さとりの手

人に何かを頼るなんて言語道断。自分の足で立てない人間なんて冗談じゃない。……そんなことをポリシーとしていた、愚かな時代が私にも確かにあった。
けれど人は一人では生きてはいけないのだと、今の私は知っている。だから人が困っていればできる範囲で力を貸すし、一人ではできないことがあれば助けだって求める。
しかし私に根付いた陳腐なプライドが、お願いしますとまともに頭を下げることを許さなかった。
……つくづく、難儀な性格をしていると思う。

「自転車の乗り方を教えてくれない?」

睨むような目つきになってしまったのは、不機嫌だからではない。恥ずかしいからだ。
それを理解している筈の彼は、ベンチから立ち上がろうと力を込めた足を不自然なところで止め、その正面に立った私をじっと見据えた。

「……香菜さん、自転車に乗れないのですか?」

「乗れたら、こんなことを頼んだりしないわよ」

顔から火が出るとはこのことだろうか。私は顔色を変え、この羞恥を熱として体外に排出しようと努めた。
けれどその羞恥心を、彼はふわりとした微笑みで全て飲み込んでしまう。私の中で燃え上がる羞恥など、彼にとっては些末なものに過ぎないのだ。
彼は私の欠点を見つけて、からかい、弱みにしようとするような人間では決してなかった。いつだって何もかもをその柔らかな笑顔で了承し、私の手をそっと引くのだ。
だからこそ私はこんな頼みごとをする相手を彼に選んだのであり、つまるところ、私は彼を信頼していた。

「では練習しましょうか。大丈夫、香菜さんなら直ぐに乗りこなせるようになりますよ」

「……どうかしら。今まで何度か挑戦したけれど、できなかったもの」

「ボクは元テニス部の部長ですよ?こうした指導めいたことは、もう数え切れない程にしてきました」

ですから安心してください。そんな言葉を言外に集約して彼は微笑み、私の手をそっと掴む。
私よりも大きく温かいその手を、爪が食い込むのではないかと思う程に強く握り締めれば、彼は驚いたように「どうしたんですか?」と首を捻る。
後ろで一つに束ねた長髪がふわりと揺れて、私は思わずその茶色い髪をじっと見つめた。
かつては黒髪で、丸眼鏡を黒く塗ったようなサングラスをかけていた彼が、ここまでのイメージチェンジを遂げた理由を、私は知らない。
知らなくてもいい、と思った。黒髪だろうが茶髪だろうが、あのサングラスだろうがコンタクトだろうが、きっと彼は同じように微笑んで私の手を引いてくれるのだから。

「……あたしが自転車に乗れないこと、誰かに言ったりしないでね」

解っていますよ、というように彼は微笑んで、駐輪場へと歩を進める。

「離さないで!絶対に離さないでね!」

ハンドルを握る掌が汗ばんでいた。
そんな言葉を、もう何度繰り返しただろう。
補助輪を付けて練習した後に、それを外して自転車に跨り、……そこまでだった。
手足が錆び付いたように動かないのだ。
何とか彼に後ろを支えてもらって進めるようにはなったのだが、彼が手を離すその僅かな感覚を、私は逃すことなく拾い上げてしまうようで、
彼が手を離すのと同時に、私の両足はアスファルトに着くことになった。
恐怖から来るものだとは思いたくなかったが、残念ながら全く言うことを聞かない四肢はそれを顕著に表していた。

そんな私の進歩の無さにも我ながら驚き呆れるところだが、更に驚くべきことに、彼はこんな私に1時間も付き合ってくれているのだ。
離さないで、と大声で頼み続ける私に苦笑しながらも、一人でペダルを踏むことのできない私を彼は責めない。
彼の寛容さは私もよく理解しているつもりだったが、その心の広さを利用しているようで流石に申し訳なくなってきて、私は諦めの溜め息と共にその言葉を吐き出す。

「ごめんね、やっぱりあたしには自転車は無理みたい」

「そんなことを言わないでください。後は足を止めずに漕ぎ進めるだけなのですから、きっとできますよ」

しかし彼は一向に上達の気配を見せない私を見限らない。それどころか私以上に意欲を見せているような気さえする。
変なの、と思った。こんな練習に付き合ったところで楽しくも何ともないでしょうに。

