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スマートフォンをベッドへと置き捨てて外へ出た。吐く息で目の前がろくに見えなくなるこの現象は今のヴィルを相応に落ち着かせていた。いつ誰に見られても問題のないように、常から美の矜持をその心根に引っ提げている彼ではあるが、いつもいつでも気を張っていては疲弊してしまう。息抜きや気晴らしの類を目的としたウォーキングを行うにあたり、午前四時は最も気楽に出歩ける時間帯であったと言ってもいい。吐く息の白さ、心臓の鼓動、アスファルトに押される足の裏に感じる圧、頬の滑りを確かめるように流れていく冬の風、そうしたものを感じるとき、ヴィルはとてつもなく安心し、そして時折とてつもなく不安になる。
この息を、鼓動を、圧を、風を、感じている人間が美しいか否かということなんて、ヴィルの命の本質にはきっと何の関係もない。彼が醜悪になったところで、吐く息が黒く染まるなどということは在り得ないし、より美しくなったところで息は宝石のようにキラキラと瞬いたりはしない。自らの磨き上げた美で改変できる「理」などたかが知れており、ヴィルは所詮、ヴィル以外になることなどできやしない。夜明けの気配を感じさせないこの時間に、自然から、あるいはヴィル自身の五感で教わるその「事実」に、彼はわくわくすることもあれば恐れ戦くこともある。この冬の寒さをどう感じられるかは彼の精神状態に依るところが大きい。調子が良ければわくわくするし、悩みを燻ぶらせたままでは不安が募るばかりだ。今日の彼は、どちらかといえば不安だった。
「……歌?」
遠くから聞こえてくる謎の声がそんなヴィルの不安を煽るように、からかうように、冷たく、痛く、撫でていった。声に色が宿るなら、きっとその謎の声はどす黒いオーラを放っていたに違いない。そうした想像を一瞬で巡らせてしまえる程度には、その声にはあまりにも、嫉妬や怨念といった感情が乗り過ぎていた。大きく、力強く歌われる負の感情にヴィルは興味が沸いた。その声質は普段のそれとは似ても似つかぬものであったけれど、この学園においてあんな声を出せる生徒は一人しかいないと確信し、ヴィルは声のする方へと靴の先を向けた。強歩に近いスピードで歩いていたヴィルの足は、その声に呼ばれるようにしてついにはアスファルトを蹴って飛び跳ねるまでになった。もう少し、もう少し、ほらきっとあの角の向こう。
「えっ」
「……」
息の白さが増す。心臓の鼓動が大きく聞こえる。準備運動も何もせずに走り出してしまったから足はほんの少し痛い。冬の風は先程よりもずっと冷たい。
「こ、こんばんはヴィル先輩。いやもう朝が来そうだからおはようございますの方がいいかもしれませんね。それはともかく……どうして、こんなところにまで?」
「……アンタの声が聞こえたからね」
スタジアムの裏にはヴィルの予想した通りの人物がいた。雪が溶け切らない程の低温なのに、彼女はコートも羽織らずいつもの制服姿のままで、一人で、こんな真っ暗な時間帯に声を張り上げていたのだ。成長に伴う声帯の変化、所謂「声変わり」を経ている男では、喉を相当絞らなければ出せないような高音を、さも当然のように大きく張り上げることが叶うのはこの少女くらいのものだと分かっていたから、ヴィルはそこに監督生がいることに驚きはしなかった。
普段の会話ではそこまで強く印象付くようなものではなかった彼女の声は、けれども歌を舞台とした瞬間に強烈な圧力を持つものに変わる。その高音はどこまでも彼女に相応しかった。その特徴的なビブラートはどこまでも歌の内容に相応しかった。少女らしい声で鬼のような怨嗟を歌う彼女の、暗く冷たい夜の舞台に、ヴィルは招待状もないのに勝手に、上がり込んだという訳なのだった。
「聞こえた? そんな……此処ならどんなに大声を出しても寮の前までは届かない筈です! グリムにちゃんと確かめてもらったのに」
「冬、特に夜は地表の温度が低くなるから、屈折の関係で音はずっと遠くまで届くのよ。覚えておきなさい」
「うっ、これは、勉強不足……。もしかしなくても物理の話ですよね。悔しいですが完敗です、流石はヴィル先輩」
自らの知識不足から生じた誤算を恥じるように肩を竦めて申し訳なさそうに笑った彼女は、けれどもその直後に下りた沈黙をあまり長く続かせたくはなかったようだ。この場から立ち去るでも何か行動を起こすでもないヴィルに痺れを切らすように、今度は思い切り眉を吊り上げて「先輩、ご用件は?」と、実に挑発的な笑みを浮かべてみせた。ポムフィオーレの寮長に向けるものとしては悉く不適切で、けれども自らの練習を妨げに来た人間に向けるおのとしては至極まっとうで当然の、笑顔だった。
「あの寮で眠っている皆さんを起こしてしまうレベルの騒音であるのなら、勿論控えます。大事な合宿の邪魔になりたくはありませんから」
