(ミナモシティに小さなカフェを構えた女性と、そんな彼女を見守るマツブサの話)
※エピソードデルタのずっと後を想定
あら、今は夕方だったかしら?
そう思ってしまう程に「赤」を纏い過ぎた男性だった。赤いコート、赤いブーツ、赤い眼鏡、赤い髪、……何もかもを夕日に浸したような赤い人だった。
そんな男性が、朝8時、この小さなカフェの前で立っている。
もしかして、開店を待ってくださっていたのかしら。そう思った私は慌ててお辞儀をした。
「おはようございます、お待たせして申し訳ありません」
「いや、時間通りだ。私が早く来てしまっただけなのだから、君が謝る必要などない」
眼鏡をくいと右手で押し上げながら、彼は険しい顔のままに、険しくない言葉を紡ぐ。
入っても?と静かな声音で尋ねる彼を、どうぞと扉を大きく開けて迎え入れた。
では失礼、だなんて大仰な言葉で訪問を告げる、その赤い人の背後には、いつものように青い海が煌めいている。
ミナモシティの外れに建つこのカフェからは、海がとても綺麗に見えるのだ。
今日は特に綺麗だなあ、と思った。きっとこの人が来たからだ。いつもの青を遮るように真っ赤な彼がやって来たから、海がより一層青く見えているのだ。
お煙草は吸われますか?いや、吸わない。カウンターに座っても?はい、ではこちらの席にお掛けください。モーニングのメニューはこちらになります。
もう飽きる程に繰り返された決まり文句。けれどないがしろにすることは許されない。彼が此処に来るのは初めてのことなのだから、ありったけの誠意をもって、お迎えしたい。
……勿論、やって来るお客さん、全員の顔を覚えている訳ではない。けれどこの男性は「初めて」だと確信していた。
だってこんなにも赤を纏い過ぎた人、一度見たらきっと忘れられないだろうから。
「此処のエスプレッソが美味しいと聞いている」
海の音が聞こえた気がした。荒波のように打ち寄せてきたその静かな言葉に、私は驚き、狼狽えた。
食事や軽食を済ませてから、お会計の折に、「美味しかったです」「とてもくつろげる時間でした」とお褒めの言葉を頂くことはこれまでもあったのだけれど、
この赤い人が此処に来たのは初めてで、しかも彼はまだエスプレッソを飲んでいないし、香りだって嗅いでいないし、そもそも私はメニューさえ差し出していないのだ。
そんな状態でいきなり、この店のエスプレッソのハードルをぐいと押し上げる発言を、涼しい顔でやってのけた赤い人のことが、どうにも、おかしく思われたのだ。
「ありがとうございます!」と笑顔でお礼を言うべきだったのかもしれない。
「心を込めて用意させていただきますね」と、期待外れの味であった場合の保険として、誠意を敷いておくべきであったのかもしれない。
こうしたお客様からの誉め言葉に対してどのような言葉を紡ぐべきか、私は心得ていた。そうした場数はある程度、踏んできていたのだ。
だから今回も、そのようにすれば万事、上手くいく筈であった。
「ふふ、弱りましたね。ご期待に応えられるかどうか、自信がありません」
けれど、このようなことを言ってしまった。相応しくない、おかしな言葉を紡いでしまった。
だってこの人はあまりにも赤を纏い過ぎている。この人は涼しい顔をして、この店のエスプレッソのハードルをぐいと押し上げている。
彼は少し、おかしな人だ。海を眩しくさせてくれる、おかしくて楽しい人だ。
だから私も、おかしなことを言いたくなってしまった。クスクスと笑いながらそう告げれば、まるでこの人と、ずっと前から知り合っていたかのような錯覚さえ覚えたのだ。
彼は驚いたように、その四角い眼鏡の奥を見開いた。私は無礼を働いたことへの許しを請うように少しだけ俯いた。
そんな私を見て、彼はふっと肩の力を抜き、咎めるような、呆れたような声音で口を開いた。
「やれやれ、店主がそのような弱気でいては本当に不味くなってしまうだろう。
どんなに小さな組織でも、上に立つ者は常に堂々としていなければいけない。……たとえ、それが君の本音であったとしても、普段は隠しておくべきだ」
「……そうですね、失礼いたしました」
「いや、不快に思った訳ではない。君のその不安は理解するに足るものだからね」
戯言に含ませたささやかな弱音と本音を、彼は息をするように見抜いてみせた。
唖然とする私に、彼は「エスプレッソを」と、解りきった注文の内容を繰り返して、少しだけ得意気に笑った。
かしこまりました、と告げて、私はカウンターの向こうへと足早に歩を進める。後ろで赤い彼と青い海が私を見ていると、解っているから背筋だってぴんと伸びる。
大きく深呼吸をすれば、ふっと彼の笑う気配がした。マッチを擦った後の小箱のように、ささやかな温もりが心臓を撫でた。
期待をかけられること、評価されることは私にとって少し、息苦しい。
そうして期待に応えた者だけが、いい評価を受けた者だけが生き残ることが叶う。そうした世界の理はよくよく解っている。
殊に食品業界というのは、流行り廃りの目まぐるしい分野だ。
このささやかな店を開いた当初は、毎日の売り上げに一喜一憂していた。お客様のちょっとした言葉に舞い上がったり、逆に批判に傷付けられて夜通し泣き明かしたりもした。
……ここは厳しい世界、難しい世界だ。そうした評価と淘汰の場に立つことはとても恐ろしい。
