41

シアさん、ゲーチス様を想い続けてくれて本当にありがとう」

その言葉に振り向けば、バーベナさんとダークさんが並んで立っていた。目付きの鋭い彼の隣では、ジュペッタがふわふわと静かに宙を漂っている。
ピンク色の柔らかな髪がふわふわと波打ち、とても彼女に似合っている。綺麗な髪ですね、と思わず呟けば、彼女は少しだけ驚いたような表情でクスクスと笑い出した。

「ダークもさっき、同じことを言ってくれたんですよ。嬉しくて」

「……バーベナ、余計なことを言わなくていい」

彼は時計の装飾ではなく、手を使ってバーベナさんの頭を軽く叩く。彼女は静かに、けれどとても楽しそうに笑いながら、私の耳元にそっと顔を寄せた。
どうしたのだろう?と首を捻る私と、あからさまに不機嫌そうな顔をするダークさんの前で、彼女は静かな声音で私に小さな真実を告げる。

「貴方をこの城に呼んだのは、彼なんですよ。……正確には、彼のジュペッタ、でしょうか」

「……ダークさんが?」

「彼は、この城の魔法を解いてくれる人間を、ずっと探していましたから。森の中で、貴方はジュペッタの笑い声を頼りにこの城に辿り着きませんでしたか?」

私はその言葉に怪訝な表情を浮かべる。
この城の中で、ダークさんのジュペッタだけは、いつもボールから出て城の中を歩き回っていたけれど、その笑い声は一度も聞いたことがない。
それ故に、ジュペッタはそうした静かなポケモンだと思っていた私は、次の瞬間、そのジュペッタから聞こえてきたケタケタという特徴的な笑い声に息を飲む。
この声には聞き覚えがあった。私がシェリーを探して森の中を彷徨っていた時に、私を城まで案内してくれた不思議な声と同じ音をしていたのだ。
……ああ、私はこのポケモンに案内されていたのかと、もう随分と昔のことを思い出して私は微笑む。

「貴方が私をこの城へ連れてきてくれたのね。ありがとう」

そう告げれば、ジュペッタはケタケタと嬉しそうに笑いながら、階段の踊り場で走り回った。
バーベナさんにもお礼を紡ごうとして顔を上げたけれど、もうそこに彼女の姿はなかった。
何処に行ったのだろうと視線を彷徨わせば、ダークさんに手を握られ、階段を降りていくところだった。
私の方を振り返り、小さく微笑んで手を振ってくれる。それが嬉しくて私も手を振り返し、しかしその手を不自然なところでぴたりと止めてしまうことになる。
1階のホールの隅に、見慣れた人影を見つけたのだ。小さく手招きをするアクロマさんの隣で、怯えたようなライトグレーの目がこちらを見上げている。
私は思わず大声で彼女の名前を呼び、階段を一気に駆け下りた。

シェリー!」

その名前に、城の皆に囲まれていた彼の顔色が変わる。
私は彼よりも早くシェリーの元へ駆けつけ、未だにその身体を震わせている華奢な少女の腕を取る。

シア、ごめんなさい、私……」

その途端、わっと泣き出したシェリーに、私は慌ててその涙を拭った。
彼が先程、私にしてくれたように、そっと目元を指でなぞり、微笑む。
彼女は痛々しい程に自分を責め続けているけれど、同じように私も、彼女のことに関しては自分を責めざるを得なかった。
私はずっと彼女の近くにいながら、その孤独を、何も理解していなかったのだ。
何もかもを手に入れている筈の彼女の、困ったように微笑むその表情に隠された苦しみを、私はこんなにも近くにいながら、全く知らずに過ごしていた。
彼女を、その華奢な手に刃を握らせる程に追い詰めたのは、私でもあるのだ。私はこれ以上、彼女を追い詰めたくなかった。一人で苦しませたくはなかった。
だから、私は屈託ない笑みを浮かべて、彼女の手を強く握った。

「ねえ、シェリー、この城で働かない?」

突拍子もないその提案に、シェリーは勿論のこと、後ろにいたアクロマさんやフラダリさんも驚いたように目を見開く。
あの村で一人、暮らすことが苦しいなら、此処に来ればいい。あの村で一緒に暮らすことはできなくても、此処でなら前のように二人で過ごせる。

「掃除や料理を、此処で勉強するの。シェリーが良ければ、ここで前みたいに一緒に暮らそうよ」

「……いいの?」

「私は、そうしたいな」

その言葉にシェリーは嗚咽を止めたけれど、私の背後に立ったらしい彼の姿を見上げて困惑する。
どうやら彼女は、今の彼と先程の彼とが同一人物であることに気付いていないらしい。
私がそっと彼女の耳元で、シェリーがナイフを向けたあの人よ、と説明すれば、途端に彼女は顔を真っ青にして頭を下げた。
彼はそんな彼女を冷たい目で見下ろしていたけれど、何かを告げようとしたその前に私が笑顔で口を挟む。
シェリーを雇ってくれる?」と、悪戯を思い付いた子供のような微笑みで見上げれば、彼は眉をひそめて大きな溜め息を吐いた。
それが彼らしい承諾の返事だと知っている私は、シェリーに顔を上げるように促した。シェリーは彼を見上げ、震える声で尋ねる。

