B4-100

「君はどうして、頑なに本科への移動を拒んだんだい?」

苗木は先程からあたしに質問してばかりである。
あたしが彼に問いたいことなどほとんどなかったし、彼は沈黙が苦手なようであったから、何か会話を続かせようとして必死に問いを編んでいるのだろうけれど、
その質問によって自らの中身を暴かれようとしているこちらの心境としては、当然だが……穏やかでいられるはずもなかった。

「つまらなさそうだったから」

けれども真実を隠すことは得意である。その建前の中に多少の本音を織り交ぜて話しておけば、相手は容易く信じてくれるのが常である。
彼の横顔が「そうなんだね」と困ったような柔らかさを呈する。この心優しい青年にはどうやら、あたしの言葉の真偽をしつこく追及するだけの度胸はないようであった。

「たとえばあたしが「超高校級の翻訳家」だったとしたら、あの学園はあたしに、最低限の一般教養と、翻訳の特訓……言語関連の勉強しかさせてくれなくなるわけでしょう?」

「そりゃあ、そういうところだからね。だからこそ、才能を引き伸ばすための理想の空間として、希望ヶ峰学園は評価されていたんだ」

「あたしはそういうのが嫌だったの。あたしの才能をどれくらいのペースで磨いて、どこを到達点にして、どんな風に活かすか、それはあたし自身が決めたかった」

そう告げれば、ほら、彼は満足したように微笑む。あたしも更なる追求から逃れて、窓の外の景色を眺めることに執心できる。
嘘は吐いていない。自分の生き方を自分で決めたいと思うのは自然なことだ。
そのためにあたしが本科で過ごすことを拒んだとして、それはただの「変わり者」「捻くれた子」として認識され、処理されるべきなのだ。
「彼女の空き枠を空き枠のままにしておくためだったのでしょう」なんて、ずけずけと真理を暴いてくるような恐ろしい存在が、
あの男の他にもいるなどということ、考えたくもなかった。

その翌日も、あたしはあの洋書を落とした。そうすれば奴が、イズルが来るのだと、あたしはすっかり学習してしまっていたのだった。
案の定、放課後になり、クラスメイト達が競うように廊下へと飛び出していった後の静かな教室に、彼は現れた。
あの洋書を手に持って、呆れたように小さく息を吐きながらあたしの席へと歩み寄ってきたのだ。

あたしはクスクスと笑いながらそんな彼を歓迎した。ようこそ、と笑ってやりさえした。
そうした尊大な態度を見せることで、あたしは昨日、こいつに抱いてしまった苛立ちや憤りや恐れをなかったことにしようとしていたのだった。

「昨日の話だけれど」

口火を切ったのはあたしだった。彼の差し出してきた洋書を受け取って、表紙を確認した。
当然のように何処にも傷は付いておらず、その不気味な現象を振り払うようにあたしは益々笑顔を作らなければならなかった。

「そういうように造られた、なんて、まるであんたがつい最近生まれたみたいな言い方じゃないの」

「ええ、そうですよ。僕の「これ」を人格と呼ぶのなら、僕はつい最近、僕の形を取りました。ハジメがそう望んだから、僕はこのようになったのです」

けれどもそうしたあたしの足掻きも虚しく、彼はいつもの仏頂面で、淡々とした声音で、あまりにも呆気なく、その不気味な現象を肯定した。
「敗北」の二文字があたしの脳裏でチカチカと点滅していた。現実の敗北、概念の勝利。
目の前にいるのは、現実的な存在ではなく、概念を具現化した存在である。
どうしてそのようなことが? 何かの事故で? それとも薬で? 学園は何か特殊な生命体を培養しているとでもいうのだろうか? 彼はその実験の、成功例だとでも?

……SFは嫌いだ。ファンタジーはもっと嫌いだ。現実を忘れさせようとしてくる全てのものがあたしは苦手で、嫌いだった。
だからあたしは、この「イズル」を嫌いにならなければいけなかったのだ。この恐ろしい存在、不気味な人間から、逃げ出さなければいけなかったのだ。
そのための手段なら、もう心得ている。この本を落とさなければいいだけの話だ。そうすればこの恐ろしい存在は、きっともうあたしの前に現れない。

「……あんたがそうなったことを、ハジメとやらは喜んでいるの?」

そう、逃げ出さなければならなかったのだ。あたしの脳は確かにそのような判断を下したはずであった。
けれどもあたしの心はそうしたあたしの意思に反して、するするとこの場を繋ぐための言葉を編み始めていた。
この気持ちの悪い現象にあたしの肌は粟立った。恐ろしかった。ただ、恐ろしかった。

この場所に留まり続けたところで、今から暴かれるのはこのワカメの内側にあるおどろおどろしいファンタジーやSFの類だけだ。
そう分かっていながら、それでもあたしは言葉を止められなかった。彼はそうしたあたしの、脳と心の乖離を知ってか知らずか、やはり躊躇うことなくするすると言葉を返した。

