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「さあ、そろそろ泣き止んでもらおうか」

彼は私の肩に回していた手をそっと放し、代わりに私の右手を強く引く。
何処へ行くの?と尋ねた私に、彼は今までに見たことのないような、とても眩しい笑顔を浮かべる。

「お前に、この城の本当の姿を見せてやる」

そう言って、私は彼の手に引かれて城の中を駆けた。
外は先程までの豪雨が嘘のように晴れていて、眩しい日が廊下の窓から城へと差し込んでいた。
晴れた日ですらも薄暗く感じていたこの城は、しかし先程の輝きによって、その明るさを取り戻したらしい。
この城で長い間過ごしていたのに、まるで知らない場所を歩いているかのようだ。
私はその廊下のあちこちに目を走らせながら、時折、彼の淡い緑の髪がふわふわと波打つのを見ていた。
そのことに気付いた彼は、「どうした?」と私に尋ねたけれど、私は「なんでもないの」と首を振った。そんな小さな遣り取りすら愛おしくて私は笑った。
怪訝な顔をする彼を追い越して階段を駆け下りる。けれど階段を一段飛ばしで降りてきた彼に、あっという間に追い抜かれてしまった。

階段を一気に駆け下りれば、そこにはもう、村人たちの姿はなかった。代わりに城の皆が、手を取り合ったり、抱き合ったりして絶えず歓声を上げていた。
私と同じエプロンドレスを身に纏った、ポニーテールの少女。彼と同じ、淡い緑の髪を背中で一つに束ねた長身の少年。
白い長髪と三白眼を持った3人の男性。ピンク色の髪とレモン色の髪をした、笑顔が素敵な2人の女性。
他にも、同じエプロンドレスを着た女性や、使用人の服を身に纏った男性の姿があった。その誰もが見覚えのある顔をしていて、私の心臓は歓喜に跳ねる。
私は彼等のことを知っていた。何度も、その家具や楽器、食器の姿の中に、人間の姿をした彼等のことを見てきた。
……あれは、幻ではなかったのだ。

トウコさん!Nさん!」

1階へ続く階段の踊り場にいたトウコさんとNさんに声を掛ければ、彼等は驚いたように私を見た。
その顔に困惑の色を貼り付けて二人は顔を見合わせ、やがてトウコさんが、首を小さく傾げて私に尋ねる。

「あんた、私のことが解るの?」

トウコさん、私はお友達の顔を忘れたりしないわ」

そう告げれば、彼女は呆気に取られたような表情をしてみせた。けれどもそれは一瞬で、彼女はその両手を伸ばして私を強く抱き締め、「生意気な子!」と笑いながら紡いだ。
その腕の力強さに苦笑していると、Nさんが抱き締められたままの私に軽く頭を下げる。
そして、彼によく似た緑の髪をしたNさんが楽しそうに紡いだその言葉に、私は驚かざるを得なかったのだ。

「けれど、流石のシアでも、ボクがゲーチスの双子の弟であることには気付かなかっただろう?」

「え、弟!?」

弾かれたようにゲーチスさんの方を見れば、彼は不機嫌そうに眉をひそめていた。
「不本意ながら、そうだ」と肯定の返事を紡いだ彼に、ようやく私も納得がいく。
他の城の皆が、Nさんのことを「N様」と呼び、Nさんがゲーチスさんに敬語を使わなかったのは、彼がゲーチスさんの弟だったからなのだ。
次々と紐解かれていく、この城の真実に眩暈がした。けれどその衝撃的な真実には、いずれも納得できる部分が多くあり過ぎていた。

道具である彼等が、まるで人間のような仕草をしていたその理由も、自らが食事をしないのに、味見をすることなくあんなにも美味しい料理を作ることができたその秘密も、
こうして、人間の姿となって現れた彼等を見れば、全て納得がいく。
私が彼等の中に見た人間の姿は、幻覚などではなかった。あれは彼等の本来の姿だったのだ。
この城に存在していたのは、道具に人の心を与える夢のような魔法などではなかった。元は人間であった彼等を、道具の形にしてしまう、恐ろしい魔法だったのだ。
『ようこそ、呪われた城へ。』
トウコさんが、この城のことをそんな風に言ったのは、この真実が背景にあったからなのだ。彼等は呪われた身体のまま、10年もの時を暗い城の中で暮らしてきたのだ。
けれど今の城は、そうした過去を孕んでいるとはとても思えない程に明るく、眩しい程に陽の光が差し込んでいた。

シア!見て、人間に戻ったの!これで思う存分、ダンスを踊れるのよ!」

「おいおいヘレナ、お前は箒の時だって飽きる程に踊っていたじゃないか」

その声に振り向けば、レモン色の髪をしたヘレナさんが、白髪の青年を引きずるようにして駆けてきていた。その饒舌な口振りからして、彼はきっと燭台のダークさんだろう。
彼は慌てて近くにいたポケモン、アキルダーをボールに仕舞い、ヘレナさんと共に私に向き直った。

シア、知っているか?人間の足が刻む一歩はとても大きいんだ。燭台のそれとはまるで比べ物にならない」

「ええ、人間に戻れてよかったですね」

すると彼は呆気に取られたような顔をして、次の瞬間、声を上げて笑い始めた。
何かおかしなことを言ってしまっただろうか。少しだけ不安になった私の肩を、彼はぽんぽんと叩いて意味深な笑顔を浮かべる。

