B7-111

「カムクラくんのこと、好きだった?」

希望ヶ峰学園の本校舎、その目の前に車が横付けされ、完全に停止したのを見計らって扉に手を掛けたあたしを、苗木はそんな言葉で呼び止めた。
あたしはドアの引手を指でつるつると撫でながら、小さく笑った。

さて、この青年はあたしに何と答えて欲しいのだろう。
あたしが、今から会おうとしている相手に危害を加えないことを確かめようとしているのだろうか。それとも単なる純粋な好奇心から来た問いだろうか。
どちらにしても質の悪いことだとあたしは思った。だから満面の笑顔で振り返り、苗木を最も安心させられるであろう、模範解答を告げることにした。

「ええ、そうね。生きていることを知らされて、こうして駆け付けたくなってしまう程度には、きっと彼のことを想っていたのだと思うわ」

「……うん、そうだよね」

けれども苗木はあたしの答えに安心した様子を見せなかった。むしろ、よりあたしへの警戒を強めているかのようにさえ見えた。
この前向きでお人好しな男に限って、イズルという名前を餌にあたしを釣りにかかっているなどということはないはずだけれど、その反応は少しばかり気になった。

「別にあたしは今更、イズルと想いを通わせようなんて思っている訳じゃないのよ」

「あれ、そうなんだ」

「当たり前でしょう。あいつが会いたがっているっていうから、仕方なく来たのよ。ついでに一つだけ、尋ねておきたいこともあるし」

「……そうなんだ。答えてくれるといいね」

あたしはぎょっとした。
それは確かにいつもの苗木の声で、その相槌には何の含みも込められていないはずなのに、何故だかその言葉が妙に恐ろしく感じられてしまった。

「……」

答えてくれないはずがない。彼が言葉を濁したことなど一度もなかった。
あたしが何を尋ねても、あのいつもの仏頂面で淡々と、事務的に、答えてくれるに違いないのだ。

「僕がこのように発言する理由があるとするならば、それは、僕の有しているハジメに関する情報、その中身を置いて他にないはずでした。
ハジメは貴方に憧れ、貴方を羨み、貴方を恨んでいた。そんな貴方が他の誰かに作り替えられるのは我慢ならない。それはハジメの思いであって、僕の思いではない」

「……」

「ですが今、僕はハジメの記録を、ハジメが持っていた貴方への執着の情報を読んではいませんでした。
にもかかわらず、僕は貴方の迷いが迷いのままであるようにと意識した発言をしています。……僕は、そのような意思を持たない構造をしていたはずなのですが」

彼が顔を歪めている。
感情を表に出すことに慣れ過ぎたあたしの目には、その顔の歪みが「恐れ」の表現型であるようにも見える。
けれども「緊張」の表現型であるかもしれないし、「混乱」「動揺」「不安」のそれである可能性だってある。つまるところ、分からないのだ。

ただ、あたしの憶測をこの黒いワカメに働かせることが許されるのなら、あたしの直感と驕りのままに判定を下してもいいのなら、
……彼のこの「顔の歪み」は、恐れも緊張も混乱も動揺も不安も表していない。
その歪んだ表情から紡がれる、今まで聞いたこともないような声、いっそ温もりを感じさせるような穏やかな音が、そうした重たく黒い感情の全てを悉く否定してくる。

あんたがそんな顔をするなんて、変だ。あんたがそんな声音で喋るなんて、変だ。
だってこれじゃあまるで、あんたが笑っているみたいに思われてしまう。
あんたの人格は「笑える」ように造られていないから、仕方なく顔を歪めるほかになくなっているのだと、そんな風に思い上がってしまう。

「僕もどうやら、そのままの貴方に執着を覚えているようです」

僕「も」だなんて、まるであたしが彼に執着を覚えていることを、ずっと前から分かっていたかのような言い方をする。
黒いワカメの隙間から、赤い眼球が真っ直ぐにあたしを見ている。

「それはどうかしら?」

「?」

あたしは声量をぐっと落として彼へと向き直った。
この学園の壁にも窓にも床にも天井にも、どこにも音を漏らすまいと意識して、彼のワカメをそっと掻き分けて、耳元でクスクスと笑いながら、口を開いた。

