだったけれど、
ポケモンの心しか読めない筈の彼は、そんな私の不安を読んだかのような絶妙なタイミングで「大丈夫」と当然のように告げて笑った。

「絶対に見つからないよ。ヒトにとってあの森は、とても狭いものでしかないのだから」

その言葉に息を飲んだ。得意気にそう言い放つNの髪を強く引っ張りたくなった。
彼の手を取ることで完全に切り落とされてしまった筈の糸が、まだNの背中にべっとりと垂れ下がっているように思えて、私は手を伸べて彼の背中を何度も払った。
彼は不思議そうに首を捻っていた。当然の反応だと思いながら、それでも私はその、悉く無意味な動作を止めることができなかった。
私はNの背中を払いながら、フキヨセシティでの彼の言葉を思い出していた。

『ボクは幼い頃よりポケモンと暮らし育ったからね。ヒトと話すよりも楽なんだ。』
『だってポケモンは絶対に嘘を吐かない。』

彼は紛うことなき人の姿をしている癖に、彼の紡ぐ「ヒト」の中には彼自身が入っていない。
まるで自身が、人の姿をしている筈のN自身が「ポケモン」であるかのような言い様を崩さないのだ。
彼は自分が人であることを認められていない。けれど完全にポケモンと同じ存在になることなんて、同然のようにできやしない。
どちらにもなれずにふわふわとその中間を漂っているような、そんな超然めいた、人でもポケモンでもなく「N」としか呼ぶことの叶わないようなところがあった。
今だってそうだ。彼自身は紛うことなき人である筈なのに、「人にはあの森の本当の姿が見えないけれどボクには見えるんだ」とでも言うようなその素振りは、
彼が自身を「ヒト」の括りに収めていないという、残酷で虚しい事実をあまりにも淡々と示していたのだ。

不気味だと思った。人の姿をしていながらその身を常にポケモンの方にしか向けない彼の生き方を、哀れだと思ったことだって一度や二度では決してなかった。
けれど今は違う。対峙するだけであった筈の彼がこうして、私のすぐ隣にいるのだ。Nの背中を直ぐ近くで払える距離に私はいるのだ。
しかしこんなにも近くにいるにもかかわらず、遠く隔てられた心地がした。彼の淡々とした言葉に拒まれているような、「キミは違う」と言われているような、気がしたのだ。
彼は私の理解者であり味方となってくれているけれど、私は彼の理解者になることなどできないのではないかと、そう恐れれば目の前が真っ暗になりそうだった。
それはこれから先、私とNとの間に敷かれた大きすぎる隔絶となって、幾度となく私とNとを苦しめることになるのだと、この時の私はまだ、知らなかった。

彼の背中に、白い糸が見えていた。

「それじゃあ、迷いの森に向かうよ。そこでキミの話を聞こう。できればキミのポケモンとも話をさせてくれると嬉しい」

「……それくらいなら、いつだってさせてあげるわ。でも私のポケモンがどんなことを言っているのか、ちゃんと私にも聞かせなさいよね」

あんたが聞こえるものを、私が聞こえないなんて不公平だ。
その力を否定するつもりは更々ないけれど、このモンスターボールの中にいるポケモン達は私の仲間なのだから、私にはこの子達の声を聞く権利がある筈だ。
そう求めれば、彼は驚いたように、それでいて酷く驚いたようにクスクスと笑いながら、細い肩をそっと竦めて口を開いた。

「ポケモンの声を聞かせてくれと頼んできたのは、キミが初めてだよ」

「え……」

「キミは本当にポケモンのことを大事に想っているんだね。勿論、キミのポケモン達もキミのことが好きだよ。ボールの中からもそれが伝わってくる」

息を飲んだ。あっさりと私のポケモン達の声を聞かせてくれたことに驚いたのではない。
ポケモンのことを考え、ポケモンを完全な存在にするためにその解放を謳っていたプラズマ団、その頂点に君臨していた筈のNが、
今までその団員やゲーチスを初めとする七賢人に「声を聞かせてくれ」と請われたことがなかったという、その事実に、眩暈がする程に驚いたのだ。

プラズマ団の連中は、ポケモンのことを大切に想っていたのではなかったのか?
その方法はあまりにも過激であったけれど、それでも彼等は一人一人がポケモンのことを考えて、動いていたのではなかったのか?
そのための架け橋となり得る存在であったNは、そうした、傷付け虐げられたポケモンの声を、これまでだってずっと、プラズマ団の皆に聞かせていたのではなかったか?
そうすることで、あの団員達はポケモンを解放すべきだという考えを新たにしていったのではなかったか?

ポケモンの解放を初めに唱えたのは、他でもない、貴方なのではなかったのか?

「あんたの話も聞かせて」

「……ボクの話?それは、キミが心の準備をするために必ずしも必要なことだとは思えないけれど」

「それを決めるのはあんたじゃないわ。私よ」

きっぱりとそう告げれば、彼は困ったように、それでいて至極楽しそうに笑いながら「キミのような物言いをするヒトは初めてだよ」と告げた。
それが彼の了承の意であると、そんな都合のいい解釈をして、私はやっと彼の横顔から視線を逸らした。
白いドラゴンポケモンの翼は、ライモンシティに大きな影を落として、更にその東にある深い森へと降り立とうとしていた。


2016.4.7
(「くるみ割り人形」より、人形の歯が欠けてしまう程に硬かった、鉄のような胡桃と、壊れた人形をバツの悪そうに見遣る少年)

© 2024 雨袱紗