B12-1100

あたしが予備学科の教室でイズルに会っていたとき、その中にはハジメの「情報」があった。それは、彼の身体がヒナタハジメとして過ごしてきた頃の記憶だ。
おそらく万能の才を持つ人間を作る過程で、その記憶の温度は不要なものとして失われてしまっていたのだろう。
だからこそ、イズルはハジメの記憶をただのデータとして機械的に処理していた。
『ハジメがそのように望んだから』という、イズル自身の存在意義を示すときに何度か繰り返されたあの言葉もまた、彼にしてみれば一つの情報でしかなかったのかもしれない。

そして今、この本科の教室であたしが対峙している彼、髪の毛を短く切り、赤い目と金色の目を一つずつ宿したこの男の中には、
カムクライズルとして過ごしてきた頃の記憶が、一つ残らず埋め込まれている。
加えて、ハジメの心はひどく人間らしいものだから、その記憶は記憶らしい温度を保ちながら、彼の左目に宿っている。
彼はイズルの記憶から、イズルさえ自覚していなかった感情の揺らぎや想いの類を引き出すことが叶っている。
『お前に会いたいとイズルが言ったから』と告げたあたりからして、あるいはこの青年は、本当にイズルという人格が自分の中に「生きている」とさえ思っているのかもしれない。

「イズルは喜んでいるよ。お前に会えたことをとても喜んでいる」

あたしは、混乱していた。当然だ。だってイズルが「喜んでいる」ところなど想像も付かなかったからだ。
彼はいつだって「ツマラナイ」と呟く人間で、たまに「オモシロイ」と口にすることはあったけれど、それは興味とか関心とかそういった類のささやかなものであったはずで、
「嬉しい」とか「楽しい」とか、そういうものを感じ取れたり使いこなせたりするような人間では決してなかったはずだ。
これは、本当にイズルの言葉だろうか。人並みの真心を持った目の前の人物、ハジメの、優しい嘘なのではないだろうか。

「あんたはイズルの記憶を持っているだけで、今も彼と双方向の遣り取りをしているわけじゃないんでしょう」

けれども混乱や猜疑心、などという弱みに似たものを他者の前で晒したくはなかったので、
その混乱を憤怒に置き換えて「どうしてそんなことがあんたに分かるの」と、語気を強めて尋ねてやった。
それなりに威圧感を込めた尋ね方をしたつもりだったのだけれど、彼は臆することなく、むしろ尋ねられたことを喜ぶように「分かるさ」と断言してきた。

「俺は普通の人間だから、人の気持ちを察するとか推し量るとか、そういう、普通の奴がやっていることくらいは当たり前にできる」

普通ではないのがイズルで、普通なのがハジメ。
才能を余すところなく持ち合わせているのがイズルで、才能を一つも持たないのがハジメ。
感情を一つも持たないのがイズルで、感情を余すところなく持ち合わせているのがハジメ。
表情を見せないのがイズルで、豊かに表情を変えるのがハジメ。

大きな額縁の枠内に、大きなピースが二つだけ埋め込まれたものを見ているみたいだった。

イズルにないものをハジメが持っていて、ハジメが持てなかったものをイズルが手に入れた。
そうして二人で一つの形を取った彼等は本当に、隙のない最強の存在として相応しいのではないかとさえ思われたのだ。
けれども、そのような都合の良いことが起こるはずがない。だって今、目の前にいるのはハジメの方だ。
ハジメは、彼は普通の人間で、才能など微塵も持ち合わせていないはずで、本来の彼は「予備学科」の生徒であるはずで。

「それじゃああんたは、あたしを妬んでいた頃の予備学科の時代に戻っているってこと?
あんたの望みや希望のために脳まで譲り渡して、イズルまで造り出したのに、あんたは今更それを全部捨ててしまったっていうの?」

「捨ててなんかないさ。イズルは此処にいる。それに才能だって、イズルが貸してくれているんだ」

「……貸している?」

「今の俺は、必要に応じて与えられたものを使っているだけだ。全ての才能を一度に送り込まれると俺の精神はもたない。それを、あいつは分かっているんだろうな」

ガチャリと、パズルのピースが形を変える音がした。
それは、枠の中をほぼ等しい面積で埋めていたはずの双方のパズルのうち、
黒いピースがぐいとその面積を縮めて、白いピースに領域を明け渡したかのような機械的な動きにより生じた音だった。
すなわち「イズルがハジメに存在を譲ったことを示す音」だった。
この青年の身体の中には、もう「イズル」と呼べそうなものはほとんど残っていないのだと、あたしはこの瞬間に思い知らされてしまったのだった。

だって、そうでしょう。
数多の才能を持つ者として造られた彼が、その才能をこの青年に譲り渡してしまっているのだ。
では彼には、イズルには何が残っているというのだろう?

