B13-1101

それは、同じ人の喉から零れ出たとは思えない程に、平坦で、仄暗くて、無機質な音であった。おおよそ人らしいとは呼べそうにない声であった。
けれどもあたしはその声の主が、あたしのよく知る「人」であると確信していた。けれどもその人がこの場にもう現れるはずがないことだって、理解していた。
にもかかわらず、彼は先程までの震えをぴたりと止めて、苦しそうな表情もすっかり消し去ってしまって、
まるでこの教室に流れる時間ごと飲み込むかのように、「今」という一瞬を支配しているかのように、ただ平然とそこに在る。
あたしを掴む腕の強さだけは全く緩めないままに、その赤い眼球が真っ直ぐにあたしを、見ている。

いるはずのない相手が見える。聞くことの叶わないはずの声が聞こえる。あたしを「貴方」と呼び、自らを「僕」と呼ぶ人物が、此処にいる。

これは「ハジメ」ではない。このような出来過ぎた奇跡を起こせるのは、あいつしかいない。

「いつまで夢を見ているつもりです? しっかりしなさい、香菜

これは叱責だ、とすぐに分かった。
今のあたしではなく、過去のあたしが叱責されているのだと分かってしまった。
イズルはあれから何年もの時を経て、あたしの浅はかで軽率な狂気が「間違っていた」ことを、自らの消滅と、それによるあたしの悲しみとで証明しようとしているのだ。

『それ、あたしでもなれる?』
『あたしの記憶を有した誰かを、あたしの身体の中に作れる?』

あたしは、こんな存在になろうとしていた。こんなにも悲しい存在に、あたしの親友を巻き込んでまでなろうとしていた。
あたしは、今のイズルのように、あの親友の中に消えてしまおうとしていた。
あたしは、今のあたしが抱いているのと同じ苦しみを、あたしを知る人に叩き付けようとしていた!

あたしは思い知らされている。自らがかつて振りかざした狂気の罪深さを、これ以上ない方法で思い知らされている。
彼の叱責は、その方法も手段も強度も、超高校級らしい完璧さを孕んでいて、その隙の無さはいっそ憎らしい程で、ああ、ああ本当に彼だと、思えてしまって。

「貴方は、貴方のまま生き長らえてくれるだけでよかったのです。だから、僕のようなものになりたいなどと、もう思わないでください」

淡々と、台本を読むかのように紡がれるその音が懐かしくて、あたしは彼の言葉を脳内で咀嚼することもおざなりにして、ただひたすらに「イズル」と彼の名を呼んだ。
イズル、イズルと繰り返した。小さな子供のように何度も呼んだ。彼は律儀にその都度「はい」「どうしました」「ちゃんと僕ですよ」と答えた。
それがどうしようもなく嬉しくて、おかしくて、泣きながら弾けるように笑った。その弾みで、あたしの塩辛い水が彼の赤い眼球に降った。
異物が触れたことにより彼の目は反射的な瞬きを素早く繰り返し、そして「いつものように」顔を歪めた。

「貴方なら分かってくれますよね。この体は本来ハジメのものであること、僕がいつまでも主導権を握れるものではないこと、これが正しい形であることを」

あたしの水を引き取ってその白い肌につうと流す彼は、まるで泣いているかのように見えた。
勿論、それはあたしの泣いた跡であって彼のものではない。彼はおそらく、泣いていない。
それでもなんだか、そこに涙の痕というオプションが付加されてしまうと、彼がにわかに人間らしい様相を呈してきたように思われて、あたしはその面白さに笑った。

「イズル、少し変わった?」

「……そうかもしれません。僕がハジメに才能を渡しているように、ハジメも僕に感情の類を教えてくれていますから」

それを聞いて、あたしがどれだけ安心したかは想像に難くないだろう。
額縁の中に埋め込まれた2つのピースの図が再びあたしの脳裏に蘇る。黒と白のピースはカタカタと音を鳴らしながら領域を組み替えていく。
けれども黒い領域も白い領域も、面積に換算すればほぼ同じくらいのものであるように思われた。
イズルが一方的に全部を放棄し譲り渡した訳ではなかったのだ。彼等は長い時を経て、今、対等な関係として一つの身体に生きられるようになったのだ。

それが分かっただけでも、十分だった。
そしてイズルの口から「これが正しい形である」と言われてしまっては、その理解を彼の言葉で請われてしまえば、もう、どうしようもなかった。

「随分、ハジメと仲良くしているじゃない。いつでも話ができるところに誰かがいてくれるなんて、やっぱり羨ましいわ」

仄めかすような言動をしてみせれば、その「誰か」に、やはり彼はすぐに思い至ったようであった。
「大丈夫ですよ」だなんて、以前の彼なら絶対に口にしなかった言葉を操ってくる彼は、もう既に多くのことをハジメから教わっている身であるのかもしれなかった。