「……いいんですか?私、」

「お前、まさかこの城の主である僕に刃を向けて、そのままで帰れるとでも本気で思っていたのか?」

その言葉を途中で遮り、そんなことを言い出した彼にシェリーははっと息を飲む。
私はというと、彼らしい尊大な言い方がおかしくて、必死に笑いを堪えていた。彼はなるべく冷たい目でシェリーを見下ろし、冷徹な主を装う。

「その罪を償うまで帰さないからな。しっかり働いてもらうぞ」

彼女はその鋭い隻眼に萎縮したように、慌てて返事をしたけれど、その声音は安堵に震えていた。再び声を上げて泣き出す彼女の頭を、私はそっと撫でた。
後ろでフラダリさんが「ではこれからはシェリーに会うために、毎日、あの森を抜けなければならないのか」と、アクロマさんにそう告げて困ったように笑っていた。
彼に小さな声で「ありがとう」と紡げば、呆れたような溜め息と共に「別に構わない。僕は心が広いからな」と返って来た。
『私は心が広いからね、許してあげる。』
その口振りが、トウコさんがかつて紡いだその言葉にとてもよく似ていたので、私は思わず笑ってしまった。

全てが目まぐるしく、音を立てて変わり始めていた。目を細め、その眩しい世界を見つめていた私の手が、強く引かれる。
彼の赤い隻眼が、楽しそうに私を見下ろしていた。ふわりと波打つ彼の長い髪が、私の頬を小さく撫でた。

「さあ、これから忙しくなるぞ。暫くは本を読む暇などないからな。覚悟しておけ」

「忙しくなる」という彼の言葉は、脅しでも冗談でもなかったのだと、私はそれから数日をかけて、身をもって知ることとなった。

どうやら、この城は10年間、「時間が止まった」ようになっていたということで、人間に戻った彼等は、その外見が10年前と何ら変わっていなかったことに驚き、喜んでいた。
先ずは、そんな彼等の家族に連絡を取ることから始まった。大量の便箋に手紙を書き、この城の居場所を記した地図を同封して配達することにした。

家族の名前と、住んでいる町や村の名前だけを頼りに、私達は鳥ポケモンの力を借りて空を飛び回った。
久し振りの外の世界に、彼等はこちらが嬉しくなる程にはしゃいでいた。
中でもトウコさんとNさん、そして彼の盛り上がりは、見ているこちらが圧倒されてしまう程だった。
サザンドラに乗った彼は「置いていくぞ」などと尊大な物言いで空を駆けたけれど、私のクロバットが余裕で彼を追い抜けば、その赤い目に純粋な驚きを映した。
「私のクロバットは世界一速いのよ」と、彼の口調を真似て誇らしげにそう紡ぐと、彼はその目を挑発的に輝かせて、いつかまたポケモンバトルをしようと提案した。
けれど、あまりの忙しさに、その約束はまだ果たされていない。彼はどんなバトルをするのだろう。楽しみだった。

10年振りとなる彼等からの連絡に、家族は皆、目を丸くして驚いた。
中には「今すぐにその城へ連れて行ってくれ」と頼む人もいて、トウコさんのレシラムやNさんのゼクロムは、多い時で4、5人を乗せて城へと戻っていた。
そんな訳で、城では涙の再会が毎日のように果たされていた。
家族は姿の変わっていない彼等に驚いた様子を見せたけれど、生きていてくれてよかったと、皆、一様に喜び、彼等と抱き締め合っていた。
私もいい機会だからと、遠くの町に出稼ぎに行っている両親に会いに行った。「お城で働いているの」との言葉に驚き、絶句してしまった両親の顔がとても印象に残っている。

この城では元々、この一帯を管理し統治する、一般的な城で行われる仕事が為されていたらしい。
「呪い」にかけられた時に、この城にいなかったその統治者たちは、変貌した城を恐れて、今では別の場所でこの地域の統治を続けているのだとか。
そこには、ゲーチスさんやNさんの両親もいた。彼等はそこにも手紙を届け、この城に戻って来るように呼び掛けていた。
そうして一人、また一人とこの城には人が戻って来た。少しずつ賑やかになっていくこの城を、より暮らしやすい場所にしようと、使用人や執事の皆は忙しく走り回っていた。

シェリーもすっかり、その忙しい空気に染まったかのように、この城の皆と打ち解けていた。
私と同じエプロンドレスを着て掃除をする彼女の隣には、なんとフラダリさんの姿もある。
村から城までの距離は、毎日を通うとなるとやはり遠すぎるらしく、此処で働くことを決めたのだと朗らかな笑顔で語っていた。

……実は、この城に留まることを選んだのは、この二人だけではない。なんと、アクロマさんも一緒にやって来たのだ。
城のお抱え医師として、城の一室に完全に住み込んでしまった彼は、ここで働くことになったその日、とても楽しそうに微笑んでゲーチスさんに握手を求めた。
「貴方がシアさんに相応しい人間か、この目でじっくりと見定めさせて頂きます。宜しいですね?」
私はその言葉に顔を真っ赤にしてしまったけれど、ゲーチスさんはくつくつと喉を鳴らすように笑ってから、その手を強く握り返した。
「上等だ」

そうして、忙しさに目が回るような日々を重ね、この城が10年前の賑わいと輝きを取り戻した頃、私にとって2度目のパーティが行われることになった。


2015.5.22

© 2024 雨袱紗