B11-1011

その青年の顔には、色の違う二つの眼球が埋め込まれていた。そのうちの一つをあたしはとてもよく知っていた。あたしは過去にその色を幾度となく睨み付けていた。
あたしはその瞬間に、この青年が誰なのか、分かってしまった。
この青年の中に誰がいるのかも、分かってしまった。

「俺は日向創、希望ヶ峰学園の予備学科にいた生徒だ。お前に会いたいとイズルが言ったから、俺は君を呼んだんだ」

もう、イズルに会うことが叶わないのだということも、分かってしまった。

あたしが荷物をまとめて学園を出てすぐに、生徒会メンバー13人が虐殺されたらしい。
その虐殺を皮切りに、世界はあっという間に物騒な様相を呈していった。
相次ぐ不審死、予備学科の大量自殺、絶望とかいうものを盾に暴れ回り、犯罪を正義のように起こして回る人、人、人……。

タイミングがあまりにも出来過ぎていただけに、この騒動はイズルが起こしたもので、この絶望の中心には彼が尊大に座っているものとばかり思っていたのだけれど、
あたしが学園から逃げ出した先で聞いたのは「エノシマジュンコ」という78期生の女子高生の名前ばかりだった。

彼は何をしているのだろう。まさかこれ程の騒動が起きているというのに、何もせずただ見ているだけなのだろうか。見定めている、だけなのだろうか。
……まあ、それでもいいかと思った。むしろいい傾向なのではないか、とも思った。
それが、学園に指示された行為ではなく彼の意思で為したものであるなら、それが「何もしない」という無益で無駄なものであったとしても、構わないのではないかと思えた。
あたしはただ「あの騒動の渦中から事前に、イズルの手によって逃がされた」という事実を背負って、懸命に必死に、生きるだけのことであった。

「エノシマジュンコ」という「超高校級の絶望」を中心に発生した「死に至る病」は、すぐにこの国中、いや世界中に広まった。

「才能」なんてものが全く役に立たない時代の中へ、あたしは身一つで放り出されてしまったのだ。
その時代は苛烈を極め、あたしは何度か死の危険に遭った。
目まぐるしく変わっていく世界、悪化の一途を辿るこの現実の中で、あたしは両親も、飼っていた犬も、住んでいた家も、失った。
奪われた平穏と現実を侵食する不穏は、人を絶望せしめるには十分な威力を持っていた、はずだ。
けれどもあたしは、死のうと思ったことも、死にたいと願ったこともなかった。だってあたしは、生きなければいけなかったからだ。

『貴方は僕の希望です』『ただ生き長らえてくれれば、それで構いません』
何もかもを失ったあたしにとって、あの約束だけが生きるよすがとなっていたのだ。

自分の価値、自分の生きる意味を他者に委ねるやり方が大嫌いだった。
そんなことをするから人は簡単に自滅するのだと、あたしはそんな風には絶対にならないと、そう思っていた。
現に大切な人や大切な場所を失った人たちのほとんどは、呆気なく絶望に落ちていき、自ら死ぬか、死を与える側の人間になるかという、情けない二極化を辿っていたのだ。
そうした、あまりにも多くの人の自滅を目の当たりにしながらも、あたしは正気を手放すことなくこうして生き続けることができたのだった。

勿論あたしは、血も涙もない人間ではない。
両親も、飼っていた犬も、住んでいた家だって、あたしは愛していた。それらを失ったとき、あたしはそれはそれは派手に泣き崩れた。
悲しんで、悲しんで、悲しみ尽くした。けれどもそれだけであった。
悲しすぎるこの喪失にあたしの心は潰れていったけれど、その残忍な喪失に命や正気まで譲り渡してしまうような無様な真似は絶対に晒さなかった。
そのような生き方はまったくもってあたしらしくないと思ったし、あたしはまだ潰れるわけにはいかなかった。
人間という生き物は、どんなに小さく頼りないものであっても、希望と呼べるものがあるうちは死ねないのだと知った。

その希望は、あたしを十数年育ててくれた両親ではなく、同じだけの年月を過ごしたあの家でもなく、何年もの間、妹のように可愛がっていた犬でもなかった。
たった数週間の付き合いである、仏頂面の黒いワカメ。彼の言葉が、彼の祈りが、あたしの生きるよすがとなった。
あたしにはもう、それくらいしか残っていなかったのだ。

そうした絶望の時代が長く続き、あたしも荒んだ生活にすっかり慣れてしまった頃、閉鎖されていた希望ヶ峰学園の扉が開かれ、なんと、本科の生き残り達が姿を現した。
風の噂で聞いただけだったけれど、そこに「黒いワカメ」らしき人物はいなかったようである。

彼は今、何処にいるのだろう。
神の如き力を植え付けられた彼による、あの学園への、この世界への断罪は、何処かで行われているのだろうか。
『希望と絶望、どちらが僕にとって予測がつかないのか』を、彼は果たして確かめることができたのだろうか。
……もし、この荒んだ世界の中で彼が既に結論を下しているのなら、是非会って、彼の答えを聞いてみたいと思った。どうだった? と、尋ねてみたいと思った。
少しは「オモシロイ」ことが言えるようになっているのだろうかと、再会の目途なんてちっとも立っていないのに、そのようなことを考えてそれを希望の灯とした。

