B9-1001

廊下を渡り、階段を上り、そうして教室の扉を開けたあたしは、肩を震わせて笑うこととなった。
どうやら希望ヶ峰学園の生き残りは、この校舎の細部に至るまで「完璧に再現」することに執心していたようであった。
そうでなければ、あのような無益で無駄なものが置かれているはずがない。
教室の隅にぽつんと佇む、物置場と化しそうな机の存在など、本来なら失くしてしまうべきものであるはずなのだ。

それなのに、再興した希望ヶ峰学園にも、あたしの親友のための席がある。
この机は今も健気に彼女を待っている。

「……」

その机の前に歩み寄り、美しいその木目に指先で触れようとした、その時だった。

「それ、俺が苗木に頼んで置いてもらったんだ」

「僕は確かめようと思います。希望と絶望、どちらが僕にとって予想が付かないのか」

そのような言葉が、神のような力を持つ彼の口から発せられてしまうと、本当に何か大きな、大きすぎる「神の意思」のようで、
この世界は今から、この男という人の形をした神に裁かれようとしているのではないかとさえ思われて、
心を震わせることをしない彼なら、とても無慈悲に、公平に、残忍に、敗者へと終わりを与えてしまうのだろうと、そうしたことが簡単に予測できてしまって。

「僕は学園の需要とハジメの望みにより生まれた「いるはずのない存在」です。
あの学園には、僕の持つあらゆる才能を利用したがっている人間が大勢います。僕は立場上、それらの需要に逆らうことができません。
逆らおうとする「意思」などというものは、僕の造り手にしてみれば邪魔なものでしかなかったのでしょう」

「……」

「あの学園は近いうちに手酷く荒れます。おそらく僕が荒らすことになるでしょう。
これは決定事項です。貴方は僕を止められない。貴方の執着した希望ヶ峰学園は僕の手により壊され、当分の間、戻ってこない。だから、出ていった方がいい」

……けれども彼は、イズルは、その裁きの舞台となる希望ヶ峰学園からあたしを追い出そうとしている。いや、その裁きの場からあたしを、逃がそうとしている。
予めこうやってあたしに警告をすることで、あたしに、彼の断罪から逃れる猶予を与えようとしている。

「僕は学園の指示をこれまで何でも受けてきました。貴方には告げるなと言われている「指示」の中には、おそらく貴方が「非道」「残忍」と感じるであろうことも含まれています。
この生き方に疑問を持ったことはありませんでした。そのように造られているのだから、ハジメが望んでいるのだから、当然だと思っていました。……貴方に会うまでは」

『それはどうでしょうか?』
先程、彼は昨日のあたしの言葉を真似るようにそう告げてきた。そして今も、あたしの言葉をなぞるような発言ばかりしている。
心を揺らすことを知らないはずの彼から、心を揺らすことに慣れ過ぎたあたしの言葉が、あたしのそれにとてもよく似た温度で放たれている。

『あんたのように、あたしはなってみたい』『あんたの存在はあたしの希望だった』『あたしの負けよ、イズル』
あたしは思わず口を押さえた。つい数分前に自らが発した音の粒子を見ることが叶うなら、それらを一つ残らず搔き集めて飲み下してしまいたいと思った。

「ハジメよりは優秀であった貴方は、けれども彼と同じ存在になりたがっていましたね。
絶対に対話が叶わない相手であるハジメ、彼に似た歪みを持つ貴方との時間は、そういう意味で少しは有意義でした。最初はそのような認識でしかありませんでした」

「待ってイズル」

「そしてハジメに似ているはずの貴方は、彼では在り得ないようなことを言いました。「この才能も心もあたしだけのもの」と。「あたしの生き方はあたしが決める」のだと。
その無益で無駄な遠回りを好む思考は、理解し難いものでした。奇妙で、不可解で、とてもオモシロイものでした」

「待ってよ、やめて」

「もしハジメが貴方のようであったなら、と考えたこともありました。それが叶わないならいっそ、僕が貴方のようになれたなら、と思いさえしました」

けれども、遅い。覆水は盆に返らない。彼の奇妙で不気味で悲しい模倣はもう止まらない。あたしでは止めようがない。
驚愕、混乱、動揺、そうしたものに心臓を潰されそうになっているあたしには、彼の喉から淀みなく零れ続ける言葉達を止めるだけの力がない。
まるで予め用意されていたかのようなこの言葉、きっとこれを告げるために学園の外へ出てきたのだと思しき、彼個人の「想い」は、きっともう誰にも止められない。

「僕は貴方の生き方に倣ってみようと思いました。僕の才能を使うべき場面を、僕自身の意思で選んでみることにしたのです。
希望か、絶望か。その答えに僕自身で辿り着くことができたなら、僕も貴方のように……いえ、貴方程とまではいかずとも、少しはオモシロイ人間になれるかもしれない」

まさか、と思った。在り得ない、とも思った。
今までのことが全部冗談であればいいのに、なんて、彼がそのような面白いことをできるはずがないのに、そのようなめでたいことを考えてしまった。

