B6-110

見覚えのある大きな建物、小さな町とも呼べそうなその空間が遠くに見えた。
空は曇ったままで、車の窓を開ければ相変わらず雨は嫌な臭いを放っていて、やはり地続きになったこの場所には絶望の影が残り過ぎているままなのだけれど、
それでもあの町がこの中央にどっしりと構えていれば、大丈夫なのかもしれない、何とかなるかもしれないと、そういう風に思われてしまうのだから、不思議だ。

希望ヶ峰学園をそこまで妄信していなかったはずのあたしでさえ、こうなのだ。
この小さな町を愛していた者達にしてみれば、この学園が再興したことはまさしく「希望の復活」とでも呼ぶべき素晴らしい事象に違いなかったのだろう。
事実、隣で微笑む苗木はとても誇らしそうであった。あたしはそんな苗木に祝福の言葉を贈るべきかどうか少しだけ悩んで、……結局、無言で押し黙ることとなってしまった。

この町の中に、あいつがいる。

黒いワカメと過ごす奇妙な放課後は、それからもしばらく続いた。
あたしはいつの間にか現れている彼と一緒に予備学科の教室を出て、屋上や訓練場や中庭や温室など、適当に散策しながら会話を重ねた。

もっとも、それは「会話」と言っていいレベルのものであるとは言えないものだったかもしれない。
彼は事務的に淡々と、本科のことについて説明するだけ。あたしはそれに対して事務的に、拒絶の意を示すだけ。彼も事務的に、あたしの拒絶に難色を示すだけ。
そうした、あまりにも単調であまりにも無益な時間だった。あたしの時間というのはそうした「無益で無駄なことばかりで構成されている」のであった。
そうした事実をあの歪んだ顔で指摘した彼は、その「無益で無駄な」時間に、もう何日も、何日も、付き合っていた。

そんな二人の間には、音がない時間の方が長く流れていたに違いない。
幸い、あたしは沈黙を苦痛とするタイプの人間ではなかったから、そのことで気まずさを感じたりはしなかった。

「あんたは……中にいるっていうハジメはともかくとして、あんた自身だけ見れば、強くて、揺らがなくて、ご立派だから、話していてとても安心できるわ」

その沈黙の中で、あたしはたまに、こういう他愛ない話を、他愛ない想いの開示を為す。
あたしの考えていること、あたしの捻くれた認識、そういうものを黙する彼の横顔に浴びせるのだ。

「……そうですか。そのような才能は特に学園や社会に益を生むものではないので、僕には用意されていないはずなのですが」

「そりゃあそうよ、あたしが勝手に思っているだけだもの」

彼はあたしの話を遮らず、ただ静かに聞いている。
最後まであたしが話し終えたことを確認するかのような、普通の人間よりも1秒ほど長い間を置いてから「そうですか」と相槌を打つ。
その最後に「ツマラナイですね」と零すこともあれば、そのまま沈黙を貫くこともある。あたしの考えや想いへの彼の認識など、その程度だった。

あたしはそのことにほとほと安心していた。あたしが何を言っても揺らぐことのない彼の在り方を好ましく思っていた。
この、下らない事務的なやり取りの合間に紡がれる、少しだけ優しい音の遣り取りはそれなりに心地が良かった。心地の良いものだと、あたしの心はそのように覚えてしまった。
……それが、よくなかったのだろう。

「僕のようになってみたいと言っていましたね」

ある日、彼はあたしを予備学科の教室から連れ出すことなく、そう告げてあたしの前の席に座った。
椅子の向きをくるりと変える、その仕草はあまりにも普通の高校生じみていて、何故だかとても愉快に思われたことを、今でも覚えている。
その愉快な心地が、次の彼の言葉によって瞬時に凍り付いたことだって、よく覚えている。

「貴方が本科に入るなら、その案件、学園長に掛け合ってみますよ。如何ですか?」

あたしは瞬きを忘れた。息が詰まる心地であった。それは願ってもないことであった。あたしの心からの望みであった。

本科に入れば、それが叶う。あの馬鹿な親友の人格をあたしに植え付けて、あたしはあいつになることができる。
彼女は現実にある技術に敗北して、現実を、このままならない現実を生きることを強いられる。
あたしという現実が、彼女という概念に勝利できる。
そのための代償としてあたしの身体が必要なら、喜んで差し出すだけの覚悟と狂気が、あたしにはある。あるはずだ。確かに、あったのだ。

「……」

……つい数週間前のあたしなら迷わずその誘いに乗っていたことだろう。
これまでの事務的なやり取り、無益で無駄だと思われていた放課後の時間は、彼からこの言葉を引き出すために積み重ねられてきたのだと、
そうした確信に微笑んで、あたしの勝ちだと得意気に肩を竦めさえして、その言葉を待っていたのだと高らかに告げていたに違いない。

けれどもどうしたことだろう。実に情けないことに、信じ難いことに、あたしは躊躇っている。もう10秒もこの沈黙を割れずにいる。息が、できずにいる。
あたしの心はいつしか変わってしまっていた。彼女はなくあたし自身を大事にしたいという心地が、生まれてしまっていた。
彼女の概念に勝利するためなら、彼女を現実へと引き戻すためなら、この体さえも差し出すつもりでいたのに、あたしは……この身が惜しくなってしまっている!

