深煎りと甘党

コーヒーをブラックで飲むのが好きだという少女を、家に招いた。
勿論、徳川からそのような積極的なことを提案する筈もなく、少女の期待に満ちた視線に押される形で訪問を了承したに過ぎない。

『徳川さんの家には、コーヒーミルがあるんですか!?いいなあ……!』

およそ中学3年生には似合わない、幼子のような眩しい目で見上げられ、徳川は思わず「見に来るかい?」と言ってしまったのだ。
彼女と徳川がこうした近しい関係になって随分経つ。今更、この少女を家に招くことに、抵抗がある訳ではなかった。
自室も、いつ人を招いても問題ない程度には片付けてある。饒舌に色々と喋る彼女となら、二人になっても気まずい思いをすることはないだろう。
それにこの少女の目的はあくまでも「挽きたてのコーヒーを飲むことのできる機械」だ。そのことは徳川の気を幾分か軽くさせたが、問題は、その訪問の日が日曜であることだ。

「……侑香、いいか。姉に何を言われても気にするな。姉は年下の人間のことをいい遊び相手にしか思っていないんだ。彼女の標的にされないように気を付けろ」

家の前で為したその忠告に、少女はその肩を震わせてクスクスと笑った。
兄弟に困るのは何処の家でも同じなんですね、と零したところからして、彼女にも兄弟がいるらしい。
今度、話題に上れば尋ねてみよう。そう思いながら徳川はドアを開けた。

「上がってくれ」

「……お邪魔します」

やや緊張した声音で紡がれた挨拶に、廊下の奥にあるリビングのドアが開けられ、徳川の悩みの元凶が満面の笑顔で駆け寄って来た。
徳川はあからさまに眉をひそめたが、少女は見た目だけは大人びた女性の登場に慌てて頭を下げ、挨拶をした。

「わ、本当に連れてきた!この子が侑香ちゃんね。はじめまして!」

彼女の手を握り、ぶんぶんと大きく振って豪快に笑う。
「嬉しいなあ、カズヤが女の子を連れてくるなんて」と、まるで小さな子にするように、その黒髪を撫でたり、頬を指でつついたりしている。
少女は暫くされるがままだったが、やがて手に持っていた紙袋を姉へと差し出した。

「コーヒーミルを見せてもらうお礼です。キリマンジャロの豆なんですけど……」

「わあ、ありがとう!私、キリマンジャロ好きなんだ」

そんな話は初耳だと徳川は思った。豆の種類以前に、姉はコーヒーにたっぷりのミルクを入れなければ飲むことができない人間であった筈だ。
それなのに、彼女からのお土産に手放しで喜ぶその姿勢がどうにもおかしくて、徳川は思わず唇に弧を描いていた。
この姉は果たして、彼女の前で見栄を張り、キリマンジャロをブラックで飲むということをやってのけることができるのだろうか。後でそれをからかうのも悪くない。

「でも、侑香ちゃんが想像しているミルとは少し違うかもしれないよ?手で回して豆を挽くタイプの、下が木で出来た、所謂「クラシックミル」ってやつなの」

「いいえ、それを見たかったんです。私が豆を挽いてもいいですか?」

「勿論!そうだ、折角だからクッキーも焼こうか。前に作った生地がまだ冷凍庫に残っているから」

その言葉に、徳川は思わず吹き出しそうになった。
姉がキッチンに立つことなど、殆どなかったからだ。そのクッキーも、たまたま残っていたものではなくて、姉が今日のために用意していたものだ。
朝早くに起きてエプロンを身に付け、クッキーの生地を作る姉の姿を、徳川は初めて見た。
それなのに、さも「クッキーを日常的に焼いている」というような言い方をする姉があまりにもおかしかったのだ。

姉に案内されるままに、少女はリビングへと足を踏み入れた。
特に珍しいものもない、ごく一般的な空間である筈だが、彼女はとても楽しそうに室内を見渡していた。
徳川はキッチンの戸棚からクラシックミルを取り出し、彼女の前に置いた。零れ落ちそうな程に大きく見開かれた目は、宝石のように輝いていた。

