或る証明

<4>
 コンコン、と力強くに叩かれるノックの音が、ルークのものでもエペルのものでもないことは明らかだった。ポムフィオーレの教育はこんなノックをさせるようには出来ていない。あからさまな部外者をルークがこの部屋の前まで通すはずもない。であるならば、ノックの主は彼女であるべきだ。ヴィルはそう確信して「どうぞ」と体を起こしつつ声を掛けた。
 ベッドの縁へと腰掛ける形を取り、扉が開くのを待つ。照明は付けなかった。外での白い息の代わりに、夜の闇が表情を隠してくれることを期待しての選択だった。

「お邪魔します。どうぞそのままベッドにいてくださいね、お構いなく」
「……どうして来たの?」
「あれっ、もしかして迷惑でしたか? ルーク先輩が『待っていたよトリックスター!』って大声で歓迎してくれたので、ヴィル先輩もてっきり喜んでくれると思ったんですけどね、お見舞い」

 勢いよく開けられた扉からすっと現れ出た彼女は、スタスタとヴィルの自室へ入り込み、後ろ手に提げていたバッグの中から、瓶とペットボトルを一本ずつ取り出してテーブルの上に置いた。ペットボトルの方は自販機などで売られている普通の無糖炭酸水だが、瓶の方はこの学園では手に入らないものだ。合宿中にエペルの実家から差し入れられた林檎ジュース。ヴィルが飲み、ヴィルが宣伝し、ヴィルが呪いを掛けて毒林檎へと化かしてしまった、あの瓶だ。けれども監督生はヴィルが顔を青ざめさせる隙さえ与えぬままに「グラスをお借りしますね、一緒に飲みましょう!」と、何の含みもない笑顔のままに自室の棚へと手を掛けていくものだから、彼はもう、自己嫌悪さえ忘れて苦笑するしかない。

「私はこの果汁100%の素晴らしいジュースに、二割の炭酸水を混ぜて楽しむという禁忌に目覚めてしまったんです。さあヴィル先輩もこの微炭酸の美味しさを知ってください。もう戻れませんよ!」

 おそらくは果汁100%を売りにしているジュースを水で「薄める」という邪道な行為を差して禁忌と言っているのだろう、ということは流石に理解できた。そうやって自身の愚行にヴィルを巻き込むことで、林檎ジュースに犯した罪を上書きしようとしているのだということも。
 VDCの曲を鼻歌で奏でながら、彼女は林檎ジュースを二つのグラスへ均等に注いでいく。炭酸水を宣言通り、全体の二割になるように加えれば、グラスの内側には本当にささやかな泡が踊った。ヴィル単独での犯行よりはずっと下らなく、ずっとささやかな「罪」の舞だった。

「足、腫れたりしていませんか?」
「少しだけよ。休めばすぐ直る。長引かせるようなヤワな鍛え方、していないもの」
「ふふ、流石ですね! 私が何度もお見舞いに来るまでもなさそうです。次の見舞い品を見繕っている間に完治していそう」

 完成した微炭酸の林檎ジュースを渡される。乾杯はしなかった。視線を合わせたまま、ほぼ同時にグラスへと口を付けた。この子はこういう味が好きなのか、と思いながら「美味しい」と小さく零した。彼の口から転がり出てきたそれを受けて彼女は本当に嬉しそうに笑った。両手でグラスを抱え直し、グラスを大きく傾けてコクコクと軽快に飲み干す様は、やはり美しいと呼べるものでは到底なかったが、やはり不快という訳でもなかった。

「幻滅したでしょう」

 一杯目を先んじて飲み終えた彼女の目を見てそう告げる。彼女の中でもある程度想定していた言葉であったらしく、目を見開いたり表情を曇らせたりすることはなく、ただ微笑みながらこちらを視線で貫き返してくるばかりだった。

『貴方にだけは何があっても嫌われたくないから、さよならする時までずっと「好ましい私」のままでいさせてくれと言っているんですよ』
 あの夜の彼女の気持ちが、今のヴィルには我が事として痛い程に分かる。幻滅されることは恐ろしい。何があっても嫌われたくない。それを回避するために自己を磨き上げ続けてきたにもかかわらずこの有様である。この子にとって「好ましい先輩」のままでいられたならどんなによかったか。
 でも遅い。何もかもが遅すぎた。どれだけ時間や労力を誠心誠意掛けたとしても、崩れるときはあっという間だ。たった一度の醜い罪、絶望という魔に心を飲まれたことで犯した過ち。出来上がった溝は二度と埋まらないだろう。出来た瑕疵はもう隠しようがない。幻は滅した。魔法はとけた。終わったのだ。少なくとも、彼女に対しては。

