B8-1000

本科の校舎を遠くから見たことはあったけれど、実際にこうして中へと入るのは初めてのことだった。
希望ヶ峰学園をこよなく愛した彼等のことだ、きっと「再建」するにあたって、以前の学園の形を崩さないよう努めていたのだろう。
その外観も、廊下の印象も、あたしが遠くから見ていたものと寸分変わりないように思われた。
絶望に飲まれかけた彼等の夢が、蘇ろうとしているらしい。

「あたしは何処に行けばいいの?」

「本科の校舎で、としかボクも聞いていないんだ。でもきっと教室にいるんじゃないかな。彼はよくその隅に立って窓の外を見ているから」

「分かったわ、行ってみる」

あたしは、あたしを連れてきてくれた苗木に礼を言うことさえ忘れて、勢いよく車のドアを閉め、走り出した。
この荒んだ世界においては、身の危険から逃れるために「走る」ことなど日常茶飯事である。
故にあたしは、平和な頃の陸上選手に引けを取らないくらいのスピードで、平坦な道ならぐいぐいと駆けることができるようになっていた。

当然のことながらあたしは「超高校級の陸上選手」ではない。あたしにそのような才能はない。けれどもそんなものがなくたって人は走れる。そういうように出来ている。
一人では立つことさえままならなかったような乳児の頃から始まり、つかまり立ちを覚え、よたよたと歩き、小さな靴で床を懸命に蹴り……。
そうしてやっとのことで手にした「走る」という行為にこそ価値があるのだ。それらの「生きてきた」記憶が今のあたしを少なからず支えてくれているのだ。
そういうものを手にしないまま、一足飛びに才能だけを手にしてしまった彼は、……一体、何を支えに生きてきたというのだろう。

「楽しめない」ことなど分かり切っていたけれど、それでもその「楽しめなさ」を目の当たりにすると、落胆にがっくりと肩を落とさずにはいられなかった。
お化け屋敷では「次の角で髪の長い女性が出てきますよ」とか「そこにドライアイスが仕掛けてあるようです」とか、頼んでもいないのに予告をしてくるし、
ミラーハウスの大きな迷路に入っても、彼はあたしの手を引いて迷うことなくずんずんと先へ進み、クリア最短記録を呆気なく打ち立ててしまうし、
30cm程度の長い麩を購入して池の綺麗なコイにあげようとすれば「そういうことは業者に任せた方が効率的ですよ」なんて口にする始末である。
この男は本当に、こうした「楽しむべき場」でも楽しまないのだ。楽しもうとしていないのだ。

「あんた、あたしを楽しませる気なんて更々ないでしょう」

今日、此処へ来るきっかけとなったあの交渉内容を持ち出してそう告げれば、彼はいつもの仏頂面のままに「ええ」と答えるのみであった。
あたしはもう一度肩を落とし直した。そして、今度はあたしから彼の手を掴んだ。

『あんたがあたしを楽しませることができたなら、お望み通り本科とやらに入ってあげる』
そのようなことを口にしておきながら、「楽しませよう」と躍起になっていたのはその実、あたしの方だったのだろう。
この仏頂面がどこかで歪んでくれないかと、あたしはこの遊園地を走り回りながら、いつだって期待していたのだろう。
……その期待は彼の、びくともしない仏頂面によって悉く裏切られることになってしまったのだけど、構わなかった。
別に彼を楽しませることはあたしの使命ではない。だから「ああ、残念」と肩を落として悔しそうに笑えばいいだけの話であったからだ。

あたしはそうした自由な人間である。あたしはそうした重責から逃れるのが得意な人間である。
けれども彼は、どうだろう。学園の許可を得てこの場にいる彼が、あたしを本科へと勧誘することに今日も失敗したと知ったら、この黒いワカメは叱られてしまうのだろうか。