「……いいえ、そうじゃないわ。アタシがたまたまアンタの声を拾って、此処に来ただけ。アンタは誰の邪魔もしていない」
「よかった! それじゃあもう少し練習していたいので今日は此処でさよならしませんか? また日が昇ってからお会いしましょう、先輩」
ぱっと笑顔を咲かせた後に、彼女はひらひらと手を乱暴に振り、ヴィルを追い払いたいという意思を露わにした。普段の彼女であれば「目上の相手に手を振る」などということは絶対にしないと分かっていただけに、多少の無礼を働いてでも彼をこの場から追い出し一刻も早く一人になりたいと願う、そんな彼女の本気とその切実さが手に取るように分かってしまい、ヴィルは少しばかり傷付いた。
ああでも、見くびられたものだ。そんな邪険な態度ひとつでこのヴィル・シェーンハイトが引くとでも思っているのかしら。アタシは怯みはしない。周囲の評価にも、圧倒的な美にも、豪雨にも大岩にも、アンタにだって。
「聞いたことのない歌だわ。それは何の練習なの?」
「……私が、元の世界で担おうとしていた芸術のひとつです。古くからある……伝統芸能ですね。今の世間がもてはやしてくれるようなものじゃありません」
「世間の評価なんて関係ないわ。アンタは本気で目指しているんでしょう。誰かに強制された訳じゃなく、自分の意思で」
ルークには到底及ばないが、ヴィルにも狩人めいた性が少なからずある。目の前に転がり出てきたチャンスは絶対に掴んでやるとする気概がある。そのためにどこまでも奮励できるだけの意志の強さがある。だからこそ、逃してなるものか、と強く思えた。だってヴィルはこの少女に遠回しに拒まれた日からずっと、願っていたのだ。彼女の、彼女なりに極めようとしている美の話が聞きたいと。そしていつか、この目でその美の完成を見ることができたなら、と。
「その伝統芸能のこと、詳しく聞かせてくれない? 興味があるの、とても」
「……あの、もう許してくれませんかヴィル先輩、貴方にこれ以上のお話はしたくありません」
「それは何故? アタシ、ルークよりも信用に足らない男かしら。それともアンタにそこまで嫌われている?」
「違います!」
悲鳴に似た気迫で張り上げられた声は雷の如く、夜の冷えた空気を勢いよく割いていった。これと同じだけの剣幕を舞台で見たのはいつぶりのことだったろう。ヴィルはこれまでの共演者が見せたプロの剣幕と監督生のそれを比較しようとして……やめた。彼女の言葉を信じるなら彼女はその伝統芸能に関して、プロではなく見習いの身であるようだし、そもそもの問題として、この剣幕は「お芝居」ではなかったからだ。液晶画面を通して無数の人が鑑賞するようなものではなく、ヴィル一人だけが聞くことができ、そしてもう二度と繰り返されることのない、真の意味で唯一無二の悲鳴であった。
「幻滅されたくないんです、貴方には」
「……」
その細い喉から放たれた唯一無二の、否定の言葉。ヴィルだけに向けられたそれを、彼は信じた。監督生は彼を嫌っている訳ではない。信用に足らない男だとして警戒している訳でもない。幻滅されたくないから言えないという、本当にそれだけの理由なのだ、この子にとっては。
「現代受けするものではないということは承知の上で、私は私の担おうとしている文化に誇りを持っています。誇りを持って奮励を続けていれば、美に対する幻滅を恐れる心地は、いつか薄れる。払拭できる。だから……誰にも否定させないという気概で磨き上げる時間が、私はとても好き。貴方も同じでしたよね、ヴィル先輩」
「ええそうよ、その通り」
『……そうね、認めるわ。アタシ達は大事にしているものを損なわれることを嫌がるし、恐れている。だから磨き上げるのよ。誰の目も逸らさせないよう、徹底的にね』
VDCの校内オーディションを数日後に控えたあの朝、ヴィルが返した言葉に対して彼女がひどく嬉しそうに笑ったことを思い出す。声には出さず、そのやや薄い唇が「おなじだ」と動いたことも。
間違いない。彼女はヴィルにある種の同族意識を持っている。取り組む先は違えど同じ高みを目指す存在として、一定の礼儀をもって接しようとしてくれている。その「好ましさ」をヴィルは喜びたかった。にもかかわらずこの排斥の有様はどういうことなのだろう。あんな笑顔で「おなじだ」と喜んでおきながら、ヴィルをこんなにも喜ばせておきながら、何故ここにきて「貴方だけは違う」と弾くような真似をするのだろう。
「でもこの、貴方に対するこの恐れは、どれだけ奮励を重ねようと取り除かれることのないものです。どんなに私が立派になろうと、先輩に対してだけはもう、無理なんですよ」
「それは……何故かしらね。もしかして、合宿でのしごきに怖気付きでもした? 誤解しないでほしいのだけれど、アンタに対してまで厳しい言葉を投げるつもりはこれっぽっちも」