でもこの青年は「貸してくれている」「与えられた」と言った。つまりハジメが奪ったのではなく、イズルが自ら譲り渡している、ということになる。
……まさか、これがイズルの選択だというのだろうか。
イズルの才能を全て、人間らしい心を持ったハジメに譲り渡す。それが彼の見つけた答えであり、彼の信じた希望だったのだろうか。
イズルにとっては、彼が随意的に動かせる体も、彼が司ることのできる脳神経も、彼が見ることのできるこの世界も、全て、ツマラナイものでしかなかったのだろうか。
だから彼はこんなにも呆気なく、彼の本質とも呼べそうな才能を譲り渡して、今、こうして沈黙しているというのだろうか。

「イズルはずっと信じていたよ。お前が、お前という希望がいつか俺達を救ってくれるって。お前なら……香菜ならきっとオモシロイ希望になれるはずだって」

「気休めを言わないで」

「気休めじゃないさ、お前だって知っているだろう。イズルは嘘を言うような人間じゃない。あれはあいつの本心だった」

「じゃあどうして此処にイズルはいないの!」

酷いことを言っているのは分かっていた。ごめんなさいと謝るべきであることだって分かっていた。でもできなかった。
目の前の青年に対してではない、悲しみや憤りが、溢れて零れて流れ出て、止まらなかった。
どうしてこいつの身体は一つしかないのだろう。どうしてイズルはハジメの身体に生まれてしまったのだろう。
人格を新しく創れる力が希望ヶ峰学園にあったのなら、どうして人の器ごと作ってくれなかったのだろう。そうすれば、このような思いをすることもなかったのに。

今、あたしは彼等がそれぞれ一つずつの身体を持つことを望んでいる。そんなこと、叶うはずがないのに、そのようなことを夢心地で願ってしまう。
……皮肉な話だ。あたしは数年前、一つの身体に宿った二つの人格を知り、その事象にそれはそれは憧れていたというのに。
あたしはそうした、悲しいものを愛する狂人に過ぎなかったというのに。

「やめて、もう何も言わないで! あんたにそんなことを言われたってちっとも嬉しくないわ! あたしはイズルに会いに来たのよ。イズルに、会うために……」

あたしは悲しんでいる。
イズルがイズルであるためのほとんどをハジメに譲り渡し、ほぼ「ハジメ」と言ってもいい状態になったことを許しているこの状況を、とても、とても悲しんでいる。

ハジメがイズルになってしまった時にも、こうしてあたしのように悲しんだ人間がいたのだろうか。ハジメを返してと、泣き叫んだ人間が大勢いたのだろうか。
けれどもそんなの知ったことではない。あたしは今、悲しんでいるのだ。イズルがハジメになったことに悲しんでいるのだ。
イズルを返してと、泣き叫びたい衝動を持て余して、頭がおかしくなってしまいそうなのだ。

「それじゃあもう、あたしは生きなくていいんでしょう」

「え、な、何を言っているんだ」

「あたしに希望を見ていたはずのイズルはもういない。イズルは生きることをやめた。それじゃああたしだって、諦めてもいいはずよね。生きること、やめたっていいはずよね。
やっぱり、この程度のものだったのよ。あたしの希望なんて、誰一人として救うことのできないツマラナイものだったんだわ!」

ごめんなさい、と思った。酷いことを言ってごめんなさい、と思った。思うだけで声には出せなかった。あたしは駄々を捏ねるばかりだった。
だって此処にはイズルがいない。あたしの希望はもう現れない。
そんな場所、こんな悲しいところにはもう一秒もいたくなかった。あたしは床を蹴って駆け出した。
この荒んだ世界に生きるあたしの脚力はそれなりに鍛えられていたため、引き留めようと伸ばされた彼の手をすり抜けることだって、容易にできた。

「おい待て、待ってくれ!」

「さようなら、もう二度とあんたには」

バタン、という大きな音があたしの言葉を遮った。驚いて振り返ると、彼が教室の床に倒れ伏していた。
その体勢のままに、彼は頭を押さえて苦しそうに声を絞っている。その手や足や唇が、尋常でない険しさで震えている。
唐突に発生したこの異様な状況は、あたしの憤りや悲しみを一瞬にして吹き飛ばした。
イズルに会えないとか、ハジメに二度と会いたくないとか、そのようなことの全てが霧散した。どう考えても、今は憤ったり悲しんだりしている場合ではなかったのだ。

あたしは慌てて駆け寄り、膝を折って「どうしたの」と大声で尋ねた。
医学の知識は申し訳程度にしか持ち合わせていない。このような症状への対処など分かるはずもない。
あたしは焦燥と混乱に身を任せたまま、大きく震える肩を掴んで、声を張り上げて、彼の名前を呼ぼうとした。
「ハジメ」……それが、この青年の名前であるはずだった。憤りや悲しみを吹き飛ばされた今、あたしはこの人をその名前で呼ぶことを躊躇わなかった。

けれどもその瞬間、あたしの腕を彼が掴んだ。
あたしの言葉を遮るように、この腕を折らんとするかのように、何処にも逃げてくれるなと引き留めるように、彼はそのまま、離そうとはしなかった。
苦しそうに寄せられた眉間のしわ、それがすっと収まり、頭を押さえていた手がすっと右目を塞ぐように下りてきた。
塞がれていない方の目、白い肌に埋め込まれた赤い眼球がそっと現れて、そこからいつかのようにすっと細められて、そして。

「貴方、が……」

「!」

「貴方がなりたがっていたもののおぞましさが、これでようやく分かったでしょう」

2019.7.22
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