「僕は貴方から教わったことを活かして、僕の未来を僕の意思で創ろうとしています。
これは僕の造り手である学園に対する反逆であり、その舞台は混乱を極めるだろうから、貴方に逃げることを指示している。……この意味、貴方なら分かりますね」

あたしは震える声で「分かるわ」と答えた。彼はいつもの仏頂面に戻り、涼しい声音で「そうですか」と相槌を打った。
黒いワカメの奥、赤い眼球は真っ直ぐにあたしを見つめていた。その眼球へと懇願するように、あたしは口を開いた。

「でもあたしはあたしのしたいように生きるのよ。あんただって知っているでしょう。あんたに何を言われようとも、あたしはあの学園を去るつもりなんかないわ」

彼は、心を揺らすことを知らない彼は、知らなかったはずの彼は、自分がどれだけ惨たらしいことを言っているのか理解していないのかもしれない。
今、このタイミングであたしにあの学園を去れと命じることはすなわち、
「親友を現実に引き戻すことを諦めろ」「イズルを置き去りにしろ」という、二つの惨たらしい命令を下しているのと同義であるのだ。
そのようなこと、とてもではないがおいそれと承諾できるものではなかった。彼ほどの才能を持たないあたしだって、拒否の権利くらい認められて然るべきだ。

「……そうですか。では貴方が僕の言うことを聞けるようにしましょう」

ひゅう、と情けない音がした。あたしの喉の手前の方で震えたその呼吸音は、今のあたしの恐怖と緊張を如実に表していた。
まさか、ファンタジーやSFも顔負けのとんでもない才能を持ち出して、あたしを屈服させにかかろうとしているのではなかろうか。
そんなことをされては、普通の人間であるあたしはひとたまりもない。あたしが学園から認められたたった一つの才能だけでは、この男に敵うはずもない。

あたしは思わず身構えた。神経を研ぎ澄ませ、瞬きを忘れて彼をじっと睨み付けた。
彼が物理的な強硬手段を取るのか、精神的な洗脳めいたことを行うのかは分からなかったけれど、とにかく彼の仕掛ける何かに備える必要があると思ったのだ。
けれども彼はあたしに物理的な攻撃を仕掛けてくることも、おどろおどろしい洗脳めいた文句を連ねることもしなかった。
代わりに彼は、最早見慣れてしまった「顔の歪み」を露わにして、その赤い眼球を細めて、そして。


「たとえ学園がありのままの貴方を認めずとも、貴方の存在は僕の希望でした」


一番上まで上ったゴンドラの窓に、あまりにも眩しい夕陽が差し込んでいた。
その強烈な逆光をもってしても、彼がどのような表情をしているのか、今のあたしにはよく、とてもよく分かる。分かっている。分かってしまっている。

「僕の才能はいずれ貴方を殺すように出来ています。けれども僕の心は貴方を生かしたがっている。僕の心を、僕の希望を、守ってくれませんか」

その歪んだ顔のままに、彼は「どうです、これで拒めなくなったでしょう」なんて、まるで普通の男の子のように「笑う」から。
困ったように、照れたように、縋るように、祈るように、微笑まれてしまった、ものだから。

「嫌い。……嫌いよ、あんたなんか」

「ええ」

「見損なったわイズル! あんたまで、あんたのような完璧な人間まで、自身の希望とか価値とかを他者に求めるのね。
そんなことをしていたら自滅するわ! あたしはそうやって自滅して目覚めなくなった人間を知っているの。あんたにまであんな風になってほしくないのよ!」

彼はあたしの怒声を浴びても尚、笑っている。笑いごとではないのに。そんな笑顔で、誤魔化されてなどやらないのに。

「あんたの価値とか希望とかのためにあたしが邪魔なら殺せばいいじゃないの。あんたはそれができる人間でしょう。
こんな奴に押し付けないでよ。こんな奴を生かそうとしないでよ。こんな奴に、あんたの心とか希望とか、そんな大事なものを委ねたりしないでよ。
あんたはあたしの存在なんかなくたって、そのままで、十分に……」

あたしは、あたしが彼に希望を見出したことを棚に上げて、歪んだ表情のままにまくし立てた。
彼の「顔の歪み」は彼のぎこちない笑顔の表れであったけれど、あたしのそれは本当に「歪み」であった。それは泣き出す寸前の、駄々っ子のような顔の歪みであった。

「それでも、貴方は僕の言う通りにしてくれる。貴方はそうした人だと分かっています。
だからこそ、貴方の親友も貴方に現実を託したのでしょう。貴方は不本意でしょうけれど、少なくとも貴方といて、その親友は救われたことでしょうね。今の僕と同じように」

いよいよみっともなく泣き出したあたしの涙を、彼は拭わない。そんなことのできる人ではないと分かっている。
ああ、でも分からないままの方がよかったのかもしれないと、今では少し、悔いてしまう。

「僕の負けです、香菜

そうして彼はもう一度、あたしを呪う。
あたしの言葉であったはずのそれを、あたしよりもずっと重たく切実な心地で使ってくる。

「貴方は僕の希望です」

あたしはものの見事に、呪い返されてしまう。

2019.7.18
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