キリマンジャロの豆が入った袋を開け、適当にミルへと放り込む。
徳川も何度かこの、手で回すミルを使ってコーヒーを飲んだことがあったが、小さな機械である割にかなりの力が要求される代物であった。
彼女に上手く回せるのかと、やや不安な心持ちで見守る。「あ、意外と大変なんですね」と彼女はミルを抱えるように持ちながら、困ったように笑った。

「疲れたら言ってくれ。交代しよう」

「い、いえ!やります!」

そう言って必死にミルを回す彼女を、徳川は姉の制止が入らなければずっと見ていただろう。
「カズヤ、あまり女の子をジロジロ見ちゃ駄目よ」などと囁かれ、しかし言っていることは間違ってはいなかったため、彼は反論することもできずに沈黙する他なかった。

徳川より2つ年下の少女は、しかし徳川よりも博識で、聡明な面を見せることが多々あった。
かと思えば知らないものには幼子のような好奇心を見せ、今日のように目を輝かせて食いつくのだ。
その微笑ましいアンバランスは徳川に、愛しさに似た感情を抱かせるに十分だった。
しかしその愛しさのままに微笑むことのできない状況が、今の徳川の前には存在していて、その原因というのが他ならぬこの姉なのだ。

だから徳川は少しだけ、そんな姉に仕返しをしてみたくなってしまった。
豆を挽き終え、コーヒーフィルターを使ってドリップをしている間に、徳川は姉の秘密を少女に告げたのだ。

「……侑香、姉はコーヒーが飲めないんだ。それに、クッキーを作ったのもおそらく今日が初めてだろう。味に問題があると感じたら、直ぐに食べるのをやめてくれ」

「ああ、そういうこと言うんだ!」

しかし、その声はキッチンの方に居た姉にも聞こえていたらしく、彼女は焼きたてのクッキーを載せた皿で徳川の頭を軽く叩いた。
「最初から見栄を張らなければいいだけの話だろう」と反論する徳川に、姉は困ったように肩を竦めて微笑む。

「だって折角、カズヤの彼女が来てくれたのよ?どんなお土産でも喜びたいし、クッキーくらい焼いて歓迎したいじゃない」

向かいに座っていた少女は、コーヒーが飲めない姉に気を遣わせてしまったことへの罪悪感と、姉の好意に対する喜びと気恥ずかしさに、顔を青くしたり赤くしたりしていた。
姉はそんな彼女の頭を撫でて「可愛いねえ」とクスクス笑っている。
そう、この姉は徳川以上に、この少女に会える日を待ち望んでいたのだ。
決して愛想がいいとは言えない徳川を好きになってくれたこの少女のことを、徳川に負けないくらい好きになろうと決めていたのだ。

「あの、お姉さんは、どんなお菓子が好きですか?」

「あらあら、そんな風に気を使わなくていいのよ。でも、そうね、しいて言うならチョコレートのお菓子が好きかな。ほら、あの駅前のお店の」

「遠慮する気がまるでないな」

自分の焼いたクッキーに一番に手を付ける姉に、徳川は苦笑する。
「うん、食べられると思うよ」と笑っている姉に徳川が青ざめていると、丁度3人分のコーヒーのドリップが完了した。
姉は牛乳パックを冷蔵庫から持ってきて、自分のマグカップに勢いよく流し込む。
最早、コーヒーとは呼べなくなってしまったその代物を、しかし姉はそれでも「苦い」と眉をひそめ、砂糖を取りにキッチンへと向かった。

少女はというと、目を閉じて淹れたてのコーヒーの香りを堪能していた。
「夢のような香りがしますね」と、よく解らない表現をする彼女だが、豆から挽いたコーヒーの香りに感動していることは徳川でも理解できた。
そして、そんな彼女の恍惚とした表情に思わず頷いてしまう程に、挽きたてのキリマンジャロの香りは深く、鮮やかだった。
「美味しい」と呟きながら、湯気の立つコーヒーを少しずつ口に運ぶ少女に、角砂糖の入った瓶ごと手にして持って来た姉が、そっと尋ねる。

侑香ちゃん、カズヤといて楽しい?」

「はい、とても」

息をするような自然さで紡がれた肯定の言葉に、徳川は勿論のこと、姉も驚きに息を飲んだ。
けれどそれは一瞬で、姉は「そうかそうか、それはよかった」と笑いながら、大量の角砂糖をカップの中に沈めた。

2015.6.29

© 2024 雨袱紗