「私は元々、ゲーチスじゃなくて、Nに呼ばれてこの城で働くことになった身なの」
そう説明しながら私の髪をセットするトウコさんは、自身の雇い主であるNさんのことも、敬称を付けずに呼び捨てる。
まるで雇い主と思っていないようなその口調に思わずクスクスと笑うと、「こら、頭を揺らさないで」と肩を叩かれてしまった。
「城で働くことを勧められた時も驚いたけれど、あんな何処にでもいそうな男が、王子の弟だって聞いた時の驚きったら、酷いものだったわよ」
王子の双子の弟であるNさんを「何処にでもいそうな男」呼ばわりするのは、おそらくこの城でトウコさんだけだろう。
ゲーチスさんも彼には辛辣な言葉を投げるけれど、その辛辣な言葉ほどには、彼はNさんを嫌っている訳ではないらしい。
そのことは、彼の言葉の節々から容易に見て取れた。
私には兄弟がいないのでよく解らないけれど、同性の双子ということもあり、何かと敵対心を燃やしてしまうのかもしれなかった。
とはいえ、Nさんの方はそんな辛辣な言葉など一切紡がない、穏やかで友好的な態度を示し続けているのだけれど。
「顔のない鏡台の前に座るのって、少し違和感があるなあ。鏡台の後ろからトウコさんの声が聞こえてくることにも、まだ慣れないし」
「……シア、あんたはこの城に毒され過ぎているわ。寧ろこれからは、顔のある家具を見つけたら驚くべきよ」
彼女は呆れたようにそう答えた。
私の顔を映す立派な鏡台は、喋らない。ひとりでに引き出しから櫛を取り出すことも、豪快に声をあげて笑うこともしない。
今の彼女は、私よりも高い背で、そのふわふわとした黒髪をポニーテールに束ねた、シェリーとは雰囲気の異なる美少女の姿をしている。
けれど、私の髪をセットしてくれるその手捌きだけは前と変わらない。恐ろしい程のスピードで、私の長い髪をくるくると巻き上げていく。
あの時と同じ髪型が、あっという間に仕上がってしまった。
「はい、出来上がり」
「ありがとう、トウコさん」
私は振り向き、お礼を言ってから立ち上がった。
空色のドレスに、高いヒール、大きな青いリボン。あの時と同じ格好をした私が鏡の向こうにいて、嬉しくなる。
トウコさんも、モノトーンの立派なドレスを身に纏っていた。私にかつて勧めてくれたこのドレスは、どうやら彼女のものだったらしい。
私には装飾やふわふわした布が多すぎると感じたけれど、そんな立派なドレスだって、トウコさんは難なく着こなしてしまう。
Nさんも、モノトーンのダンスローブで踊るのかしら。ふと、そんなことを思った。
「今回は私達も踊っていいことになっているけれど、あくまで主役はあんたとゲーチスだからね。まあ、楽しんできなさい」
「はい!」
私はいつもの部屋を出て、長い廊下をゆっくりと歩いた。
そして、階段に誰もいないことを確認してから、一気に3階まで駆け上り、廊下を走る。
1階では、準備のできた人達が揃い始めていると知っていたけれど、私はその前に、どうしても立ち寄っておきたいところがあったのだ。
3階の廊下の突き当たりにある扉に手を掛ける。渡り廊下には夕暮れの風が優しく吹き付けていた。私はそのまま、離れの塔にある図書室へと向かった。
『私、魔法使いなのよ。』
忙しさが落ち着くまで1か月程かかったけれど、私はその間、この城の中で一度も「彼女」の姿を見つけることはできなかった。
呪いが解け、城の皆は人間の姿に戻ることができたのに、「彼女」だったことを思わせる少女の姿は、何処にもなかったのだ。
誰に聞いても、「宙に浮き、言葉を話す本のことなど、知らない」と返って来てしまい、私は沈黙する他なかった。
私の前で、確かに宙に浮き、ソプラノの声音で言葉を操っていた彼女。私に素敵な夢を見せてくれた魔法使い。異国の言葉で書かれた、あの不思議な本。
もし、まだこの城にいるのだとしたら、その場所は此処以外に考えられなかった。沢山の本が眠る、この図書室以外には。
「……こんばんは」
私は恐る恐る、声を発した。けれど、私のメゾソプラノに続いて、彼女の可愛らしいソプラノが聞こえてくることはなかった。
ああ、もう彼女は此処からいなくなってしまったのだと、私は認めざるを得なかったのだ。
せめてお別れの挨拶を言いたかったな、と思いながら、私はこの1か月、忙しくて足を踏み入れることすらできなかった図書室の中をゆっくりと歩いた。