「気付いていないとは思わなかったよ。我々の呪いを解いたのは君だというのに」

私が?その言葉に今度は私の方が呆気に取られたような表情をしてしまい、そんな私を見てダークさんはとても楽しそうに笑う。
とんでもない、と思った。私にそんな力はない。彼等が人間に戻れたのは、この城にかけられた魔法の力ではなかったのか。
訳が解らずに首を傾げる私に、駆け寄って来たトウコさんが助け舟を出してくれた。その助け舟は、あまり助けの意味を為さなかったのだけれど。

「違うわよダーク。この子は魔法が使えるんだから、その気になれば呪いを解くことなんて造作もないのよ。そうでしょう?」

「え、そ、そんな訳ないじゃないですか。私はただの人間です」

「あら、そうなの?あんたが「魔法を使える」っていう噂が、私の耳にも届いていたからそうなのかなって思ったんだけど」

私が、魔法を使える?どうしてそんな噂が。
そこまで考えて私は愕然とした。その奇抜な噂は、他でもない私が撒いた種によって芽吹いたものだと気付いたからだ。
『もしかしたら、私、魔法が使えるのかもしれませんね。』
鍵の掛かっていた筈の窓からバルコニーに出た私を、外套掛けのダークさんは訝しんでいた。
あの時は少しだけ気分が高揚していた。彼とまともに話ができたことに浮かれていた。そんな時に冗談で紡いだその言葉は、尾ひれを付けて城中を泳ぎ回ったのだろう。

けれど、私はトウコさんの言葉を、それはただの冗談なのだと否定することができなかった。私は先程の奇跡を思い出していた。
あの時、確かに私の願いに呼応するように、城が眩しく輝き始めたのだ。彼を助けてと心の中で叫んだ、その私の願いが届いた気がしたのだ。
単に、タイミングが良かっただけなのかもしれない。本当は何か別の要因で、この城にかけられた呪いが解けたのかもしれない。

『いつか、伝えずにはいられない日がやって来ますよ。その言葉には魔法がかかっていますから。』
けれど、と私は思った。アクロマさんの言葉が脳裏を掠めた。私はあの言葉を信じていた。だからこそ、彼等の噂を切り捨てることができなかったのだ。
私が初めて紡いだあの言葉には、もしかしたら、本当に魔法がかかっていたのかもしれない。私のあの言葉には、呪いを解くことのできる力があったのかもしれない。
それを確かめる術も、証拠も何もなかった。けれど、そう信じてしまってもいいような気がした。
私の言葉は、私の魔法は彼に届いたのだと信じていたかった。そんな風に夢を見ても許される気がした。本がなくても、夢は見られるのだ。

「!」

すると、ずっと私の隣で、トウコさんやNさんと話をしていた彼が、階段を駆け下りて皆の元へ向かった。
何をしようとしているのだろう。私は思わず視線で彼の姿を追った。
「ゲーチス様!」「ご無事だったんですね!「呪いが解けましたよ!」と、彼等はわっと彼の方に駆け寄って来る。
けれどゲーチスさんは、そんな彼等を拒むことも、そのざわめきに眉をひそめることもしなかった。ただ小さく頭を下げて、穏やかに微笑む。

「今まで、ありがとう。お前たちがいたからこの日を迎えられた」

その言葉に、1階が静まり返った。私も息を飲んで立ち竦んでいた。
彼が誰かに頭を下げ、感謝の言葉を紡いでいるところを、私は見たことがなかったのだ。それは他の皆も同じだったようで、その顔に驚きと動揺の色を宿して沈黙する。
けれどそんな中で、アブソルを連れたダークさんが誰よりも早く立ち直り、彼に歩み寄った。
寡黙で表情を滅多に変えない彼が、肩を竦めて小さく笑みを浮かべる。

「何を仰るのです、ゲーチス様。我々は今までもこれからも、ずっと貴方にお仕えする身です。貴方がいたから、我々もこの日を迎えることができたのですよ」

「……」

「どうか、これからも私を、我々を傍に置いてくださいますようお願いいたします」

ダークさんは頭を下げる代わりに、躊躇いがちに手を差し伸べた。彼は驚き、けれど直ぐに得意気に微笑んでその手を強く握り返す。
ざわめきが再び湧き上がるホールの中央で、彼はふと階段の踊り場に立っていた私を見上げ、その口を開いた。
彼はそのテノールの音を発しなかったけれど、その口の形から、彼の言わんとしている言葉を読み取ることは驚くほどに簡単だった。私は頷いて小さく手を振った。

『お前のあの言葉は本当だった。』

「あの言葉」が何を示しているのか、私はちゃんと理解していた。つまりはそうした距離に私達はいたのだろう。
私は、彼と初めて踊った日のことを思い出していた。あの日もこの1階のホールは眩しかったけれど、それだって、今のこの輝きには及ばなかった。
『それに、ありがとうって響きには、相手を笑顔にしてくれる魔法がかかっているの。だから私、この言葉が好きよ。』


2015.5.22

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