「今日の事件はヴィル先輩の中で、私に『幻滅される』って恐れてしまう程度には許せないことでしたか?」
「当然よ。アタシは自分のしたことが許せない。たとえアンタが許したとしてもね。だから幻滅されるしかないのよ。魔法だってもう、とけたでしょう」

 ライバルに対する加害未遂、その道具にあろうことか後輩の実家から差し入れられたジュースを用いたこと、錯乱の末のオーバーブロット、全壊に近い状態までボロボロになったスタジアム。暴れていたと思しき時間のことはあまり記憶になかったが、「アタシが醜いところへ堕ちたことが分からぬよう、みんなの顔も爛れさせてしまえばいい」などという、鬼の如きおぞましい考えに憑りつかれ、呪いを振り撒き続けていたことは覚えていた。
 美の競争は個々人が自らを磨き上げるものであるべきで、互いを蹴落とし合うような低俗なものであっていいはずがない。新人の多い俳優業界にありがちな足の引っ張り合いに呆れるばかりであった身で、彼等よりもずっと醜くおぞましいことをしてしまったのだ。
 自らの心が濁っていくことはヴィルにとって許し難いことだった。見目の麗しさを損なうことより、美しさのメンションでライバルに劣ることより、本当はそれこそがずっと、ずっと。

「じゃあこれは愛なんですね」

 そんな毒で濁りきった水の中へ、彼女は何の躊躇いもなく手を差し入れてきた。

「今回の騒動を経ても尚、私は先輩のことを美しいと思っていますよ。心の歪みに耐えられなくなってオーバーブロットする、その度を越した精神の潔癖具合にはとっても驚かされましたけれど、でも貴方は綺麗でした、最後まで」
「……そんなこと」
「幻滅に足る要素の向こう側、魔法のとけた先、ヴィル先輩への変わらない気持ちが私の中にあるなら、それはもう愛と呼ぶしかないものでしょう、きっと」

 あの夜のヴィルが確信にまでは至れなかった、彼女の、ヴィルへの想い。恋めいた何かであったはずのそれを彼女はあっさりと肯定し、更に深いところまで踏み込んできた。

 ヴィル自身さえ信じれられなくなった己が美を拾い上げてくれる人がいる。その相手が他ならぬ彼女であり、彼女自身がそれを愛だと宣言してヴィルに差し出している。
 嬉しい、という純朴な気持ちよりも先に、今の自分にこれを受け取る権利があるだろうか、という濃い疑念がヴィルの中には湧いて出た。躊躇い、不安、罪悪感、そうしたものが表情に出ていたらしく、彼女は肩を竦めてやや苦く笑った。そしてあくまであっさりと、明日は雪が降るみたいですよと告げるような気軽さで、ヴィルがそれを受け取るも突き返すも流してなかったことにするも自由だという姿勢を崩さぬままに、さらりと歌った。

「どうやら私、ずっと貴方のことが好きだったみたいです」

 幻滅の向こう側に辿り着いた美は、愛に変わる。

 告白紛いの出来事には慣れていた。俳優仲間や撮影スタッフからそうした恋慕めいた心持ちを、称賛と共にそっと向けられることは少なくなかった。ファンレターは事務所を通して毎日のように受け取っているし、学園では直接そういうものを渡されることだってあった。
 ルークがすぐ隣で毎日のように浴びせてくる言葉は、彼等とは少し意味合いが異なる。ルークがヴィルの美に抱いているのは恋慕でも信仰でも憧憬でもない。そうした贔屓目を完全に排してヴィルを見てくれるその目に、いつだって背筋を正される思いがしていた。彼の言葉は愛の狩人の名に相応しく、矢にひどく似ている。その賛美は真っ直ぐで、狂いなく、鋭い。自らの心にほんの少しでも濁りのある状態でそれに貫かれてしまえば、僅かに痛みを伴うのだ。

 監督生のこの言葉はおそらく、純粋な恋慕や称賛のそれではない。ヴィルに強烈な憧れを抱いている訳でもなさそうだ。彼と恋仲になることを目的としてこのようなことを言っている訳でもないだろう。ルークのように矢を穿つが如き鋭さで彼を暴こうとしている訳でもきっとない。
 想いの遣り取りに際してはありふれた単語でさえある「愛」や「好き」が、けれども彼女の喉を介した途端、彼がこれまで受けてきたどれにも当て嵌まらない、未知で難解で神秘的なものに化けていく。このような心地を差し出されたことは未だかつてない。こんなものは知らない。受け取り方も喜び方も分からない。何故、自分が、たったこれだけの言葉に泣きそうになっているのかさえ、もう分からない。