「貴方ただ一人だけを楽しませる、などという無益な才能は、僕には備わっていないもので」

「才能がなくたってできることはあるわ。楽しんだり楽しませたりするのは才能じゃなくて、人間に与えられた権利で、祝福みたいなものよ」

「……仮にも僕の正体を知る人に、僕のことを「人間」と形容されるとは思いませんでしたよ」

確かに、この黒いワカメはほとほと人間らしくない。けれどもそれでも憎らしいことに、悔しいことに、その人間らしくない彼は人の形を取って、此処にいる。
すなわち、やはりこの男は人間なのだ。ハジメというれっきとした人間を基盤にして構成された人格は、やはり人間の器から脱することなどできないのだ。
ちょっと脳に手を加えられただけで、人はそう簡単に人から逸脱したりはしない。
ファンタジーやSFは、人格や記憶や才能を弄ることに成功してしまった。けれども、それだけだ。
人は人以外のものになることなどできない。魂の入っている器を移し替えることは、概念に勝利したこの誉れ高い世界の技術においても、きっと不可能だ。

「いつか、脳を弄ったりしなくたって、あんたのような力を使いこなせるような人間が現れるようになるんじゃないかしら」

あたしは大きな観覧車を次のターゲットとして、そのゴンドラの中に彼を押し込んだ。彼は特に抵抗する様子もなく、そのまま席に着いた。
夕陽を背にして座る彼の向かい側に腰かけると、彼の仏頂面がいい具合に逆光で濁ってくれたので、少し愉快な気持ちになれてしまった。
観覧車はあまりにも緩慢とした速度で進み始める。彼は窓の外へと視線を移す。綺麗に磨かれたゴンドラのガラスに、彼の赤い眼球が仄かに灯っている。

「……それこそ、夢物語というものでは? 僕の計算では、そのようなことはあと数百年先までは確実に起こり得ませんよ」

「僕の計算、ってのがそんなに大事なの?」

「どういうことです?」

この黒いワカメは、自らが「造られた希望」であることに驕っているのだ。だから平気な顔をして「自分こそが絶対である」などと口にできるのだ。
けれどもそのようなことはきっと在り得ない。
そのような人間、他者の意見を聞き入れず、他人の心を慮れない人間が、この世界の希望になってやろうなんて、それこそ夢物語だ。傲慢もいいところだ。

「あんたはただの人間よ。人より恵まれていて、人より多くの記憶を持っているだけの人間。ハジメが望まなければ、この世に生まれることさえできなかった人間。
……人の器、っていうのは、神みたいな力を持ったあんたにとっては侮蔑の言葉に聞こえるのかもしれないけれど、あたしは、あんたが人の形をしていることが少し嬉しい」

けれども彼は、その傲慢を傲慢と認識せず、ただ己の中の真実として淡々と語っている。
そんな、人ならざる強さを有した彼が、誰かに何かに依らなければ生きていかれないような連中ばかりのこの世界に人の形を取って存在している。
その事実に、おそろしくうつくしい真実に、あたしはこの上なく喜ばしい「何か」を見ている。

「人間であるあんたのように、人の器を持ちながら神様みたいに振る舞えるあんたにように、あたしも、なってみたかった。
決して揺るがず、決して傷付かず、強く賢く生きられたならどんなにかよかっただろうって、あんたに会う度、思ってしまうの」

あたしはこの男になりたかった。正確にはこの男の人格を有するハジメになりたかった。同じような存在にあたしがなれたならと、本気で夢見ていた。
けれどもあの狂気じみた夢から覚めてしまった今になっても、あたしはやはりこの男のようになりたいと思ってしまう。
それは「人格の上書き」を望んでのことではない。イズル自身の強さを望んでのことだ。
誰にも頼ることなく生きていかれる人間。誰に頼られても縋られても平然としていられる人間。人でありながら神の資格を持つ人間。

「……」

少し風が出てきているのか、ゴンドラが不規則にグラグラと揺れる。
彼の目が驚きに少し大きくなったところで、その顔が少しだけ歪む。あたしは息を飲む。
彼はこの観覧車の「不規則な揺らぎ」を、少しは楽しんでくれている。あたしはそう確信する。確信して、安心して、そんなあたしに呆れてしまう。
その歪んだ顔を見られただけで、こんなにも救われたような心地になってしまえるあたしに、ほとほと嫌気が差してしまう。