「さあ、分かりません。僕が知っているのは彼の情報だけで、彼の現在の感情は一度も見たことがありませんから」

「見たことがないって……そんなの、尋ねればいいじゃない」

「尋ねたところで答えてくれないのでは意味がありません」

「へえ、ハジメと喧嘩でもしたの?」

すると彼は不思議そうに首を捻った。黒く長く伸ばされたワカメが、夕陽を受けてキラキラと瞬きながら優美に揺れた。
「喧嘩などできませんよ」とその首の角度のままで彼が告げる。成る程確かにそうだろうと思った。この仏頂面の男が苛立ち、激昂するところなど、想像も付かない。
あたしはそうやって、自らの予測のつくところにこのワカメを置いて、安心しようとしている。
けれども彼は首の角度を戻し、ワカメを揺らしながらやはりあたしの予測のつかないところへ、あたしが敗北するしかない恐ろしいところへ自らを持って行ってしまう。

「彼はもういませんから。彼は、僕になってしまったから」

「……」

「僕は、ハジメの脳を作り変えることで生まれた新しい人格です。学園が僕を必要としていたから、何よりハジメがそれを望んだから、僕は完成したんです」

バサ、と乾いた音がした。それはあたしが手にしていた洋書が床に落ちた音であった。
彼は屈んでそれを拾い上げた。長く伸ばされた黒いワカメは、彼が膝を折れば床へと鮮やかに広がった。
あたしにはそれが、潮の香りのする黒い海のようにも、木の匂いのする墨汁のようにも見えた。

彼は膝を床に着けたまま、見上げるような体勢で本をあたしへと差し出してきた。やはりその本には傷一つ付いていなかった。
けれどもその不気味な状態を、最早あたしは恐れることができなかった。もう、恐れる必要などついぞなかった。
だって、だってたった今、彼が口にした情報というのは、あたしのこれまでの認識を丸ごとひっくり返すだけの強大な力を持っていたのだから!

「それ、あたしでもなれる?」

脳を、作り変えることができる。
そのおぞましい技術は、物語や映画の中ではなく、現実のものとして存在している。その成功例と、あたしは今こうして会話をしている。
「他者になる」というその夢物語は、SFは、ファンタジーは、けれども最早「概念」の枠から飛び出し、「現実」のものとなっている。

現実は、あたしは、敗北などしていなかったのだ!
現実は、概念に勝利していたのだ!
彼の存在が、彼の言葉が、それを証明してくれたのだ!

「あたしの記憶を有した誰かを、あたしの身体の中に作れる?」

その「誰か」に、彼はすぐ思い至ったらしい。普段は長いワカメに隠れている赤い眼球が、膝を折った今の体勢でははっきりと見えた。
その赤は大きく見開かれていた。いつも仏頂面を貫き続けてきた彼の、「呆れ」以外の感情らしい感情を、あたしは初めて目撃した。

この目の中に「ハジメ」がいる。あたしの知らない人物、「イズル」を誰よりも希った人物が、記憶だけをその身に委ねて眠っている。
なんて素晴らしいことだろうと思った。一瞬にして開かれた輝かしい可能性にあたしの心臓は高鳴っていた。

「……貴方はそうまでして、その人を生かしたいのですか」

あたしはその問いには答えなかった。代わりに目を思いっきり細めて笑ってやった。
眩しいのだということにしておこうと思った。夕陽があたしの目を刺した、その痛みに目を開けていられなくなったのだということにしてやった。
イズルは怪訝そうに眉を下げたまま、そうしたあたしの不格好な誤魔化しを沈黙で許した。


「ハジメが羨ましい。あんたの記憶の中にずっとずっと生き続けられる、その男が」


もしあたしが「ハジメ」になれたなら。
あたしの身体ごと、あの夢見心地なめでたい親友を、現実に引き戻すことができたなら!

「貴方がその優秀な才能に似合わない歪みを抱えていることは理解しました」

「その「歪み」によって造られたあんたに言われたところで、痛くも痒くもないけれどね」

あたしの心は現実の勝利に、「あたし」の勝利に震えていた。そのことに、あたしはすっかり恍惚としていた。
だから今の彼にどのような棘を浴びせられようとも、あたしの心には傷一つ付かないのだ。
イズルという成功例が、概念を超えた現実の姿があたしの目の前に在る限り、あたしの勝利が揺らぐことは最早在り得ないのだと分かってしまったからだ。

「僕は貴方を本科へと勧誘するために、昼休みか放課後、貴方のところへ訪れることが認められています。この時間が、学園のために生きる僕に与えられた唯一の自由です」

「!」

「貴方が望まずとも、僕は明日も此処へ来ます。ですからもう、その本を落とす必要はありません」

そしてどうやら、そんなあたしにとって都合の良い時間は、もう少し続いてくれるようだ。

2019.7.10
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