B5-101

「あたしは、あたし自身の才能には興味がなかったの」

「じゃあ君は、何に興味を持っていたんだい?」

あたしの興味。そんなの、あたしが楽しく生きることの他にあるはずもなかった。
そのためには安定した生活が必要だ。確固たる自尊心もあった方がいい。才能も、社交性も、努力も、結局はあたし一人のためだけに振るわれていたに過ぎないのだ。
誰だって自分のことが一番可愛いのだ。誰が誰を想おうとも、誰が誰を愛そうとも、そんなものは人の何をも変えられはしない。
たとえそれが「才能」とかいう、膨大な力を持つものであったとしても、その才能自体があたしの生き方を楽しくしてくれるはずもない。あたしを救ってくれるわけでもない。

「明日、雨が降ること」

「えっ……、雨って、あの雨かい?」

あたしは窓の向こうに広がる曇天を睨みつけた。嫌な臭いのする雨がガラスを叩いている。今日は雨である。今日は、雨である。
明日もそうであるのだという確信。それを、あの馬鹿は最期まで夢見ていた。

「ええ、そうよ。『私は雨が好きだから、明日も雨だったらいいなって思ってしまうの』」

「……」

「『でも明日の天気なんて、プロの気象予報士さんでも正確には分からないでしょう?
だからこそ、その確信が私の中にあればいいなって思う。明日、雨が降ってくれるなら、それが私に分かるなら、きっとそれが一番いい。
そうして、予定調和として訪れた、静かで冷たい雨を喜びながら、お気に入りの色の傘を曇天に咲かせるんだよ。素敵でしょう?』」

声のトーンを上げて、歌うような調子でそう答えてみた。
あたしは滑舌があまりよくないから、強く意識して発声しないと「私」が「あたし」になってしまうのだった。
苗木はそんなあたしの気取った声音に戸惑いながらも、深く追及することはせずに、「あたし」が語った「私」の気持ち悪い「夢物語」を、穏やかな微笑みと共に許した。

「私」は雨を喜び雨を望む人間だった。「あたし」は雨を疎み雨を避ける人間だった。
「私」は日傘も雨傘も、とにかく差すのが好きだった。「あたし」は傘なんて面倒なもの、できることなら携帯したくはなかった。
「私」は、この曇天が続く空の下にいない。「あたし」は、この曇天にうんざりしながらも生き続けている。
この皮肉を、もし「私」が生きていたならどんな風に歌ったのだろう。

「学園はどうやら、貴方の才能を強く求めているようです。
僕の才能で貴方の役目を肩代わりすることも可能なはずなのですが、生憎、僕の身体は一つしかない上に、学園側が僕にさせたいことは他にも沢山あるようなので」

放課後の廊下をイズルと一緒に歩いていた。
「あたしを本科へと勧誘する」という任務を与えられた身として、彼がこれから何かしらの行動を起こそうとしているのだろうということくらいは察しが付いた。
あたしはというと、「こちらに害を為すようなことが起こらない限りは、この茶番に乗っかってみよう」という心持ちであった。
……勿論、彼にしてみればこれは「茶番」などではなかったのだろうけれど、当時のあたしは「何が何でも本科には入らない」という意思を固めてしまっていたから、
誰に何を言われようと、彼にどのように唆されようとも、あたしが揺らぐことなど在り得ないのだと、この時は本気でそのように考えていたから、仕様のないことだったのだ。

入学してからというもの、あたしがこの廊下を誰かと共に歩いたことなど一度もなかった。
その「誰か」はあの「超高校級の夢想家」以外の誰であってもいけないのだと、つい先日まで頑なにそう思っていたからだ。

けれどもあたしには希望が与えられた。
「隣に彼女を据える」のではなく「あたしが彼女になる」ことで、彼女をこの現実へと縛り付けることが叶うかもしれないという、
ファンタジーやSFも真っ青の、非現実的な、けれども現実に存在する確かな希望だ。
その希望はあたしを大胆かつ陽気に変貌させ、このようなワカメと共に廊下を歩かしめるに至った、という次第なのであった。

「つまり学園は、あたしの才能を使って何かをしようとしているのね」

「ええ、ですがそのためには貴方の才能をもっと磨く必要がある」

彼は階段の踊り場で足を止めた。あたしが洋書を置き捨てたその踊り場には大きな窓があり、そこから本科の校舎がとてもよく見える。
HRと昼食時くらいにしか用いられないその教室の片隅に、物置場所と化している「空の机」があることだって、あたしはずっと前から知っている。

「本科の学生に知り合いはいますか?」

「あの教室の皆はあたしを見つけると気さくに話しかけてくるの。きっとあの「空の机」が、あたしのための席だと思っているのね。
よく遊びに誘われたり食事に呼ばれたりするけれど、参加したことは一度もないわ。それを「知り合い」と呼ぶのなら、あたしは既に本科にいる全員と知り合いよ」

普通の人が聞けば、人付き合いの悪さと淡白さに呆れかえるところなのだろう。けれども彼は眉一つ動かさなかった。
「そうですか」と、申し訳程度の相槌を打つのみで、そこには一切の感情が宿っていなかったのだ。
おそらく彼は、私の言葉から「情報」だけを拾っているのだろう。その情報に対して彼自身がどう思ったかというのは、彼にとって全く大事ではないところなのだ。

