「ちょっと花屋に寄ってもいいかな」
百貨店の1階にある花屋には、まだ4月だというのに、母の日に向けて赤やピンクのカーネーションがずらりと並べられていた。
春は花の季節だ。鮮やかなその空間は、ケーキ店などと並ぶ、女の子が喜ぶスポットの一つである筈だった。
しかし「花屋」という名前を示しても、彼女は眉ひとつ動かさない。
彼女にとっては鮮やかな花や綺麗にデコレーションされたケーキより、絶版となった洋書や老舗に売られているモナカの方が余程、価値があるのだ。
そんな彼女の表情を少しでも変えたくて、入江はその空間へと彼女を誘った。
「いいけど、何か買うの?」
「いや、ちょっと冷やかすだけだよ。この間、此処を通った時に珍しいものを見つけたんだ」
入江は右手を「はい」と差し出したが、彼女はその手をぴしゃりと叩いて隣に並んだ。
彼女は手を繋ぐことを嫌う。曰く「人の体温が近くにあるのが嫌」らしい。
しかしそんな彼女も、親友である一人の少女が息をするようにその手を取ることは嫌がらない。
「ああ、あれは別にいいのよ、邪心がないから」と笑う彼女に、苦笑するしかなかった日のことは記憶に新しい。
邪心を込めて彼女に手を伸べたことはない筈だが、彼女はそうした関係になっても尚、入江の手を頑として握ろうとはしなかった。
こうして拒絶されることも慣れてしまったが、入江はまだ諦めることができずにいた。
手を繋ぐこと、それはティーンの少年少女の為し得る最大のコミュニケーションだと考えていたからだ。
しかし、「これじゃあただの友達じゃないか」とは決して言わない。彼女が自分の核たる部分に入江が踏み込むことを許していると知っていたからだ。
この気高い小さな王女は、本来なら、男の友達を作ろうなどということは決して考えない。だからこそ、入江が踏み込めるこの距離が限りなく尊いのだと彼は理解していた。
彼女は入江の手を取ることこそしないが、こうして隣を歩いてくれる。何度もその手を取ろうとする入江を窘めこそすれ、嫌いにはならない。今はそれで十分だった。
花屋に入り、入江は木の棚に飾られているその花を指差した。
「ほら、青い薔薇」
小さな白い箱に、紫陽花に似た色の薔薇が収まっていた。婚約指輪を入れるケースにも見えるそれに、一般の女の子ならときめきを覚えるのだろう。
けれど彼女はそのケースの見た目にではなく、青い薔薇の方に興味を示した。「え、本物?」と首を傾げる彼女に、入江は簡単な説明をすることにした。
「残念ながらこれは違うんだ。プリザーブドフラワーっていうんだけど、知らない?」
「聞いたことはあるけど、興味がないから詳しくは知らないわ」
予想通りの反応が返って来て、入江は肩を竦めて困ったように笑ってみせる。
プリザーブドフラワーという「枯れない花」が一世を風靡していたのは数年前だ。
加工が施されている分、一般のブーケや花よりも高いが、半永久的に飾っていられるということと、手入れの必要がないということでかなりの人気を誇っている。
今ではプリザーブドフラワーを置いていない花屋を見つける方が難しいくらい、広く一般に普及しているが、花の類に興味のない彼女はその存在を知らなかったらしい。
「特殊な加工を施して、花の水分を抜いてあるんだ。腐敗の元となる水がないから枯れないんだよ」
「……ああ、ここ数年、なんだかリアルな造花を見ることが多いと思っていたけれど、これのことだったのね。……でも、青い薔薇っていうセンスは頂けないなあ」
「あれ、もしかして香菜ちゃん、青い薔薇が開発されたことを知らないの?」
薔薇に青い色素を宿らせることに成功したのはもう何年も前の話だ。流石に彼女が知らないということはないだろう。
案の定、彼女は眉をひそめて「勿論、知っているわ」と返した。
どうやら「頂けない」という言葉は「薔薇があり得ない色をしていること」にではなく、「青い薔薇」というそのものに対して向けられたものであるらしい。
「最初は青い薔薇って「不可能」っていう花言葉を持っていたけれど、開発されてから「奇跡」っていう大仰な言葉が新しく加えられたんでしょう?」
「随分と詳しいね、それは今からボクが話そうとしていたことだったのに」
「あはは、あたしには花言葉とかいう類のものが大好きな友人がいるからね」
その「友人」こそ、息をするような自然さで彼女の手を取るあの子だ。
親友の域を超えた親しさを見せる彼女たちの、入江はその更に外側にいるのではないかと時折、思うことがある。
彼女と入江はまだ出会って1年も経っていない。故に彼女たちのような親密さをこの数か月で生み出すのは不可能だと解っていた。