「貴方のスパルタに怖気付いたから、貴方が努力家でストイックだから、そういう理由じゃないんです。ただ本当に……幻滅されたくないだけなんです。貴方に幻滅されるのが怖いだけなんです」
「アンタに幻滅なんてしたことがないわ。アンタの振る舞いを、生き様を、アタシは好ましく思っている」
ほら、今だって、ヴィルの言葉を受けて、それはそれは嬉しそうに、至極安心したように、眉と肩とをやわらかく下げて、泣きそうな目で笑うのだ。彼女の中に在るのはヴィルへの敵意でも、警戒心でもない。そのことに彼はこの上なく安堵した。安堵した上で、それでも踏み込めない一線が彼女の前に分厚く敷かれていることに、得も言われぬ寂しさともどかしさを感じた。
彼女は楽しそうにクスクスと笑った。ついにはお腹を抱えて声を上げさえした。冬の夜風に冷えた唇があの時と同じように、声に出さぬまま「うれしい」と紡いだのを見て、何故だかヴィルはこの上なく満たされた。
でも。
「もっとはっきり断らなければ分かってもらえないみたいですね? 貴方にだけは何があっても嫌われたくないから、さよならする時までずっと『好ましい私』のままでいさせてくれと言っているんですよ」
「!」
「自分の目指す美を懇切丁寧に説明し、貴方に十分理解していただいた上で『くだらない』と唾棄されるリスクを冒すくらいなら、毎夜、おかしな歌を必死になって練習している変な子だと思われていた方がずっとマシです」
ああ。……ああ、なんてことだろう。だってそんな、馬鹿げている。
凍り付きでもしたかの如くヴィルは固まってしまった。指先ひとつ動かすことさえできなかった。監督生の毅然とした表情から目を逸らすことさえ叶わぬままだった。瞬きと呼吸だけを許された人形にでもなったかのようだった。吐く息は変わらず白かったけれど、その白は二者のぶつかる視線を都合よく遮ってくれたりはしなかった。
ヴィルには、彼女の心地が分かる。
彼女の「幻滅されたくない」という恐怖も、この人にだけはダメなんだという拒絶も、何があっても嫌われたくないという不安も、今のヴィルにはとてもよく分かってしまう。
ただ、ヴィル自身の経験に重なるところがあったから、監督生の「それ」にピンと来た訳ではない。それは彼があらゆる舞台であらゆる役を演じる俳優として、脚本の中から「心」を読むという行為に慣れ過ぎていたがために、察することのできてしまった、いわば事故のようなものであったのかもしれなかった。監督生の側でも、まさか「数か月前に演じた舞台の共演者が、まさにそんな心地で動いていたから」などという根拠で己が心地を見抜かれてしまうとは夢にも思っていなかったことだろう。
そうだ、数か月前、ヴィルがライバル役を務めた映画の主役、その恋人……バレエのコンクールに挑まんとする若い女性は、けれども恋人である青年の観戦を力強く拒んだのだ。貴方に見られたら絶対に失敗するから、と。貴方に見られていると考えるだけで、私の足は言うことを聞かなくなってしまうから、と。無様な姿を晒して貴方に嫌われてしまったらどうしようという恐れが、私の足を鉛にするのだ、と。
「……」
監督生が励んでいるのはバレエではない。近日に大きなコンクールを控えている訳でもない。そして当然のことながら、ヴィルは彼女の恋人ではない。……にもかかわらず、ヴィルは苦しかった。どうしようもなく苦しかった。監督もスタッフも観客もいない二人きりの現実に、ありのままの彼女が放ったその本音は、あまりにも切実で痛烈だった。好評を博したあの映画のヒロインの言葉とは最早比べものにならない程の鋭さで、それはヴィルへと刺さり、そして抜けなくなってしまった。
「……アンタを、変な子だなんて思わない」
「ありがとうございます」
「ポムフィオーレに、奮励する姿をなじるような精神の人間なんて誰一人としていない。勿論、アタシも含めて」
「それは、分かっているつもりですよ。気を使わせてしまってすみません」
凍り付いた喉から、ヴィルは言い訳めいた言葉をぽつりぽつりと落とした。彼女はその全てに敵意のない好意的な言葉で答えながらも、やはりヴィルの前に分厚く敷いた線を、彼に踏み越えさせる気は更々ないようであった。ヴィルも、もう……踏み越えることができなくなってしまっていた。
だって、これは最早、恋ではなかろうか。彼女の恐怖も拒絶も不安も、全てこの男、ヴィル・シェーンハイトに向けた想いが故に湧き出てきた、厄介な副産物に他ならないのではなかったか。
勿論、これは推測に過ぎない。彼女がこちらへ向けてきた「何か」を「恋」と確信するだけの根拠にはまだ乏しい。だからこそ、不確定なままその想いを踏み荒らすことは許されない。何よりそんなことをして彼女に嫌われたくはない。
嫌われたくない?
