スイソウの少女

少女の声が聞こえた気がして、徳川は目を開いた。
その場に居る全員が黒服を身に纏っていた。冷房の強く効いた白い室内は凍えそうな程に寒く、こちらが死んでしまうのではないかと彼は思わず危惧する。
棺の中には眠るように一人の少女が横たわっていて、周りに花が手向けられていた。鮮やかな赤や黄色の花弁が、彼女のこけた顔の周りを彩っていた。
彼女が好きだと言っていた向日葵の花を渡され、徳川も棺の中の少女に手向けるために歩みを進めた。

眠っているようだと思った。死者の顔色は生きている者のそれとは相容れない筈であったのに、彼女の顔色では生きているのか死んでいるのか、見分けることができない。
それ程に、普段の彼女の顔色は悪く、今の息を止めた彼女の顔色は良かったのだ。
彼は向日葵の花を右手に持ち、量の少ない彼女の髪を飾るように置いた。

その拍子に、指が彼女の頬に触れる。徳川ははっと息を飲んだ。その頬の冷たさに覚えがあったからだ。
こんなにも冷たいのに、それは生きている人間の温度ではない筈なのに、自分はこの温度を知っていた。この温度を、徳川は生きていた彼女にも確かに見ていたのだ。
彼女は生きていようが死んでいようが冷たいままなのだと、そう察した瞬間、天井が彼の目に飛び込んでくる。
夢だったのだと察した瞬間、心臓が潰れそうな程に締め付けられるのを感じた。

どうして、こんな夢を見てしまったのだろう。

徳川は飛び起き、壁に掛けられた時計を見て溜め息を吐く。
普段なら早朝練習を始めている時間だったのだが、あまりの夢見の悪さに気力を殺がれてしまった。
それでも日々のルーティーンワークはこなしておかなければと思い、外に出る準備をする。
洗面所の蛇口から出てくる水の冷たさに、徳川は夢の中で触れた彼女の頬の温度を重ねた。

きっと彼女の温度は、生きている者のそれから限りなく隔てられた場所にあるのだろうと徳川は思った。
あの少女の手が、頬が、あまりにも冷たいから、そこに人の温度がないから、あんな夢を見てしまったのだろう。
まるで死んでいるようだと心の中でそんな比喩を作り上げてしまったから、その例えが夢の中で形を成したのだろう。

ラケットとボールを持って階段を駆け下り、1階のロビーに足を踏み入れた徳川は息を飲んだ。
そこにはつい数分前まで、棺に横たわっていた筈の少女の姿があったからだ。
大きすぎるジャージを身に纏い、ロビーに置かれた大きな水槽の中をじっと見つめている。
特別スタッフである彼女に、こんな早朝から業務が課せられているとは思えない。大方、早くに目が覚めてしまい、外の空気を吸う為に部屋を出てきたのだろう。

徳川は足を止め、躊躇った。
いつもなら迷わず声を掛けた筈だ。彼女の方へと真っ直ぐに歩み寄った筈だ。
饒舌ではない自分が提供できる話題などたかが知れていて、沈黙が続くことの方が多いが、それでも彼女の名前を呼ぶことを躊躇ったことなどなかった。
けれどそんな少女を呼ぶべき名前を、徳川は自分の喉から出すことができなかった。

自分の呼び掛けに、彼女はきっと振り向くだろう。影の差した頬を少しだけほころばせて、おはようございますと澄んだソプラノで紡ぐだろう。
しかし徳川は、そんな彼女に、今此処に存在している彼女にきっと、あの夢の中の姿を重ねてしまうに違いないのだ。それはとても恐ろしいことであるような気がした。
針金細工のように痩せ細った身体や、影が差す程にこけた頬、無機質のような冷たさを持つ肌。
それら全てが彼女に死相を見せていた。彼女はその小さな体に死の気配を纏い過ぎていた。

だからこそ徳川は、この少女に死の影を見ていたくはなかったのだ。
この少女は明日も明後日も生き続けるのだと、徳川は自身に言い聞かせていた。それを彼女も望んでいる筈だと信じていた。

大丈夫だ。彼女は此処に居る。生きている。息をしている。
その温度が死者のそれに限りなく近いものであったとしても、そこから這い上がることのできる力を彼女は持っている。
徳川が目を離すことのできない彼女には、そうした強さが備わっている筈なのだから。

侑香

自分に言い聞かせるようにして、徳川はようやく彼女の名前を呼んだ。
華奢な肩を跳ねさせ、弾かれたように勢いよく振り向いた彼女は、その鮮やかな茶色い目に徳川を映し、安心したように微笑む。