「貴方の親友は目覚めます。僕がそうします。ハジメに渡した僕の才能で必ず、彼女を現実に連れ戻します。今度は僕が、貴方の心を守ります」

それは頼もしいことだ、と思った。同時に、なんだかとても変だ、とも思った。
「変だわ」と後者の想いだけ口にすれば、彼は赤い眼球をすっと細めて「何がです」と尋ねてきた。
このような違和感を抱くこと自体、おこがましいことであるのかもしれなかった。
けれども、イズルが目の前にいるという出来過ぎた奇跡の前には、ちょっとしたあたしの異常な言葉くらい、許されてしまうのではないかと思えて、あたしは口を開いた。

「だって「今度は僕が」なんて……まるで、あたしがあんたの心を守れていたみたい。今の今まで、あたしの存在が本当に、あんたの希望になれていたような、そんな……」

すると彼は間髪入れずに「それは違いますね」と返してきた。
ああ成る程、それじゃあこれはただのあたしの思い上がりだったのだと納得し、頬に付いた塩水を乱暴に拭いながら「なあんだ」と苦笑した。
彼もあたしの苦笑を真似るように顔を歪めながら、けれども次の言葉でいつかのようにあたしを呪ってくる。

「今の今まで、に限ったことではないということです。
今までもこれからも、僕にとっての貴方の存在が意味するところは変わりません。何故なら希望とは、ただそこに在るだけで価値のあるものだから」

あたしの希望、あたしがイズルに見出した希望というものは、たとえば苗木のように万人に降り注ぐタイプの強大で慈悲深いものでは決してなかった。
その希望めいたものは、ただあたし一人だけのために展開され、あたしの胸の奥底でずっとずっと輝き続けていた。たったそれだけの代物だったのだ。
イズルの希望、イズルがあたしに見出した希望というものもおそらく、その類のものであるはずだ。
彼はあたしに何か素晴らしいことを為すことを期待している訳ではない。何をしても全て彼に劣るようなあたしが、行為によって彼の希望となれるはずがない。
だからきっと、イズルのそれだってイズル一人だけのために展開され、輝くものだ。それだけの些末で矮小で、ツマラナイ代物なのだ。


でも、そのツマラナイ希望にあたしもイズルも生かされている。あたし達はきっとそうやってこれからも、互いを面白おかしく生かし合っていく。


「この奇跡みたいなもの、次は……いつ起きるの」

もう二度と会えないのではないかと思った。これが最後でも全く不思議はなかった。
それが「正しい形」だと彼が言うなら、それも仕方のないことなのだろうと覚悟する準備だって既に出来ていた。
けれども彼は「いつでも」などと、かつての彼の万能性を思い出させるような言い方で、あたしの気構えを呆気なく崩し、そんな覚悟だと不要だと言わんばかりに顔を歪めた。
「奇跡を作る才能くらい持っていますから」なんて、少しばかり得意気な声で付け足してくる。その声音も、きっとハジメに教わったものなのだろう。

「次からはもう少し穏便な方法で現れることができるよう、策を練っておきます。貴方はただ、いつものようにあの本を落とせばいい」

親友から借りっぱなしになっているあの洋書。随分と汚れてしまったけれど、今も尚持ち歩いているその本。
あれを落とせば、また彼が拾ってくれる。あたしはその確信を知っている。あたしに、あたし達にひどく馴染みのある確信、あたし達の始まりを示す懐かしい確信だ。

また、始まる。あたしが本を落とせば、この奇跡はいつだって起こる。

「随分と、都合の良い奇跡ね」

「けれど、貴方は好きでしょう? こういうオモシロイことが」

あたしは見抜かれたことを喜ぶように笑い、彼の左目へと手を伸べた。
赤い眼球の上からフタをするように手の平で覆ってしまえば、その下で彼の睫毛が動き、瞳が閉じられる気配を拾うことができた。
しばらくして手を目元から外せば、あの赤はしっかりと目蓋の裏に隠されてしまっていた。
その白い肌、以前は黒いワカメに遮られてあまり見えなかった頬の部分へと手を動かして涙の跡を少し乱暴に拭えば、彼は顔を少しだけ傾けてきた。
あたしの手の平に、彼の頬がすり寄せられた。

「……」

それは幼い子供が母親の手に甘えるときの仕草のようで、それはかつての彼が厭った「無益で無駄なこと」の象徴のように思われて、あたしはまた少しだけ、泣いてしまった。

『貴方は、貴方にとって無益で無駄なことばかりで構成されているように見えます。けれども貴方自身は、そうした遠回りをいたく気に入っているのでしょうね』
いつか、イズルと一緒に「遠回り」ができるようになる日が来るのだろうか。
そんな日を夢見ながら、あたしはしばらく手をそのままにしていた。
彼が「ハジメ」を起こすまでに手を離さなければと思いながら、随分と長い間、その白い頬を手の平で受け止め続けていたのだった。

そうしてあたしがやっとのことで手を離してすぐ、呻き声と共にその体はハジメとして起き上がった。
彼は自分の身体に何が起こったのか、まだ完全に把握できていなかったのだろうけれど、
あたしが困ったように笑いながら「おかえり」と告げると、彼はある程度のことを把握したらしく「ただいま」とイズルよりもずっと上手な笑顔で答えてくれた。

2019.7.22
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