「ヴィル先輩?」
『……随分な言い様ね。まるでアタシ達が、人を騙して美しいと思わせているみたい』
そういえばヴィルも、たかだか一人が為した、たったひとつの形容を許すことができず、勢いのままに噛み付いたことがあった。
『ええ大丈夫、分かったわ。目くじらを立ててごめんなさい』
たった一人の語る美に共感できないということに、己が平静を呆気なく奪われてしまったことがあった。
『此処では言いたくありませんね。また別の日に、今日より更に豪華な食事を奢ってもらえるのであれば、お答えしますよ。では!』
あの狩人に話せて、ヴィルに話せないことがあるという事実を目の前に突き付けられ、手酷く傷付いてしまったことがあった。
全て、これまでのヴィルにとっては些事でしかなかったこと、気にも留めることさえなかったであろうことだ。相手がこの子でさえなければ、すぐにでも忘れ去ることのできたはずのことだ。
それら全てが今になって勢いよくヴィルの脳裏に、とある感情と共に鮮やかに、蘇った。花が咲くような有様だった。全てを壊さんと吹き荒ぶ嵐のようでもあった。なんだ、アタシも一緒だったのね、と口にする余裕などあるはずもなかった。氷が溶けて水になるとき、きっとあの冷たい塊はこのような痛みを覚えるのだろうと、そんな風に考えることくらいしかもう、できなかった。
ああ。……ああ、なんてことだろう。だってそんな、馬鹿げている。
だって、これは最早。
「……あの、少しだけですよ」
「えっ?」
「静かに聞く。批評も感想も何も言わない。この後すぐに、私と一緒に寮まで帰ってくれる。これら全てを約束できるのなら、今、少しだけお見せします」
「……ええ。ええ勿論! 約束する!」
舞台のクライマックスシーンで出すような大声が、何の意識もなしにヴィルの喉から飛び出してきた。衝動的に大声を発する様はさながら駄々を捏ねる子供のようでさえあった。そのおかしさを許すように、喜ぶように、監督生は声を上げて笑った。そこまで食い気味に言わなくたって、と笑いの合間に告げる彼女が、気分を害した風ではなく本当に嬉しそうに見えたものだから、ヴィルは同じように小さく笑いつつ、もう「これだけでいいのかもしれない」と思ってしまった。
だって此処は舞台ではない。監督もスタッフも観客も、誰一人として二人を見ていやしない。ヴィルの言葉も、彼女の笑いも、全て誰の役も借りていない、生身の、ありのままの姿でしかない。彼女の本質を独り占めした今の状態から、ヴィルにのみ更に与えられる「少しだけ」……これ以上に喜ばしいものなど、ヴィルにはもう何一つとして思い付かなかった。
この小さな、少し荒々しいところのある美の化身と、二人きり、こうして心地よく笑い合えるのならば……明かせないことが一つや二つあったとしても、それはもう、互いが互いに対して「そう」である以上、きっと仕方のないことで、そこまで憂えなくともよいことだ。これ以上など何も思い付かない。少なくとも今はこれでいい。ヴィルはようやく、そう思えた。
相応しい沈黙を作ってから、彼女は鋭く息を吸い込んだ後に、暗闇に向けて声を張り上げた。女性の強烈な、鬼のような嫉妬を歌っていると思しきその声が、嫉妬の似合わない彼女の喉に震える様を、暗くてろくに見えもしていなかったはずなのに、ヴィルは美しいと思ってしまった。