「ただ私、合宿中にケーキの差し入れをくれたトレイ先輩の厚意を酷い言葉で貶した挙句、ケーキに呪いをかけて食べられなくしたことだけは許していませんからね!」
「……えっ」
「寮内の関係やVDCの問題に関してあれこれ言いたくはありませんが、あれは、あれだけは許せなかった! 食べ物にも先輩にも失礼です。トレイ先輩は本当にいい人なんですよ。廊下ですれ違う度に先輩が恵んでくれた『作りすぎたクッキー』のおかげで私が何度空腹を凌ぐことができたか教えてあげましょうか!」

 先程までの告白の空気は、そんな彼女の大声で瞬時にひっくり返った。ヴィルは呆気に取られてからクスクスと笑い始めた。おかしくて、悔しくて、心苦しくて、笑いながら目元を拭った。
 わざと大仰な言葉を選んでくれていることが分かる。ヴィルが本当に憂いている罪から絶妙にポイントを外したところを選んで責めてくれていることも分かる。彼女の「愛」や「好き」をこちらが受け取らずともいいように、即座に場の空気を切り替えたのだということだって分かる。空気を重くしすぎないように敢えて軽口を連ねる、そんな気配りと度胸のある人は好ましい。彼女のそうした気質がヴィルにのみ向けられていることがただ、嬉しい。

「そうね、本当に、酷いことをした」

 声が震えてしまっていたのだろう。彼女はやや狼狽えながら空のグラスをテーブルに置き、ぺたりと床に膝を折ってヴィルを見上げつつ苦笑した。

「大丈夫、トレイ先輩はそんなことで怒ったりしません。狭量な私とは違いますから。勿論他の方だって、誰も貴方を恨んだり嫌ったりしていませんよ」
「……どうかしら」
「あはは、弱気にならないでくださいよ! 先輩は今、自分が世界で一番たいへんなことをしでかした大罪人みたいに思っているみたいですけれど、全然そんなことありませんからね。もっと酷い、目も当てられないような事件を私、何度も見てきましたから。ウィンターホリデーの時なんか……ふふ、この話はまた別の日にしましょうか」

 そう告げながら徐に手が伸ばされたので、ヴィルもまた半分ほどジュースを残した状態でグラスを置き、両手でそれを掴んだ。
 彼女の手はかなり温かかった。体質故か、それともヴィルが今殊更に冷え切っているからかは分からなかったが、これだけ温かいのなら少しくらいその温もりを奪っても彼女が凍えることはないだろうと判断し、縋るように、欲しがるように強く握った。力が込められたことに彼女は目を大きく見開いてあからさまに驚き、けれどもすぐに三日月形に細めて、それはそれは嬉しそうに笑ってくれた。

「他の事件の話よりも、アンタの、目指しているものの話が聞きたいわ」

 その笑顔が崩れることを承知の上で、ヴィルはそう懇願した。果たして彼女は顔を曇らせて長らく沈黙していたが、やがて大きな深呼吸を一回だけ行った上で、先程よりもずっと強く、ヴィルの手を握り返してきた。

「分かりました」
「いいの?」
「ええ。だって今日はヴィル先輩、沢山、怖い思いをしたでしょう。だからこのまま貴方と手を握り合うためには、私も……幻滅されるかもしれないという恐怖を飲んだ上で話をするべきです」

 オーバーブロットによる暴走に、魔法を使えない身で立ち向かった彼女の方が余程「怖い」思いをしたのではないかと少し思ったが、おそらくはそのような趣旨のことを話しているのではないのだろう。彼女は自らの志す芸術の話を開示することで、「幻滅への恐怖」に関する釣り合いをヴィルとの間で取ろうとしているのだ。

『自分の目指す美を懇切丁寧に説明し、貴方に十分理解していただいた上で「くだらない」と唾棄されるリスクを冒すくらいなら、毎夜、おかしな歌を必死になって練習している変な子だと思われていた方がずっとマシです』
 かつてこのような過激な言葉まで使ってヴィルへの開示を拒んだ彼女が、今、彼女自身のことを語ろうとしている。不安からだろうか、ヴィルの手を握る力が先程よりも更に強い。それでも、彼と同じだけの恐怖を背負ってみせるという決意のもとにこちらをしかと見上げている。けれどもその視線はよく見れば、一言目をいつ発しようかという迷いのためか僅かに揺れている。その、少しばかり臆病で、でも手を握り合うために開示せんとする勇敢で誠実な彼女の姿を、ヴィルはただ綺麗だと思った。

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