愛など問うてくれるな

彼の姿が、見当たらない。

私は焦っていた。モニタールームにノックもなしに飛び込んで、無数にある画面の中から素の姿を探した。
宿泊棟から大きな荷物を持って出てきたその姿を見つけた瞬間、体中の血がなくなってしまったような強い悪寒と恐怖を感じた。
いけない。彼をこのまま放っておいてはいけない。

冷たい廊下を蹴って、外へと飛び出した。11月のアスファルトは暑くも冷たくもない温度で彼を外の世界へと誘導しようとしていた。
世界と完全に調和したかのような彼の足取りは恐ろしい程に軽く、そのまま放っておけば、彼は最高に美しい幕引きを迎えられるのだろうと信じられた。

私にはそれが耐えられなかった。

「行っちゃうの?」

彼は私の言葉に足を止めてくれた。
ここまで全速力で駆けてきた私の息は上がっていて、誰のための疾走だったかなど一目瞭然だった。
ましてや相手は、かつてあの青学テニス部の部長を務めた人間だ。洞察力には長け過ぎていることだろう。
そんな彼の前で、息の上がった自分を見せるのは酷く勇気の要る行為だった。けれどそんな覚悟さえも即座に抱けてしまえる程に、事態は急を要していたのだ。
だって、今ここで私が止められなければ、この人はもう此処へは戻ってこないのだから。
その手がラケットを握ることは、もうないかもしれないのだから。

「おや、お見送りですか?ありがとうございます」

「あはは、どうしてあたしが大和さんを見送らなきゃいけないのよ。寧ろ、文句を言いに来たのよ」

私の声は上がってしまった息のせいか、少しだけ震えていた。いや、本当は息のせいなどではないことに気付いていた。これはきっと、恐怖だ。
怖い、彼がこの場所から去ろうとしていることが恐ろしくて堪らない。
けれど私はそんなことを一ミリも考えていないような、気丈な笑みを彼に向けた。

あんたが此処から居なくなりたいと思うことは勝手だけれど、かつての後輩の前で中途半端な幕引きだけはしてくれるなと、小うるさく説教をするつもりだった。
そして彼が肩を竦め、困ったように微笑んでから「それもそうですね」と頷いてくれることを期待していたのだ。そうなる筈だと確信していた。
彼を引き止めるための言葉を私は紡げると思い上がっていた。思い上がっていなければ、彼を追い掛けられなかった。そう信じていなければ足が動かなかったのだ。

私は、こんなに臆病な人間だったかしら。

「文句、ですか?」

「そうよ。こんな暑苦しいところから一足先に逃げ出そうなんて、先輩の風上にも置けないわ」

「ボクは好きでしたよ、この場所。皆の情熱が熱すぎて、寧ろ心地良かった」

それなら尚更逃げてくれるなと、声を荒げて叫んでやりたかった。けれど私の矜持がそれを許さなかったし、何よりそんな大声を出すことのできる余裕はとうに失われていた。
だから私は、いつもの飄々とした声音を作って、明日の天気を語るように彼へと言葉を投げていた。

お願い、行かないで。逃げないで。自分で自分を見限らないで。

「あんたは手塚が此処に来るのを待っていたの?手塚が此処に来ることを確信してこの場所を選んだの?違うでしょう?」

彼の心を私達が折ったのだと、私だけが気付いていた。
私は、プロ行きを決意した手塚のことなどどうだっていい。祝福と応援の渦中に在る人物のことなんか気にしない。
私は皆に混じってあいつを賞賛できる程、器の大きな人間ではない。

だって、ねえ、どうして更に先へと進んだ手塚と引き替えに、貴方がテニスを辞めてしまわなければいけないの。

私はまだ中学3年生だった。幸運なことに、それまで大きな挫折も取り返しのつかない失敗もすることなく、順風満帆な人生を送ってきた。
このU-17だってそうだ。10年に1度の逸材と呼ばれた人間ばかりが集まっていて、恐ろしい程に洗練された空気がそこにあった。
当然のように皆が切磋琢磨する環境の中で、「テニスを辞める」などという言葉を思い浮かべることなど不可能だった。
そんな空気に染まり過ぎていた私は、彼の優しくて残酷な諦念を理解することができなかった。
私はまだ子供で、挫折を知らなかった。だからこんな風に訴え続けているのだ。テニスを諦めてほしくないと、駄々を捏ねているのだ。

