ユビキタス

秋の海は当然のように無人だった。
水平線には船も見えず、空に鳥の姿を見つけることもできない。風の音と波の音がかろうじて時の流れを肯定している。
人の営みを感じさせない、閑散とした風景が広がっているだけだった。
にもかかわらず、少女は歓声を上げて砂浜を駆け、その目を零れ落ちるのではないかと思う程に大きく見開いて、海の青と砂浜の白を網膜に焼き付けていた。

「海って本当に広いんですね!」

くるりと振り向き、そう紡ぐ。膝丈の白いスカートが風に煽られてふわふわと揺れる。
お気に入りだというブラウスに潮の匂いが付いてしまわないかと懸念したが、当人である彼女が全く気にしていないようだったので、徳川も言及することを止めた。

ヨットを趣味とする徳川にとって、海は馴染みの深いものだった。この潮風も、波の音も、今更感動する程のものでは決してなかった。
しかし、そんな感動の薄い場所にこの少女を連れてくることを選んだのは、「私、海が苦手で」と苦笑して紡いだ彼女に、少しでも海を克服してもらいたいと願っていたからだ。

「気に入ったようでよかった。海が苦手だと言っていたから少し不安だったが、これなら大丈夫だな」

その言葉に少女はその、少し色素の薄い茶色の目を見開いて沈黙し、やがて困ったように肩を竦めて微笑む。
徳川さんは記憶力がいいですね、と返って来たその言葉に、彼は曖昧に微笑むことで返事を濁した。
自分の記憶力に格別の自信がある訳では決してなかった。誰彼もの口から零れ出る言葉を全て記憶に留めておける程の能力を、自分が持っている筈がないと確信していた。
その言葉の主がこの少女であった、条件などそれだけで十分だった。
その小さな口から零れ出る言葉を忘れられなかったとして、それはしかし、徳川にとって当然のことだったのだ。

「私、海が嫌いな訳じゃないんですよ。ただ小さい頃、浅瀬で泳いでいたら大きな波に身体をひっくり返されて、お気に入りだったゴーグルを奪われたことがあるんです。
波のある浅瀬で泳ぐことが苦手なだけで、こうして浜辺を歩いたり、潮風を浴びたりするのは、好きです」

海にゴーグルを「奪われる」。徳川が頭を捻らなければ思いつかないような表現を、息をするように使いこなして少女は笑う。
彼女の言葉は詩のようにふわふわと俗世から切り離されていて、どこか危なっかしく、それでいて高尚で神聖だ。
けれど、それが彼女を高嶺の花と見せている訳では決してない。この、俗世に染まろうとしない少女は、極度の世間知らずなのだ。

流行りのファッションも、最新の電子機器も、若者の間で使われている言葉も、彼女の周りを漂わない。マイペースに自己を貫く彼女は、どこまでも自由だった。
そして徳川は、彼女のそうしたところに憧れていた。憧れという名の感情に理由を付加するのはとても難しいことのように思われて、徳川は理由を思案することを諦めた。

ただ、敢えて理由を挙げるとすればきっと、自分の持っていないものだったからだろう。
ゴーグルを海の中に落としてしまったことを「海に奪われた」とするその表現も、それらの言葉を歌うような特徴的な抑揚で紡ぐその透き通ったソプラノも、
世間の流れに乗ろうとせず、ただ自分の気に入ったものだけを纏い、奔放に生きようとするその気楽さも、
徳川の見慣れ過ぎた海を、幼い子供のように喜ぶことのできるその心も。
全てがあまりにも眩しすぎたのだ。きっと、そういうことなのだろうと思った。人を好きになるということは、きっとそうした眩しさの先に在るものなのだと信じられた。