「あたしが本科への移動を快諾しなければ、あんたはあたしが応えるまで、放課後での時間を此処で過ごすことになる。
ご多忙なあんたにとって、あたしと交わすツマラナイ会話とこの無益で無駄な時間はとても楽で、貴重なものでしょう。
あんたは、あんたの自由な時間を少しでも長く伸ばすために、都合の良い言葉ばかり選んで、あたしに誘導をかけているんじゃない? 『もう少し迷っていてくれ』ってね」

「それは違いますね」

彼は随分と大きな声でそう言った。
それは私への返事というよりも、もっと遠くの大きなものに向けた「宣言」のように思われた。

「……へえ、そうなの」

その声量の意図するところが分からないままに相槌を打つと、彼はあたしのノートを勝手に広げて、あたしのシャープペンシルを勝手に握って、何かを書き始めた。
小さな、とても小さな字だった。あたしに、あたしだけに何かを伝えようとしているということが分かったので、あたしは心臓を跳ねさせながらも、演技に徹した。

「ちょっと! それ、買ったばかりのノートなのよ。落書きしないで」

「よく似ているでしょう? 的外れな推理を得意気にしてのける貴方の間の抜けた顔が、よく再現できていると思いませんか」

「あんたがそんな風に喧嘩を売れる人間だったとは知らなかったわ」

あたしは憤り、呆れた。そういう「ふり」をしておいた。
彼は相変わらずの仏頂面だったけれど、そのノートをあたしの方へとそっと寄越した。

「……画力が高すぎるのが、また、癇に障るわね」

当然のことながら、そのページには「画力の高すぎる絵」も「あたしの似顔絵」も描かれていなかった。
胡麻の粒ほどの小さな字で書かれた、たった一行。彼という人間を象徴するかのような、あまりにも美しい活字がそこに並んでいた。

『僕を学園の外へ連れ出してください。できる限り、合法的に』

……このご立派で完璧な超高校級の希望様は、どうやら学園の許可がなければこの隔離された町の外へ出ることも叶わないらしい。
難儀なことだ、と思った。悉く自由を奪われているこんな存在に、どうしてハジメとやらはなりたがったのだろう、とまた考えてしまった。
けれども、それをこの黒いワカメの口から聞き出すことは最早できそうになかった。
だって彼は、もうあたしを本科へ誘い込むための切り札を持っていない。あたしがあたしのままであることを彼が望んだ時点で、あたしの勝利は既に決まっている。

「……あたし、遊園地に行きたいわ」

「遊園地?」

「そうよ、明日の放課後に行きましょう。付いてきてくれるわよね? あんたがあたしを楽しませることができたなら、お望み通り本科とやらに入ってあげる」

だから、そんな彼に今のあたしができることがあるなら、きっとこれくらいのものだ、と思った。
彼の懇願を叶えるために、あたしらしくない誘いを持ちかける、ただそれだけ。

けれどもたったそれだけの誘いが、これまでのあたしの高校生活の中でいかに異質でイレギュラーなものであるのかは、あたしもこの男もよくよく分かっている。
77期生や78期生の本科の連中から何度も遊びや食事の誘いを受け、その全てを拒否し続けてきたこのあたしが、
あろうことか、この黒いワカメを誘って遊園地に行こうとしているのだ。

この異常な誘い、常軌を逸したあたしの言動のおかしさは、彼もきっと十分に認めている。
認めた上で、そうした異常な行動を選ばせたあたしに恥をかかせない選択をしてくれると、あたしは何故だか信じてしまっている。
彼ならきっと、一呼吸置いたのちに顔を歪めて「ではそのように学園へと掛け合ってみましょう」と答えるはずだと、あたしはもう確信している。

そういった具合に、そこからはあたしの予想していた通りに事が運んだ。
彼はすぐに教室を出ていき、15分と経たずに自らの外出許可を得て戻ってきた。
「ではまた明日」なんて、友人みたいな口調でそう告げる仏頂面の男が再び教室を出るのを見届けてから、あたしも普段通りに1日を終えた。

そうして翌日の放課後、あたしはおそらく、世界一「遊園地」に相応しくない高校生を引き連れて、都市部にある大型の遊園地に向かったのだ。

2019.7.17
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