ひぐらしの祝福

(全国大会準決勝後)

「やあ、お疲れ様」

ひらひらと知り合いに向かって手を振れば、彼は困ったようにその整い過ぎた眉を下げ、一瞬の微笑みの後に駆け寄って来た。
この、女性ですら嫉妬してしまう程に美しい顔立ちをした青年は、ほんの数時間前、おそらく公式シングルスでは初の敗北をその身に刻むに至っていた。
彼はそのことに対する悔しさを噛み締めていた。噛み締めている、ように見えた。

「見ていたんだね」

「あんたの公式戦を見に来なかったことなんか一度もないわ」

「そうか、少し恥ずかしいな」

「あはは、そんなこと思っていないくせに」

汗に濡れている筈の彼の髪は、驚く程に柔らかな流れをもってその白い頬を撫でていた。私は思わずその姿に見惚れ、息を飲む。
テニスの高みを目指す人間にしては、彼はあまりにも美しすぎる容姿をしていた。
それでいてコートに立つ彼が打つボールはとても力強く、幾つもカウンターを打って相手を掌で転がすように翻弄するのだ。
そんな彼は、本気を出さない。同じ中学の乾にも己のデータを取らせることをせず、底の見えないプレイスタイルを貫いていた。
そんな彼を人は天才と呼び、恐れた。そして、私は彼が好きだった。彼のそうした、酷く狡猾で臆病なところが大好きだった。

「どういう意味だい?」

彼は小さく首を傾げ、私の隣に並んだ。
アスファルトに二人分の影が長く伸びていた。彼の中性的なテノールは、傍の街路樹で鳴きわめく蝉の音が掻き消していった。
夕方に煩く響く、この特徴的な鳴き声を持つ蝉の名前を、私はどうしても思い出せなかった。果たして、この蝉は何というのだったか。

「あの試合だって、本気じゃなかったんでしょう?
負けたのは、自分のカウンターを悉く華麗に攻略した白石への敬意を示すためか、それとも後に控える青学の皆を信頼してのことか」

「買いかぶり過ぎだよ、香菜。ボクはそこまで優秀な人間じゃない」

確かに、彼は優秀な人間ではなかった。10年に一度の逸材揃いし年と呼ばれたこのテニス界において、彼よりも強い人間は沢山いた。
けれど彼はそんな中でも、決して本気を出そうとはしなかった。彼はそうすることで生き延びてきたのだ。
この美しい青年はとても狡猾で、自分を守ることが得意な人間だ。少なくとも私は、そう思っていた。
彼は「本気を出さない」という装甲を身に纏い、このテニス界に君臨し続けてきたのだ。その、他に類を見ない戦い方に魅入られ、私はずっと彼の試合を追い掛けていた。

「あたしは、あんたの「本気を見せない」やり方、嫌いじゃないわ。だって本気を出して負けたら、本当に後がなくなっちゃうものね。
だからあの試合だって「本気を出していなかった」ことにしておけばいいのよ。そうすれば実力はまだ闇の中、あんたはミステリアスな底の読めない天才のままでいられる」

その言葉に彼の眉が僅かに歪んだ。私はその様子がおかしくてクスクスと笑った。
蝉は煩く夕闇を切り裂いていて、影は更に長く伸び続けていた。

「あたしも、いつか見られるあんたの本気を期待して、いつまでもあんたを追い掛けていられる」

けれど彼はその整った唇に僅かな弧を描く。そのあまりにも余裕のある微笑みに、私はああ、悔しいなあと思いながら肩を震わせて笑う。
もっとも、彼が今更、私の毒のある言葉に傷付くことなど、あり得なかったのだけれど。私の毒舌など歯牙にもかけない彼が、その笑みを崩すことなど絶対にないのだけれど。

実のところ、私もきっと彼の「本気を出さない」という装甲に翻弄されていた者の一人に過ぎないのだろう。私はずっと彼を見ていた。見過ぎていた。
だからこそ、誰もが「不二が本気を出した」と判断する程のあの試合ですらも疑ってしまう。
あの敗北は彼の妥協であり、まだ恐ろしい武器を隠し持っているのではないかと勘繰ってしまう。
そうして二重、三重の深読みをする私は、きっと彼の真実から遠ざかってしまっているのだろう。それでもよかった。それがよかった。真実など、どうだってよかった。

あの敗北が彼の全力だったのか、それとも余裕を残した上でのことだったのか、私には解らない。
大事なのは、その敗北によって、彼の纏い続けていた装甲が剥がされかけようとしているという事実だった。
きっと私はこの時のために、この人の試合をずっと見てきたのだとさえ思えたのだ。彼がずっと隠していた片鱗を、私は少しだけ垣間見ることができた気がしたのだ。
けれど、きっとあれだって、彼という人間が持つ力のほんの一部でしかないのだろう。
だって彼はコートの上で息をするように新しいカウンターを生み出すから。相手が強ければ強い程、彼は恐ろしい程の実力を引き出すから。
私はそうした彼の姿に惚れ込んだのだから。