「あまり波打ち際に行くと靴が濡れるぞ」

「わっ!」

言った傍から波をくるぶしまで被ってしまう彼女がおかしくて、徳川は思わず肩を震わせた。
彼女は困ったように笑いながら、濡れてしまった靴と靴下を脱ぎ捨て、砂浜にぽいと放り投げた。
おおよそ女の子らしくない動作だと思ったが、それすらも彼女を彼女たらしめる要素の一つに過ぎないのだ。
女の子らしくなくても構わない。女子高生らしい格好でなくとも気にしない。彼女が彼女であればいい。

そんな彼女に釣られるように、徳川も靴と靴下を砂浜に置いて波へと爪先を落とした。
秋でも、まだ海の水は温かい。彼女が踏みしだく砂浜にガラスの欠片が落ちていないことを確認しながら、徳川は彼女の隣に並んだ。

「海の温度は、季節が運んでくる気温よりも3ヵ月くらい、遅れてやって来るらしいですよ」

「……そうなのか」

「今は10月ですから、きっと海が一番暖かい季節なんだと思います」

聡明な彼女が持つ知識に相槌を打ちながら、そうか、だから春の海は驚く程に冷たいのかと徳川は納得する。
首元で2つに結ばれた長い髪が風に煽られ、胸元でふわりと舞い上がった。
髪の量が多すぎて子供っぽく見られてしまうと嘆いていた彼女の、細く長い指を手に取れば、子供らしい高体温が徳川の指を伝って彼の心臓を震わせる。

「子供みたいな体温でしょう?」と、照れたようにすかさず紡いだ少女に徳川は小さく微笑んだ。
確かに彼女の手は温かいが、そんなことはどうだってよかったのだ。
たとえ少女の手が、徳川のそれと同じ温度をしていたとしても、あるいは死んでしまいそうな程の冷たさを持っていたとしても、何も変わらなかったのだ。
その手の温度は問題ではなかった。彼女が彼女であり、この温度が彼女の手のものであるという、ただそれだけの事実が徳川を微笑ませていたのだ。

「次に来た時には、ヨットを出そう」

「……え、徳川さん、ヨットを操縦できるんですか?」

一応、免許も持っている。そう返せば彼女の目が大きく見開かれた。
16歳以上なら取ることのできる免許の説明を簡単にすれば、彼女は未知なる世界に目を輝かせながら夢中で相槌を打つ。
乗ってみるかい?と尋ねれば、間髪入れずに肯定の返事が返って来て、徳川は思わず顔を綻ばせた。
海が苦手だと言っていた彼女が、自分と海に漕ぎ出すことを躊躇っていない。今の徳川にはその事実だけで十分だったのだ。

「ヨットが好きなのか」

「いいえ、そういう訳じゃないんです」

そうして少女は、徳川の手を握り返す。
その声音は歌うように、その言葉は詩人のように、その笑顔は太陽のように、その心は明日の天気を紡ぐように。
その小さな身体に宿る心臓の音は、きっと、徳川のそれと同じように。

「海でも山でも川でも、徳川さんと一緒なら、何処へでも」

それは果たして、有名な詩歌の一節だったのだろうか。あるいは彼女が好んで読む本の中の一文だったのだろうか。
まるで予め用意されていたかのように整ったリズムで発せられたそんな告白に、しかし徳川はその心臓を跳ねさせこそすれ、顔を赤らめるようなことはしない。
何故なら、徳川にとってもその言葉は、共感するに足るものだったからだ。自分にない何もかもを持つ彼女の中の思いに、共鳴できることを心から喜んでいるからだ。

「……あ、でも浅瀬で泳ぐのは止めましょうね。私、ひっくり返っちゃいますから」

「その時は俺が引き上げてやる」

間髪入れずにそう告げれば、彼女はその顔にぱっと花を咲かせるように微笑み、彼の手を強く握り返した。
波が二人の足に小さく打ち寄せ、足跡を、奪った。

2015.6.25
彼女の手が死んでしまいそうな程の冷たさを持っていたとしても、何も変わらなかったのだ。

© 2024 雨袱紗