けれどもそうやって灯し続けてきた希望は、たった一枚のポスターによって呆気なく掻き消えてしまった。

「……」

本科の生き残りが、世界の修復のために「未来機関」という場所に入ったことは知っていた。
そこでの活動の過程で、未だに世界で暗躍を続けていた「絶望の残党」と呼ばれる連中の「保護」に成功したことも、町の噂で聞き知っていた。
未来機関は絶望とやらを目の敵にしているようなところがあったから、きっとただでは済まないのだろうな、とは、なんとなく予想していたのだった。
その「絶望の残党」の顔写真が、一枚の大きなポスターの形を取って駅に貼られていた。

「……カムクラ、イズル」

15人の顔が並ぶそのポスターの右下、既視感のある赤い眼球が真っ直ぐにこちらを見ていた。
そのすぐ上、無機質なゴシック体で書かれた彼の本名を、あたしは震える声で一度だけ、唱えた。
ストン、と肩の力が抜ける音がした。それは彼が、遊園地を楽しもうとするあたしに悉く横槍を入れてきたときの音に似ていた。
がっくりと肩を落とすときの音、けれどもあの時ほど愉快でも警戒でもない、あまりにも虚しいその音。
その音にはきっと「絶望」という名前が付いていた。

超高校級の絶望とやらがこの世界を掻き乱して数年。あたしはようやく、絶望というものの本当の意味を知ることとなった。

その絶望は、彼が「絶望の残党」のポスターにいたことに対するものではない。
絶望を憎む未来機関、そこに捕えられた連中がどのような処分を受けるのか、という、あまりにも分かり切った予測を立ててしまったことに対するものであった。

あんまりだ、と思った。ふざけるな、とも思えてしまった。
だってこいつは、間抜けにも捕らえられてしまっているではないか。
こんなあたしに希望を見ておきながら、あたしに生きることを望んでおきながら、あたしよりも先に死んでしまっているではないか!

……ただ、このポスターを見ても、あたしは「彼が絶望に堕ちた」「彼がこの世界を壊した」「彼があたしの大事な人達を殺した」などとは、全く考えていなかった。
過去の彼に執着するみっともない女の妄言だ、と思ってくれて構わないのだけれど、
彼は希望と絶望を「見定めて」「裁く」側にあり、その対象に飲まれて我を忘れてしまえる程、人間らしい人間には最後までなれなかった、という風にあたしは認識していたのだ。

「ハジメが望んだから」彼は生まれた。「学園の需要により」彼はあのように造られた。
ファンタジーやSFの類も青ざめる程に完璧な「超高校級の希望」であった彼、その神めいた存在は、人の憧憬、嫉妬、欲望、好奇心……そういったものの暴走に罰を下した。
人のどうしようもない心によって生まれてしまった、心を持たないその存在は、絶望の影に隠れて、ずっと世界を裁いてきたのだ。
やはり人間は、彼という恐ろしい力を持った神を使役できるほどに賢い存在ではなかったらしい。
その「裁き」の煽りをあたしの大事な人達が食らったことに関してはやはり憤らざるを得なかったけれど、それでも、本当の罪は彼にはないはずだと思っていた。

そして、それくらいご立派な彼のことだから、あたし如きが生き長らえているのに彼の方が先に死んでしまうなど、在り得ない、とも考えていたのだ。
だから世界がこんな風になってしまっても、あたしの知っている、あたしを知っている人間が皆いなくなろうとも、彼は、イズルだけは生きていると信じて、疑わなかった。
あたしの希望はそこまで脆くないのだと、あたしは頑なに信じていた。

けれども、いくら信じようとも情報が全てである。
彼は捕らえられた。絶望の残党として、絶望を根絶する崇高なお役目を持った未来機関の手に、渡ってしまった。
彼はもういない。彼は殺された。彼は志半ばにして、死んだ。

あたしは泣いた。ポスターの前に膝を折って、馬鹿みたいにわんわんと泣いた。
帰る場所を失ったあの日よりも情けなく、妹のように可愛がっていた犬を殺されたときよりも大声で、両親が死んだと分かった瞬間よりも痛烈に、泣いた。
泣いて、泣いて、泣きじゃくって、そうして涙になりそうな水分の類を全て出し切った頃、あたしは立ち上がった。
足を動かせば、歩くことができた。あたしはそのことに驚き、一人笑った。

希望にも絶望にもなれなかった人間。下らない生き方しかできなかった、ツマラナイ人間。
けれどもあたしは生きている。唯一の生きるよすがを失っても尚、あたしの心は砕かれず、あたしの足は動いている。
だからあたしは、とりあえず生きてみようと思った。
生きる理由も死ぬ理由も見つからないまま、この運命とやらの許すままに、どこまでも生き長らえてみようと思ったのだ。

予備学科でいろんなことを万遍なくこなしていたあたしにとって、才能が役に立たない世界というのは案外、悪くないものであった。
それなりに培ってきた技術や知恵を駆使すれば、大抵のトラブルなら乗り越えることができるようになってしまっていた。
そうして1か月、半年、1年と経ち、あたしは……希望というものがなくとも生きていかれてしまうのだということを知った。
知りたくなかったことを、あたしは沢山、知ってしまった。

そうして、このろくでもない世界での生き方を完全に心得たあたしは、あの学園のことをすっかり忘れてしまっていた。
思い出すと、心臓が潰れてしまいそうな程に痛んだから、忘れたということにしておく必要があったのだ。
そうした、あたしの精神状態のために吐いた「忘却」という嘘も、それを訂正する人がいない状況では、吐き続けることができる。
そんな嘘をずっとずっと続けていれば、その嘘は真実の様相さえ呈してしまう。
そういう訳で、あたしは本当に忘れてしまっていたのだ。

「ねえ君、香菜さんだよね」

ナエギマコトに、会うまでは。

2019.7.19
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