「どうかしら。こんなツマラナイ遊園地で思いっきり楽しもうとしたり、なれるはずのない存在になりたいと本気で願ったりするようなあたしは、希望とやらに値しない?」

3合目あたりまで上がったところで、希望ヶ峰学園の屋根が見えた。
賑やかな都市部でも圧倒的な存在感を放つ、その小さな町。私の桃源郷であり、彼の故郷であるその場所。
あたしはあの場所に生きる生徒である。希望ヶ峰学園の、生徒である。
けれどもきっとあたしは、誰かの希望になれるような人間ではない。あたしはこの男のようにはなれない。あたしはきっと、彼の言うところの「ツマラナイ」存在のままだ。
それでもいい。構わない。


「たとえあんたにとって、あたしが無益で無駄な存在だったとしても、ツマラナイままだったとしても、それでもあんたの存在はあたしの希望だった」


あたしは、この男と一緒に居過ぎてしまった。この男があまりにも強くてご立派なものだから、あたしはすっかり安心してしまっていたのだ。
その結果が、このザマだ。
彼のようになるために、彼をその身に宿した「ハジメ」のようになるためにこの時間に深入りしたにもかかわらず、あたしは結局その目的を果たすことができなかった。

彼女の概念に勝利するためなら、彼女を現実へと引き戻すためなら、この体さえも差し出すつもりでいたのに、あたしは……この身が惜しくなってしまっていた。
眠り続ける彼女を現実へと引き戻すこと。勝ち逃げした彼女に叩きつけるべき逆転勝利。
そのためにあたしは狂人にさえなっていたというのに、寸でのところで常人の心地を思い出してしまった。

こいつのせいだ。何の未練もなくあたしを譲り渡すことなどできなくなってしまったのは、紛れもなくこいつとの時間が原因であった。
けれどもそうした事実をもってしても、あたしは彼を憎むことができなかった。
あたしの願いを頓挫させたこの男に憎悪めいた感情を向けるには、もう遅すぎたのだ。あたしは随分長く彼と過ごしてしまった。彼のその横顔を、見慣れ過ぎてしまった。

「あたしの負けよ、イズル」

彼との時間はそれなりに楽しかった。
ファンタジーやSFを軽々と凌駕した存在である彼との会話はそれなりにわくわくした。
あたしのままで生きたいと思わせてくれた彼のことが、それなりに好きだった。

「それはどうでしょうか?」

「?」

けれども彼は、昨日のあたしの言葉を真似るようにそう告げて、顔を歪めた。
その歪んだ表情のままに、彼は不思議なことを語ったのだ。

「貴方が、貴方の親友とやらになった方がいいのではないかと思ったこともありました。そうすれば、造られた存在が僕を含めて二人になりますからね。
僕は他者からの評価に頼らなければ価値を得られないような存在ではありませんが、客観的な証明というものが必要になるのであれば、その役には貴方が適任です。
僕の価値、僕の実力を、僕と似た存在になった貴方に保証してもらえたなら、僕はこの世界でそれなりの信頼を得られるでしょう。……けれどもそれはきっと、ツマラナイことだ」

夕陽が更に明るさを増した。観覧車の中腹に差し掛かったゴンドラは、風を受けてより大きく揺れている。
しかし、もう彼の目には驚きなど映らず、その顔が歪むこともなかった。

「貴方が僕に似ることも、貴方が記憶だけの大人しい存在になることも、それによって僕のこの無益で無駄な時間が終わることも、全て、全てツマラナイ。
そのようなツマラナイ予測に終わる未来を、僕は望もうとは思いません」

「……」

「貴方は、……貴方なら、もっとオモシロイことが起こせるはずです。楽しむ才のない僕とは違って」

彼にこのようなことを言われて素直に喜べる程、あたしはお気楽な人間ではなかった。
あたしのどんな言葉にも、無機質な相槌を打つか、ツマラナイと返すだけであった彼の口から、あたしなら「オモシロイことが起こせる」などという言葉が飛び出したのだ。
少しばかり歪んだ顔のまま、彼はそうした歪んだ言葉を紡いでいる。あたしは彼の言葉の歪みに気付いているけれども、その歪みの意図がどうしても解明できない。
分からないからあたしはただ、不穏な心地で彼の次の言葉を待つしかない。

「そのために、貴方はある行動に出なければいけない」

「ある行動?」

ゴンドラは揺れ続けている。あたしは吐き気を覚える類の眩暈を覚え始めている。

「できるだけ早く、希望ヶ峰学園から出て行ってください」

2019.7.18
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