「おはようございます、徳川さん」

歩みを進め、徳川は少女の隣に並んだ。
彼女の目は再び水槽の中の魚に戻されていて、徳川もその視線の先を追うように水槽の中を覗き込む。
青や黄色の鮮やかな魚が、自由に水の中を泳ぎ回っている。
重力の弱められた水中では、頼りない茎の植物でも倒れることなく漂っていられるらしく、その隙間を魚がすり抜けるたびに、細い葉が小さく揺れた。

「魚が好きなのか?」

「はい、とても気持ちよさそうですよね。私もこんな風に泳いでみたいなあ」

その言葉に何故か、徳川の肌は粟立った。
彼女の声音に、人間である自分を厭う心地が含まれているような気がしたからだ。
放っておいたら、この少女は本当に魚になってしまうのかもしれない。足を失い、陸上で息をすることのできない魚と化してしまうのかもしれない。

そんな非現実的なことはあり得ないと知っていながら、しかし魚にはなれずとも、彼女が歩けなくなり、息を止めてしまうのは時間の問題なのではないかと徳川は思った。
水槽を泳ぐ魚になることはできなくとも、息をすることを止めた身体を水に沈めて葬ることならできるのではないか。寧ろ彼女はそれを望んでいるのではないか。
そう思わせるだけの死相が、徳川が否定し続けても尚、彼女の周りに纏わりついていた。

魚になれなかった彼女は、水に葬られてしまうのかもしれない。

徳川はそんな思案を、たった一度の瞬きで追い遣った。
あんな夢を見たからだろう。棺の中の少女があまりにも安らかな表情をしていたから、そんなことを考えてしまうのだろう。
この少女は、生きている。水の中を自由に泳ぐ魚に羨望の眼差しを向けている。それ以上でも以下でもないのだ。徳川はそう自分に言い聞かせようと努めた。

「人間が水中に焦がれるように、魚も陸や空に焦がれているのかもしれない」

その言葉に少女は顔を上げた。
徳川はそう紡ぐことでしか、遠くへ行ってしまいそうな少女を引き止めることができなかった。
彼女の深すぎる闇に対して、徳川はあまりにも無力だった。

こうした心の揺らぎに詳しいあの精神コーチなら、もっと適切な言葉を選ぶことができるのかもしれない。
柔和な笑みを湛えたまま、彼女のどんな危うい言葉にも動じず、息をするように、水底に沈んだ彼女を掬い上げることができるのかもしれない。
しかし今、彼女の隣に立っているのは自分だ。魚のように泳いでみたいという言葉に危うさを感じたのも、その危うさを打ち消したいと思っているのも他でもない徳川なのだ。

「……合宿所の郊外に、川がある」

「魚がいるんですか?」

「ああ。次の日曜に見に行ってみるかい?」

少女はもう、水槽を見てはいなかった。その鮮やかな茶色い目が、真っ直ぐに徳川を見上げる。
この目の色は、太陽の下に出ると更に明るくなることを彼は知っていた。まるでその目に太陽を飼っているかのような、宝石のような色に変わるのだ。
その目に光を宿すことができるうちは、徳川は決して目を離すまいと誓っていたのだ。

この少女のことが好きなのだろうか。彼女に恋をしているのだろうか。
自分の思いすら解らなかった。そうした淡い心を持つ余裕などなかった。しかしこの少女を死なせていけないのだと、それだけは強く感じていた。

「今の季節なら、川を遡上する魚が見られるかもしれない」

その言葉に少女は目を輝かせ、頷いた。

「解りました、約束ですよ」

差し出された細い小指に、徳川は自分の小指をそっと絡めた。
その手の温度は夢に出てきた棺の中の少女を連想させたけれど、もう彼は恐怖を抱かなかった。
この少女の笑顔が心からのものであることを確信していたし、何より約束を交わした以上、彼女は次の日曜日までは決して死ぬことなどないのだと信じられたからだ。

徳川はそんな小さな約束で、彼女の生を刹那的に繋ぎとめることしかできない。自分にはその程度の力しかないのだと、彼は知っている。弁えている。
それでもよかった。どんなに身近な間であれ、自分の言葉には彼女を「此処」へ繋ぎ止めるだけの温度があるのだから。彼には彼女を生かすことができるのだから。
そんなことをせずとも、彼女は生き続けてくれるのかもしれないけれど。全ては徳川の杞憂であったのかもしれないけれど。
それならそれで、彼女との時間を重ねられることに喜べばいいだけの話だ。

その、期待に大きく見開かれた二つの瞳は、太陽の下でどんな輝きを見せるのだろう。

2015.6.26

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