しかしだからといって、全てのことを笑顔で許せる程、入江は寛大な人間ではなかった。全てにおいてあの友人に先を越されてしまっているようで、少し気に食わなかったのだ。
入江に「気に食わない」と思わせる程に、彼女はあの少女を受け入れ過ぎていた。困ったように笑わざるを得ない程に、彼女は入江を拒絶し過ぎていた。
自分よりも3つも年下である彼女に対して、そんな風に思ってしまう。幼子のように小さな嫉妬を積み重ねてしまう。
そんな愚かな人間に成り下がる自分を、入江は許すことができずにいた。だからこそ、彼女の手を取ることを諦めることができずにいたのだ。
……けれどそうした思い以上に、入江はこの状況を楽しんでいた。
この少女は簡単には自分へと靡かない。甘い言葉を紡ぐことなどないし、一途な態度を見せることなど決してしない。解っていた。だからこそ惹かれたのだ。
その整った顔が、入江のどんな言葉に揺らぎ、どんな行動によって変化するのか、彼女はどんな時に笑い、どんなことに驚くのか、どうしても知りたかったのだ。
そして今、彼女は入江が紹介した青い薔薇に、無関心以上の反応を見せ、その整った眉を崩して笑った。それだけの表情が見られたなら及第点だと入江は思っていた。
もう少し驚いた顔が見られることを期待していたけれど、それは次回の楽しみにとっておこう。
「あたしは好きじゃないなあ、青い薔薇」
楽しそうに目を細めてそう紡いだ彼女の目は、限りなく黒に近いブラウンを湛えている。闇色をした彼女の目は、何をもってその薔薇を「嫌い」だとしたのだろう。
「青が嫌いなの?」と尋ねれば、彼女は「そういう訳じゃないわ」と苦笑した。
「……色は別にどうだっていいの。奇跡なんて大仰な花言葉を引っ提げた花が嫌いなだけ」
彼女らしい理由を掲げて微笑んだ、その目がきょろきょろと花屋に飾られた大量の花を見渡す。
やがて何を見つけたのか、彼女は小さく声を上げて更に店の奥へと入っていった。
「同じ青でも、あたしはこっちが好きかな」
女の子らしい小さな指が、その両手に収まるくらいの小さな鉢に植えられた花を指す。小さな可愛らしい花だった。プレートには「勿忘草」と書かれていた。
彼女はその鉢をそっと持ち上げ、入江の方に掲げる。その闇色をした目が射るように細められる。
そうして彼女の口が紡いだ思わぬ言葉に、トーンを落として凛と響かせたその音に、入江は完全に余裕をなくして沈黙する他なかったのだ。
「あたしを忘れてくれるな」
……入江は、この少女の整った顔に、笑いの色や驚きの色が貼り付く瞬間を見たかったのだ。
それなのに、どうしてこの少女に、自分がそうした表情を見せる羽目になってしまっているのだろう。
呆気に取られた入江を前にして、彼女はクスクスと笑いながら「なーんてね」と入江の十八番すら奪ってみせる。その涼やかなアルトの声音が、入江の鼓膜を揺らす。
ようやく少しばかりの余裕を取り戻した入江は、肩を竦めて困ったように眉を下げ、小さく溜め息を吐いて笑った。
「最高の告白だね。本当に、勿忘草にはそんな花言葉が?」
「さあ?知らないわ。でも「ワスレナグサ」っていうくらいだから、あるんじゃないかしら。……後で調べてみる?」
彼女はその鉢を棚に戻し、手に付いた土を叩いて払いながらそんなことを言う。
あの凛とした一言は、花言葉に由来するものではなく、彼女の当てずっぽうなものだったことに入江はまたしても驚かざるを得なかった。
果たして本当に「勿忘草」という花には、そんな花言葉があるのだろうか。けれど、仮になかったとして、そんなことはもう、どうだってよかったのだ。
「……止めておくよ。誰とも知れない人間が勝手に決めた花言葉より、君のたった一言の方が大切だ」
貴方のことが好きです。貴方を愛しています。
そんな甘い言葉が霞んでしまう程に、彼女のたった一言に集約された懇願がどうしても愛おしく思えてならなかった。
『あたしを忘れてくれるな。』
あの言葉は告白などという可愛らしいものではない。あれはきっと、呪いだ。入江は彼女に呪われたのだ。
こんな美しい呪いが未だ嘗てあっただろうか。
「香菜ちゃんは可愛いね」
「あはは、そんなことを言うの、入江さんくらいよ」
それは光栄なことだ。どうやら入江にも、彼女の一番になれるものが少なからず存在していたらしい。
いつか、この余裕に満ちた笑みを浮かべる少女を呪い返してやりたいと思った。そのためにはきっと、奇跡などという生温い花言葉では優しすぎる。
2015.7.1