「今も、テニスが大好きなんでしょう」

それが、私の想った人であるなら、尚更だった。

彼はその足をゆっくりと動かして私の方へと歩み寄ってきた。
この人を前にしてこんなにも心臓が煩く動いたのは初めてだった。自分の想いを自覚した時にも、こんなに激しい音を立ててはいなかっただろうと思った。
次の一手で全てが決まる気がした。言葉をたったひとつでも間違えれば、彼は此処から居なくなってしまう。
私にはそれがどうしても耐えられない。

香菜さんは、テニスをしないボクのことは嫌いですか?」

「!」

「テニスを諦めて、生きていくための別の手段を見つけようとするボクのことを、軽蔑しますか?」

思わぬ彼の言葉に、私は慌てて首を振ってしまった。
そんな私の頭をそっと撫で、彼は泣きそうに微笑んだのだ。

彼を、嫌いになれる訳がない。私は彼が彼のままでいてくれさえすればいい。
柔和な笑みを湛えて、丁寧な言葉遣いで私の名前を呼んでくれる、そんな彼であれば、他には何も要らない。
彼からテニスがなくなってしまったとして、それでも私は彼を好きでいられる。けれど、彼は?
貴方は貴方からテニスがなくなってしまっても、貴方を好きでいられるの?手塚に自らの全てを託した、その後に残る空っぽの自分を、貴方は貴方に誇れるの?

「けれど確かに、合宿の途中退出は褒められたことではないかもしれませんね」

その言葉に息が詰まった。心臓が押し潰され、動くことを止めてしまいそうだった。
けれど私はそんな心の内をおくびにも出さず、気丈に微笑んで「そうよ、青学の後輩が見たら呆れるわ」と背中を押す。

テニスを辞めるのならそれでもいい。この合宿を最後に、彼がラケットを手放す選択をしたとしても、構わない。
けれど手塚に託して去っていくような真似だけはしてくれるな。自分の意志は全て手塚に預けたのだと、馬鹿げたことを口にしてくれるな。
だって貴方は貴方以外の何者でもないだから。貴方の思いと手塚の思いとは似ているけれど、貴方の思いが手塚のそれに成り代わることなどあってはならないのだから。

「この合宿を終えて、それでもテニスを辞めたいって言うのなら、あたしは何も言わないわ。だってそれは他の誰でもない、大和さんの選択なんだもの」

「……」

「大和さんがテニスを辞めたって、あたしは軽蔑なんかしない。でも手塚に全てを託してかっこよく出ていこうとする今の狡いやり方は、許せない」

その言葉に彼は肩を震わせて笑い始めた。「貴方らしいですね」と、彼は震える声音でそう紡ぐ。
私はこの人を引き止められたのかしら。この人の素晴らしい幕引きを邪魔できたのかしら。私の言葉は彼に届いたのかしら。
合宿所の門に向けられた彼の背中が、その疑問に全てイエスと答えてくれた。11月のアスファルトに二人分の靴音を落として、私達は合宿所への道を歩いた。

「ボクのテニスは、あまり見栄えのするものではありませんよ。強さも、中学生の彼等の方が上です」

「知っているわ」

「それでも、テニスが好きなんですよ。その思いだけで此処まで来ました」

私は彼の右手にそっと手を伸べ、その甲を強くつねった。
驚きと痛みに目を見開いた彼に、私は満面の笑みで告げる。

「ほら、やっぱり、今いなくならなきゃいけない理由なんて、最初からなかったじゃないの」

今、彼がこの場所を出ていけば、彼が彼ではなくなってしまうような気がしたのだ。
テニスを愛していた彼が、コートの上で楽しそうに微笑んでいた彼が無かったことにされてしまう気がしたのだ。
私はそれがどうしても耐えられなかった。

けれどそんな私の我が儘は、幼い子供が駄々を捏ねるように懇願したその思いは、どうやら彼に届いたらしい。
安堵と歓喜に泣きそうになったけれど、隣で彼が私よりもずっと泣きそうな笑顔をしていたので、私は思わず笑ってしまった。
この合宿に彼が彼として最後まで参加し、それでも彼がテニスを辞めたいと思うなら、それでもいい。続けたいという意思があるなら、それはそれでいい。

「別に良いのよ、あたしはかっこ悪いテニスをする大和さんが好きなんだから」

あっけらかんとそう紡げば、彼は今度こそ声を上げて笑い出した。

2015.7.3

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