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水をお湯に変える不思議な「炎」という物体を、Nは食い入るように見つめていた。
そんな彼に絆創膏を渡したけれど、彼はそうしたものを見たことがなかったようで、開封することすら困難を極めていたから、
私は苦笑混じりに絆創膏を取り上げて、開封の後にNの細く長い人差し指に貼り付けた。
絆創膏を開封できないことなど、炎を知らないことに比べれば本当に些末なことのように思えたから、特にショックを受けることも絶望することもしなかった。

「ねえ、キミのモンスターボールを貸してくれないか」

「……ああ、そういえば私のポケモンと話をするっていう約束だったわね。いいわよ、どうぞ」

炎の騒動ですっかり忘れていた、そんな自分に苦笑しながら、ポケットから5つのモンスターボールを取り出してNに渡した。
ダイケンキやドレディア、バオッキーの入ったボールを次々と持ち替えては挨拶を交わすNを横目に、私はお湯をカップラーメンに注いで3分のカウントを始めた。

彼は相変わらずの早口で、私のポケモン達にいろんなことを尋ねていた。

トウコと旅をして辛かったことはないかい?苦しかったことは?悲しかったことは?」
トウコはキミの声を聞くことができない筈だけれど、それでもキミがカノジョの傍を選ぶのは何故?」
「キミがこれまで戦ってきたポケモンたちは、ヒトを好きと言っていたかい?それとも嫌っていた?恐れていた?」
「ポケモンとヒトは離れるべきだと考えているボクのことを、キミはどう思う?」

彼の口から言葉はとめどなく、次から次へと泉のように湧き出てくる。3分はあっという間にやって来る。
ラーメンが出来たからと彼等の会話を中断させて、テーブルの上にカップラーメンを置けば、彼は湯気の立ち上るその即席麺に驚きの表情を呈した。

「あの軽い乾物がこんな風になってしまうのかい?」

「そうよ。簡単に作れて持ち運びも楽だから、私はいつも幾つか鞄に入れているの。美味しいわよ」

先ずは割り箸でラーメンを軽くほぐして、全体を少しだけ掻き混ぜてから食べるのだと説明する。
本当は箸で数本摘まんですするのが正式な食べ方だけれど、初めてラーメンを経験する彼にそこまで求めるのは酷だろうと判断し、
「あとは好きなように食べればいいわ」と告げれば、彼は割り箸を割ることをしないまま、スープの中にその箸を差し入れ、そこに麺をくるくると巻き付け始めた。
成る程、パスタの要領で食べようとしているのだと、彼の思惑を読んで私は少しばかり楽しくなった。楽しくなることができた。

そんなNの前で、私は旅行先のジョウト地方で学んだ経験を生かし、器用に箸を使って思いっきりラーメンをすすってみせた。
彼は驚いたように目を見開き「随分と過激な食べ方だね」と正直すぎる感想を告げるものだから、思わず声を上げて笑ってしまった。

彼は正直だ。その言葉には人を不快にさせないためのやんわりとしたオブラートも、人を騙し利用するための狡い嘘も存在しない。
そこだけが、唯一私と彼との共通点であるように思われた。何処までも相容れない位置にある私とNが、唯一同じ位置に足を下ろすことができる点だと心得ていた。
もっとも、彼は誰に対してもそうなのかもしれないが、残念なことに私は、彼のように誰に対しても正直でいられる訳では決してなかったのだけれど。
私はこの土地に生きる狡い大人達に食い潰されないように、嘘を繕って、上手に生きる振りをして、自分の身をそうした虚言で守ってきた、悉く矮小な存在だったのだけれど。

この狡い世界で傷付かないように、見限られないように、食い潰されないように生きようと思うなら、私だって狡く在らなければいけなかったのだ。
建前と本音を使い分けて、嘘で自分の周りを固めなければいけなかったのだ。

なんて下らない世界だろうと思った。そして私とNは、そんな下らない世界に生きる人やポケモンのために戦っているのだと、そう思えば益々、居た堪れなくなった。

「あんたは正直ね。真っ直ぐで真摯で、裏表がなくて、……本当はあんたみたいな人が、もっと多くの人に愛されるべきなのにね」

そう、本当は彼のような人間こそ、多くの人に歓迎され、愛されるべきだったのだろう。そんな当然のことを許さないこの土地は、いよいよ腐っているとしか思えなかった。
けれど彼は、「……ああ、そうだね。ヒトは声に出さないところで、あれこれと気持ちを巡らせてしまう生き物だったね」と、
やはり自分を人ではないような、ポケモンでもないのだけれど、やはり人とは一線を引いてしまっているような物言いを崩さないのだ。
それは最早彼の癖のようなものであるのかもしれない。そうした発言の一つ一つに噛み付いていては身が保たないのかもしれない。
だから私は「あんたも人でしょう」と言うことをほんの一瞬だけ、躊躇ってしまった。そしてその躊躇いが生んだ沈黙を埋めるように、彼は「でも」と付け足して笑った。

「キミもそういう意味では、あまりヒトらしくはないよね」

「!」

「キミは饒舌で、考えていることをそのまま口にしているように思える。キミの連れているポケモンと同じように、キミはとても真っ直ぐで、正直だ。
……もっとも、キミの言葉は尖り過ぎているような気がするけどね」