それは他でもない、こいつのせいだ。こいつと、話をしてしまったからだ。
こいつに、世界を広げられてしまったからだ。こいつの傍に、在り過ぎてしまったからだ。

過ごしやすく快適で居心地のいいこの学園、ただそれだけだったはずのこの乾いた生活。
彼女が望むなら、いや彼女が望まずとも、何の未練もなくいつでも席を譲ることができたはずのあたし。誰の記憶にも残らないよう努めて生き続けてきたあたし。
けれども数週間前、突如として湧いてきたこの存在のせいで、あたしはこの場所とこの時間への「愛着」と、彼自身への「執着」を覚えてしまっていた。
今のあたしはもう、何の未練もなくあたしを譲り渡すことなどできない。
だってこいつが、彼がいるのだ。彼があたしの前にいて、彼があたしを見ているのだ。

「冗談ですよ。いくら特殊な位置にいる僕でもそのような権限は持っていません」

「……よかった」

喉からすかさず漏れたその音に、驚愕と絶望と吐き気が同時に混み上がった。自分が口にした言葉が信じられなくて、眩暈さえ覚えてしまった。
けれども一度吐き出してしまった本音は留まることを知らなかった。覆水は自ら盆に返ってなどくれないのだ。
「冗談でよかった」「本当によかった」「結局あたしは自分のことが一番可愛いのね」「この体をあいつに譲り渡すだけの覚悟なんかなかったのよ」と、
安堵と自責と後悔と懺悔を、あたしの鼓膜に刷り込むように呟き続けた。

「それは生存本能というものでしょう。貴方が人間である以上は当然の思考だと思いますが」

みっともない、情けないことだと思った。
彼ならそんなあたしの言葉に対して「ツマラナイ返答ですね」と眉をひそめて告げてくれるに違いなかった。
けれども彼はいつもの仏頂面で、その情けなさを、あたしの不甲斐なさを肯定してはくれなかった。彼はあろうことか、あたしのツマラナイ返答を擁護しにかかってきたのだ。

「じゃあ、あんたの宿主はもう人間を辞めてしまったのね。それだけの覚悟だったんだわ。
……人間として生存することをやめてまで、ハジメは何になりたかったのかしら。彼が本当に欲しかったものは、何だったのかしら」

「……」

「ハジメが羨ましい。欲しいものに対する犠牲を迷わず差し出すことのできる、その男が」

彼は、いつもの間を置いた。
他の人よりも1秒程度長いその独特の「間」を、あたしはそれなりに気に入っていた。
けれどもこの時は、その間は1秒に留まらなかった。3秒、5秒経っても、彼は口を開かなかった。
どうしたことだろう、とあたしが眉をひそめかけた頃、彼はようやく口を開いた。けれどもそれだって、ほとほと彼らしくない、僅かな揺らぎを孕んだものであったのだ。

「一応、その頃の記憶も僕は引き出すことができます。彼が欲しがっていたものが何であるのか、その情報は僕の中にあります。
ですが、それを貴方に教えるつもりはありません」

「どうして?」

「教えたなら貴方は、覚悟を決める術を覚えてしまうかもしれません。そしてそのまま、貴方の親友に貴方自身を譲り渡すことを受け入れてしまうかもしれません」

あたしは先程の驚愕と混乱が再び熱を持ち始めるのを感じていた。
あまりのことにしばらく言葉を発することができなかった。おそらくは、息をすることさえ忘れていたに違いなかった。
やっとのことであたしは「変だわ」と返した。彼は黒いワカメの隙間から覗く赤い眼球をこちらに向けて「何がです」と尋ね返してきた。あたしは震える声で「だって」と続けた。

「その言い方、まるであんたが、あたしにあたしのままでいてほしいって思っているみたい」

「成る程」

こいつは、この黒いワカメは学園の指示で此処にいるはずだ。彼はあたしを本科へと入れなければならないはずだ。
それなのに、どうしてそんなことを言うのだろう。どうしてそんなことを思うのだろう。

「オモシロイ」

どうして彼は、学園の意思ではなくあたしの意思に同調しているのだろう。

2019.7.17
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