「では訂正しましょう。友人はいますか?」

「……いるわ、77期生に一人だけ。何もないところでよく転ぶ、白いワカメよ」

「相変わらず、失礼な形容をするのですね」

「でもあいつ、喜んでいたわよ。「君みたいな立派な人間が、ボクみたいなゴミクズのためにニックネームを考えてくれたなんて!」……とか言っていたわ」

わざと大仰な声音で白いワカメの発言を再現してみる。隣の彼は表情一つ変えないままに「奇妙な人間ですね」と面白みのない相槌を打つ。
あたしはそんな彼の横顔を腹の中で笑いながら、階段の踊り場の窓に手を当てて、本科の校舎で騒いでいる連中をじっくりと観察してみる。

竹刀を常に携えた凛々しい眼鏡姿の少女。いつも立派なカメラを構えている紅色のボブヘアーの女子。可愛いリュックサックを背負った、欠伸の絶えない眠そうな女の子。
小さな動物を両手で抱き上げて喜ぶブロンドヘアーの上品な少女と、彼女よりもずっと多くの動物に囲まれている三白眼の男。その隣で騒いでいる派手な色の髪をした少年。
パリンと派手な音を立てて割れた窓ガラスの向こう側では、大柄な男と褐色の少女が、骨の一本くらいは容易く折れてしまいそうな程の乱闘を繰り広げている。

……個性の暴力だ、と思った。あんな台風の暴風域みたいなところには半日もいたくない、とも思った。
けれども彼等のような、突出した才能を持つ人間たちが、まるで「平凡な高校生」のように、普通に騒ぎ、普通に遊んで暮らしているその光景は、あたしを何故だか安心させた。
彼等だって人間なのだ。人間らしい生き物なのだ。人間の形をしているくせにほとほと人間らしくないのは、隣にいるこの黒いワカメだけで十分だった。

「……そうね、気持ちよくこの学園で過ごさせてもらっているから、その恩を学園にある程度返すことに不満はないわ。
でもそこへ至るまでの「磨き方」はあたしが決める。本科なんてところにいなくたって、あたしは学園を満足させられるあたしになってみせるわ」

「成る程、学園側の要求を呑む気は端からないということですね。……貴方のような強情な生徒に、学園はほとほと手を焼いているんですよ」

「生徒は教師に迷惑をかけるのが仕事みたいなものでしょう?」

あっけらかんと返してみる。彼は驚くことも呆れかえることも憤ることもせずに、ただ「そうですか」と相槌を打つばかりであった。
悉く事務的に情報の交換が為されていく。彼にとってはあたしの感情も、気分も、表情だって「情報」なのだ。そうやって無機質化して処理した方が「効率がいい」のだろう。
硬い大理石の上をセグウェイで駆け抜けているような心地であった。どんなにパワーを上げて走らせても、大理石には傷一つ付かない。
あたしが何を言ったところで、この黒いワカメの表情が変わることはない。彼はあたしの何にも影響されない。彼はあたしの何にも揺らがない。

「あたしは自分のことを他人に任せたくないの。この才能も心もあたしのもの、あたしだけのものよ。みすみす学園に渡したりなんかしないわ、絶対に」

けれども今のあたしには、「それ」がとても幸いで喜ばしいことのように思われてしまった。
他者の何にも揺らがず、他者の侵入を許さずただ完璧な姿でそこに在るだけの彼は、あたしがいつか目指した姿をしているのかもしれないと、思ってしまった。
だからつい、こんなことを零してしまったのかもしれない。

「どうして、それなりに優秀な奴に限って、自分の力の価値を他人に委ねようとするんだろう。
どうして、飽きっぽくて身勝手で、大切なものが他にも沢山あるような相手に、揺るぎない価値を付けてもらおうと躍起になっているんだろう」

「……」

「そんな風だから、無理をし過ぎて、自滅するんだわ」

すると彼は「溜め息を吐いて」「眉をひそめた」。
今までのどんなあたしの言葉も「情報」として処理するのみであった彼が、初めて発露した「感情」らしきものに、あたしは息を飲んだ。

「ツマラナイ考えですね」

本当につまらなさそうな表情でそう零すものだから、下らない思考を開示したあたしを責めるように、あたしの思想を窘めるように、眉をひそめるものだから、
あたしは驚きが冷めるのを待たずして、その狼狽を誤魔化すように笑い、ええ、ええそうでしょうねと肩を竦めてみせる他になかったのだ。

「言ってみれば、駄々を捏ねているようなものだから」

「駄々を捏ねる、ですか」

彼にしてみれば、幼子の所作であるようなそれを、高校生にもなったあたしが行っていることは違和感以外の何物でもなかったのだろう。
そのちぐはぐな生き様を揶揄うように、呆れるように、彼は顔を少しだけ歪めた。

「貴方は、貴方にとって無益で無駄なことばかりで構成されているように見えます。けれども貴方自身は、そうした遠回りをいたく気に入っているのでしょうね」

その「顔の歪み」に見えたそれが、彼の渾身の「笑顔」であったのだと、あたしはこの時、まだ気付くことができていなかった。
ただ、その歪んだ顔は随分と人間らしいように思われて、あたしもこの男もその魂の本質は同じなのだと思われて、少しだけ嬉しくなってしまったのだった。

2019.7.17
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