ああ、そうか。彼にしてみれば、彼と話をしている時の私だけが他ならぬ「私」の姿を取っているのだから、
私が彼のいないところで誰にどんな嘘を吐いていようと、どんなに分厚い「いい子」の装甲を纏っていようと、彼には知る由もないことだったのだ。
私にとって、私が正直で真っ直ぐにいることのできる場所は此処だけ、唯一の味方であり理解者である彼の前でだけなのだけれど、
彼はこうした真っ直ぐで正直な私が、彼のいないところでも続いているものと思っているのだ。その大きすぎる誤解を、私は今すぐ改めさせなければいけなかった。

「私は誰にでもこんな調子で喋っている訳じゃないわ。あんただからこんな風に話をすることができているの」

嘘を吐くことを知らず、建前を並べたことのない彼だからこそ、私も同じように本当の姿を曝け出すことができているのだ。「いい子」を止めることができているのだ。
こいつは礼儀を知らない。私の心にずかずかと土足で入ってくる。あまりにも乱暴で一方的なコミュニケーションを彼はただ淡々と為していた。
そんな彼に、どうして私が遠慮しなければいけないのだろう?どうして私が愛想笑いを浮かべて優しく接しなければいけないのだろう?

私の本質は、その実、とても臆病で怖がりなのだろう。
皆の頼みを断ることができずに此処まで来てしまったのだって、いい子をずっと演じていたのだって、全て皆に嫌われることを恐れたが故の行動だった。
この、あまりにも広すぎるイッシュの土地で、一人になることがどうしようもなく恐ろしかったのだ。

けれど彼は一人だ。彼の理解者など誰一人として存在しないように思えた。ポケモンにも人にもなりきれない彼は、けれどいつだって堂々と振舞っていた。
そんな彼の隣に立つには、そしてそんな彼を理解するには、私も、彼のように堂々としていなければいけないような気がしたのだ。
臆病なままでは、こいつの隣になどいられない気がした。嫌われることを恐れたままでは、こいつと向き合い、戦うことなどできやしないのだ。

けれど私は、私の唯一の味方であり理解者である彼に対して、正直かつ勇敢であることができたとしても、
同じようにイッシュの狡い大人達に対して、正直に、そして勇敢に振舞うことなど、とてもではないができそうにない。
私が幾ら虚勢を張ったところで、それには限界がある。私の精一杯の強がりは、きっと今までずっと一人で生きてきた彼の強さには、到底、敵わない。

「キミは他のヒトに対しても正直でいたいのかい?」

「……できることなら、そうしたいわ」

「でも、できないのか。やはりヒトの心というものは厄介だ。何がキミの自由を奪っているのだろうね?」

ぷつん、と音が聞こえた気がした。
私の首を絞めていた黒い糸がふわりと切れて、すっかり伸びてしまったカップラーメンの中にずぶずぶと沈んでいった。

私は声を上げて笑った。笑いながら大きく息を吸い込んで、細く長く吐き出した。もう泣きたくはならなかった。
柔らかくなり過ぎてしまったラーメンを、沈んだ黒い糸と一緒に勢いよくすすって、強く噛み潰してから飲み込んだ。喉の奥に温かい麺と冷たい糸が沈んでいった。
スープまでぐいと飲み干してから、再びケラケラと笑った。何もかもがおかしく思われてならなかった。Nはそんな私を不思議そうに見ていた。

『何がキミの自由を奪っているのだろうね?』

冗談じゃない、と思った。ふざけるな、と思えてしまった。
私の自由は私だけのものだ。こんな風に見えない糸に締め付けられたり、誰かに奪われたりするものであってはならない。そんなこと、他の誰が許しても私だけは許せない。
そう、許してはいけなかったのだ。それなのに私はこんな細い糸に甘んじていた。狡い大人の言いなりになっていた。
嫌われることを恐れて不自由になっていたのだ。彼等の望むいい子になれたとして、そこに「私」がいなければ何の意味もなかったのに。

私は最初から、いつだって、こいつのように自由に振舞うことができた筈なのに。

「……私、おかしかったんだわ」

彼等の言いなりになる必要などなかったのだ。あんな奴等に私の尊厳が、自由が奪える筈がなかったのだ。
私だって、Nのようになれる筈だったのだ。

今まで「いい子」を貫いてきた自分が、急にどこまでも愚かで卑しい存在に思えてしまった。
私はああまでして自分の意思を押し留めて、一体何を求めていたのだろう。あんな狡い大人達に好かれようとして、嫌われまいとして、結局、何を手に入れたというのだろう。
何も手に入れていない。私が本当に欲しいものは、そんな風に「いい子」を貫くことで手に入るような代物では決してない。

嫌だと言おう。首を振ろう。あんた達の願いを背負って戦うなんてまっぴらだと、彼等の全てを拒んでやろう。
それで誰しもに嫌われたとして、幼馴染や博士に見限られたとしても、構わない。
だって私の全てを曝け出して、私の嫌なところも醜いところも全て知って、それでも私を見限らずにいてくれる人が、たった一人だけいてくれたのだから。
彼だけは私の、正直で真っ直ぐな姿を見てくれていたのだから。

私はもう躊躇わない。


2016.4.7
(「魔笛」より、轟く雷と、それに射殺された夜の女王)

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