「ボクのことは気にしないでください。これでも、とても楽しんでいますから」

そんな私の心を読んだかのように、彼はとんでもないことを告げて笑うのだ。
趣味が悪いわよ、と告げれば、そうかもしれませんね、などと同じ笑顔で返ってくる。
2歳年上である彼に、敬語を使わず砕けた言葉で話す私を彼は咎めない。辛辣な言葉を投げる私を厭わない。彼は笑顔を崩さない。

私が私のままで在れる。それはとても楽なことだった。
彼のことを好きか否かと問われれば、きっと好きなのだろう。恋慕ではないのかもしれないが、少なくとも彼のことは嫌いではなかった。
言いたいことを言い合えるこの時間を私は気に入っていた。
彼も、同じように思っていてくれるのだろうか。自転車に乗れない私に、笑いながら付き合うことのできる程には、彼も私との時間を気に入ってくれているのだろうか。
そうであればいいと、少しだけ思った。そうでなかったとして、しかしそれはそれで良かったのだ。
彼の柔和な笑みの奥にどんな色が隠されていようとも、この時間が心地良いことには変わりないのだから。

「だって、いつもはボクの手を握ることなどしない君が、こうしてボクが手を離すことを頑として許さないのですから、楽しくなるのも当然でしょう」

彼が自転車を支えてくれているにもかかわらず、私は両足をアスファルトに下ろした。
この男は時折、その笑顔のままにとんでもないことを紡ぐのだ。
そして、そんな言葉を「とんでもないこと」と思ってしまう私こそ、彼の想いを知っていると思い上がっていた愚か者に過ぎなかったのだろう。
彼は私のことを、気の置けない友人として見ているのだと思っていた。だからこそ私も親しい友人として彼に接した。
しかし、それは間違いだった。私は彼の言葉でようやくそれを悟ったのだ。

「……ああ、誤解しないでください。ボクは決して、君の言葉に傷付いている訳ではないのですよ。
君がボクのことを信頼し、気の置けない間柄だと思っているからこそ、そうした言葉が出てくるのだと解っています」

「……」

「それでも、ボクは単純な生き物ですから、「離さないで」という君の言葉が恐怖からくるものだと知っていても尚、その字面に喜んでしまうのですよ」

いつになく早口で言葉を並べる彼を、私は遮ることができなかった。だって、あまりにも悔しかったのだ。
私は彼を理解できずにいたのに、彼は私のことを知っている。
私がこの距離に満足していることも、常に毒を吐くこの口程には彼のことを嫌ってはいないということも、寧ろ彼を好きであることまでも、彼は全て、見通している。
彼の方向からは私が見えているのに、私は彼を見通すことができていなかったのだ。そのことがどうしようもなく悔しかった。

相手を煙に巻くのは私の十八番であった筈なのに、この気の置けない関係を楽しんでいた私は、自分を隠すことを忘れていたのだ。
煙に巻くのを忘れてしまうくらい、彼の傍は心地が良かったのだと思い知らされた。
自分の想いを告白しているのは私ではなく彼の方である筈なのに、その言葉が逆に私の内面を照らし出す鏡となり、私に圧倒的な悔しさを突き付ける。
……私は、認めざるを得なかった。この人には敵わないのだと。そして、だからこそ私は彼から離れることができないのだと。

「……わかった。そこまで言うなら、乗れるようになってみせるわ。それで、あんたを置いてペダルを強く踏んで、風を受けるの。さぞかし気持ちがいいでしょうね」

「おやおや、テニス部の身体能力を舐めてもらっては困りますね。香菜さんのような女の子の漕ぐ自転車のスピードなら、余裕で追い付けますよ」

彼はおどけたようにそう返して、再び自転車のサドルを掴んだ。
この男から逃げてしまいたい。ふと、そんなことを思った。この居心地の良すぎる場所から飛び出していきたい。
そうできるだけの力が、きっとこの自転車を乗りこなせるようになった暁には手に入る筈だ。
そんな力を手に入れて、それでも私が彼の隣を望むのなら、その時は私も素直になろう。ずっとあんたのことが好きだったのだと、肩を竦めてさらりと告白してみよう。
今はまだその時ではないような気がした。だって、あまりにも悔しかったのだ。あまりにも嬉しかったのだ。

今ならペダルを踏み続けられるような気がした。踏み続けることができなくとも、彼はいつまでも私に付き合ってくれるのだろうけれど。

2015.6.26
(さとり……人の心を読む妖怪「覚」)

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