「それじゃあ、あれは本気の試合じゃなかったということにしておこうかな。そうすれば君は、次の試合も見に来てくれる」

「あら、あたしはいつだってあんたの試合を見に来るわ。だってあたしはあんたの、不気味で底の知れない臆病なテニスが大好きなんだから」

「褒められている気がしないね」

「あはは、あたしが手放しであんたを褒めはやすような優しい人間に見えるの?」

そんな筈はないと彼は知っている筈だ。彼だけは私の本質を見抜いている筈だ。
私がこうして彼に毒を投げ続け、おどけたように笑って「大好き」と紡ぐことしかできない私の正体を、私の心の中にずっと根付いた真実を、彼は捉えている筈なのだ。
だって私は彼と同じものを持っていたのだから。私も彼と同じように、狡くて臆病な想いを向けることしかできない人間なのだから。

「君はそうした時にしか、ボクに好きだと言ってくれないね」

「だって想いの全てを見せて拒まれたら、臆病なあたしは立ち直れないでしょう?だからあたしはいつだって、本気で好きだと言ったりしないわ」

きっと私は、この底の知れない、不気味なテニスをする臆病な青年に共鳴したのだろう。
だって、あまりにもよく解ったのだ。天才と呼ばれる彼が、どうして本気を見せることを嫌うのか。勝利に執着していないような構えを見せ続けるのか。
猛者揃いのテニス界で生き抜く術として、そうした臆病な手段を選んだ彼に、それでいてコートの上では情熱的なテニスを見せる彼に、息が詰まるような心地を抱いたのだ。
あまりにも愛しすぎるその選択から、私は目が離せなくなった。誰かを好きになるには、それだけの衝撃的なエピソードがあれば十分だ。

「ボクはもう、君の好きなテニスをすることができなくなるかもしれない」

時が止まった気がした。あれ程までに煩く鳴いていた蝉の音さえも、一瞬だけ夕闇に溶けるように消えてしまったのだ。
私は彼の目が、アスファルトに伸びる長い影に落とされるのを、見ていた。

「それでも君は来てくれるのかい?ボクを、今日のように応援してくれる?」

……この、天才と呼ばれる美しい青年は、大きすぎる勘違いをしている。
確かに私は彼の、底の見えない不気味なテニスに惚れ込んだ。
そのプレイスタイルの影に隠れた彼の臆病な心に、けれど押し殺すことができない程に燃え上がった情熱に、私は強く共感した。

けれど、それは彼を見るきっかけとなった一つのエピソードに過ぎない。更に言えば、私は彼の本気が何処に在ろうと、彼がどんな風に変わろうと、構わない。
私はこの青年が、人間離れした美しい微笑みをもって、コートに立ってくれさえすればいい。そうして試合の帰りに、こうして私に気付いてくれるだけでいい。
だって私は彼が好きなのだから。底の見えない不気味なテニスも、本気を出した情熱的なテニスも、全て彼のものなのだと愛しく思える覚悟ができていたのだから。

「……何のことかしら。あたしはただ、あの観客席であんたを見ていただけよ」

「一度だけ、名前を呼んでくれたじゃないか。ボクが聞こえていないとでも思ったのかい?」

「都合のいい空耳ね。あたしがそんなことをする筈がないでしょう?」

微笑みながら首を捻る青年に、私はまたしても有り体の嘘を吐く。
聞かれていたのだと、心臓が煩く跳ね始めていた。けれど衣服の奥にある私の心臓の鼓動は、彼に決して聞かれることはない。
だからいくら心臓が煩く音を立てていたとして、それを表情や声音に出さなければいいだけのことだったのだ。
そうして私は自身の想いを煙に巻く。私がどれだけ彼を好きでいるのかを、彼が知ることはきっとない。私が彼を計り兼ねているように、彼も私を計り兼ねているのだ。
それでいい気がした。互いが愛した互いの想いは、そうした距離の先にあるのだろうと信じられたからだ。

「でも、そうね。もう一度聞こえるかもしれないわよ、その都合のいい空耳」

そう告げれば、彼は少しだけ驚いたようにその目を見開き、しかし直ぐにいつもの美しい顔に戻ってふわりと笑った。
中性的なテノールで紡がれた彼の言葉を、蝉の音が掻き消していった。決勝戦で彼の名を呼ぶ私の声は、果たして誰にも掻き消されることなく届くのだろうか。

2015.7.8
テニスジャンル更新再開のきっかけを下さったけーきりんさんに心からの感謝を込めて。

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