そして、見つけたのだ。
机の上に置かれた、その本を。
その古い背表紙も、厚さも、栞の色も、全てが彼女の本と同じだった。私は慌てて駆け寄り、その本を手に取る。
けれど、彼女の本とは決定的に異なる点があった。その本のタイトルを、私は読むことができたのだ。
私はそのことに驚き、著者の欄が空白になったその本を開き、パラパラとページを捲る。どのページの言葉も、私達が普段使っている言語に統一されていた。
「彼女」の本は、確かに異国の言葉で書かれていた筈だ。読むことのできないその本を借りようとした私に、彼は怪訝な顔をしながらも了承してくれたのだ。
似ている、別の本だろうかとも思った。けれど、それは紛れもなく「彼女」だった。何故なら表紙を捲ったその裏に、手書きのメッセージが書かれていたからだ。
『本が大好きな、私のお友達へ。』
その、整った美しい字をそっと指でなぞる。心臓が壊れてしまいそうな程に激しい音を立てて揺れていた。
その「お友達」が誰のことを指しているのかはもう明白だった。これは、彼女が私に残した、一冊のプレゼントなのだ。
彼女の証を、こんな形で手に取ることができるとは思ってもみなかった。
私は、この後にパーティが控えていることも忘れて、夢中でページを捲った。
『昔々、森の中の大きな城に、とても美しい王子が暮らしていました。背はスラリと高く、若葉のような瑞々しい緑に、血のように鮮やかな赤い隻眼をしていました。
しかし、その王子はとても傲慢に育ったために、城に暮らす人々は手を焼いていました。
王子の双子の弟は彼を理解することを諦め、部屋に閉じこもってしまいました。
専属の執事である3人の男は彼を教育することを放棄し、ただ彼の命に従うだけの僕と成り果てていました。
料理を担当するメイドも、広い屋敷を掃除する使用人も、服を用意する仕立て屋も、この傲慢で理不尽な怒りを絶やさない王子を見限っていました。
何もかもを手に入れている筈の王子は、いつだって孤独だったのです。』
そんな冒頭から始まる物語を読み進めていると、突然、既視感のある台詞が目に飛び込んできたのだ。
その台詞が、どんな声音で紡がれているのかを私は知っていた。そして、その言葉に彼がどんな表情を浮かべるのかも解っていた。解らない筈がなかったのだ。
だって、これは、この言葉は。
『「だって、何度読んでも飽きないんです。アクロマさんも一度、読んでみませんか?」』
この、物語は。
私は震える手で、次々にページを捲った。
白衣の男性を慕う、変わり者の少女。いなくなった親友を探して、森へと駆け込むその姿。
ケタケタという笑い声に誘われるようにして、彼女は城の中へと入っていく。そして動くグランドピアノを見つけ、初めて見るピアノに目を輝かせ……。
懐かしさに息ができなくなる。嗚咽はこの広い図書館に溶け、涙は懐かしい記憶を綴ったページに染みを落とした。
ああ、彼女はやはり魔法使いだったのだと、私は確信するに至ったのだ。
これは、私の物語。彼女がその魔法で翻訳してくれた、私達の物語。
ページを徐に手に取り、パラパラと捲った。
私が彼と口論する場面も、この図書室に案内されたことも、二人で足が痛くなるまで踊ったあの時間も、全て、この本の中に眠っていた。
『ふふ、そうね、「はじめまして」だったね。でも私は、シアのことをずっと前から知っているのよ、ずっとね。』
『私は、この城にかけられた魔法の外にいるのよ。このお城で起こる出来事を見届けたくて、こうして本になって紛れ込んでいたの。』
彼女が歌うように紡いだその言葉の意味も、今の私なら理解できる。彼女は、本物の魔法使いだったのだと、私はその記憶を抱き締め、笑った。
「!」
200ページを超えるその本の、最後のページに、手書きで不思議な言葉が記されていた。
美しい、整った字で綴られたその言葉の意味を考えようとしたけれど、できなかった。扉を勢いよく開けて入って来た彼が、私を呆れたように見下ろしていたからだ。
ダンスパーティの主役がいつまで経っても姿を現さないから、皆に探されていたらしい。ああ、それでも最初に私を見つけてくれるのは彼なのだと、私は小さく微笑んで謝った。
私は彼女のプレゼントを抱えて駆け出した。高いヒールでも、転ぶことなく冷たい床を蹴ることができた。
『では、また次の物語で会いましょう!』
2015.5.22