けれどそうした場に身を置くことを願ったのは他でもない自分だ。小さくてもいいから自分の店を持ちたいと、ずっと思っていた。そして数週間前、その願いがようやく叶った。
けれどやはり、恐ろしくなる。弱音を吐くことは許されないと、知っていながらたまに後ろ向きな言葉を零したくなる。誰かに理解を求めたくなる。
『君のその不安は理解するに足るものだからね。』
彼のその言葉は、当時の私にとって衝撃的だった。信じられない、と思えてしまった。
社会を強く生きる大人というものは、このような恐怖など理解せず、そもそも恐怖を抱いたことさえないのだろう、と、本気でそのように考えていたからだ。
「……貴方のような立派な方にも、私のように期待や評価を恐れていた頃がおありだったんですね」
両手を強く握り締め、その「信じられない」という心地を吐き出すようにそう告げれば、何を思ったのか彼は声を上げて笑い始めた。
思わぬ笑い声に驚き、弾かれたように振り返れば、細い体を少し折って、とても楽しそうに喉を鳴らしていた彼と、目が合った。
「君は自分のことを随分と気の小さい人間だと思っているようだが、」と、まだ笑いの引かない口を開いて彼は窘めるように、からかうように、許すように、言葉を紡いだ。
「そうした恐れは誰しも持ち合わせているものだ。恐怖を知らない人間が勝利しているのではない、恐怖に打ち勝った人間が生き残っているだけの話だ。
若くして独立した君もまた、そうした恐怖と戦っている人間なのだろう?恐れから目を背けない、その真面目な精神は君の美徳だ、大事にしなさい」
「……」
エスプレッソの抽出完了を示すブザー音が、膨れ上がった沈黙という名の風船を、針で突くかのように、勢いよく割った。
お待たせしました、と上擦った声で、淹れたてのエスプレッソを差し出せば、彼は小さく頷いてカップを指で摘まみ、「いい香りだ」と息をするように評価を下す。
ひやりと背中が一瞬だけ凍えて、そしてすぐに温かくなる。
私が評価を恐れていることなどこの赤い人には解りきっている筈なのに、それでもそうした「評価」を笑顔で零すのだから、この赤い人は少しばかり、恨めしい。
あまりにも鮮やかな声音で、それでいて平然とした表情で私の背中を押してくれる、そんな彼のことが眩しくて、私はぎゅっと目を細めた。
あの時の眩しさは、今でもよく覚えている。
*
ミナモシティで働く、ちょっと赤い色が好きすぎるだけのおじさんだと思っていたあの人は、マグマ団のリーダーだった。彼はまさしく「上」に立つ人物だったのだ。
そのことを知るまでに、長い時間は掛からなかった。何せ彼はその日から、毎日のようにこの店を訪れるようになったのだ。
開店と同時にやって来るお客様は、彼を置いて他にいない。だから彼は気兼ねなく私に話しかける。私もそんな彼を許している。
会話を3日、4日と重ねるにつれて、お互いのことに関する質問も当然のように、会話の中に現れ始めた。
彼の立場、私の立場が、隔たれているようでその実、とてもよく似ているのだということに気付いてからは、もう、彼に私の心を読まれても驚かなくなった。
仕事が慌ただしく始まる前の、朝の僅かな時間。彼はその貴重な時間を、あろうことか私の店で過ごすことを選んでくれた。
「いい香りだ」「苦さも心地いい」そうした短い言葉での評価を貰えば勿論、舞い上がったし、嬉しかった。ありがとうございます、とお礼を告げる余裕も出てきた。
けれどそうした評価以上に、この男性が肩の力を抜く場所が「此処」であることが喜ばしかった。光栄だ、と心から思えたのだ。
赤い何もかもを纏った優しい常連さんに、私の店が見守られているような気がして、彼が私の働きぶりを見届けてくれているように思われて、どうしようもなく嬉しかったのだ。
「君に頼みがある。明日からこのカップでエスプレッソを出してくれないだろうか?」
ある日、いつものようにやって来た彼は、鞄から少し大きめの箱を取り出し、カウンター越しに私へと差し出した。
「頼み」と言いながら、この渡し方はまるでプレゼントのようだ。
そんなことを思いながら、けれど私は遠慮をすることなく「いいんですか?ありがとうございます!」と、元気よく返事をして、受け取った。
もう、この赤い人に対して遠慮をする必要がなくなっていたのだ。それ程に多く、私はこの人との時間を重ねていた。
時間にして30分程度のものだったけれど、それでも毎日重ねれば、私の中でこの人の来訪は当然のものとなった。当然の、かけがえのない存在となった。
開ければ、おそらくエスプレッソ用のものであると思われる、小さなカップとソーサーが、上品な青色の布に包まれて入っていた。
カップをそっと取り上げれば、側面に青いインクでカビゴンの絵が描かれていた。わっと子供のような歓声を上げて喜ぶ私を、彼は苦笑と共に暫く許してくれていた。
私がカビゴンを好きなことだって、彼は知っている。当然のこと、かけがえのないことだ。
始めて彼にエスプレッソを淹れた時の、「ずっと前から知り合っていたかのような錯覚」は、けれどあれから長い時間をかけて私達の真実になった。
「……でもこれ、貴方が飲むためのものですよね。貴方もカビゴンが好きだったんですか?」
「いや、特にそういう訳ではなかったのだがね、君の好きなポケモンだというから、いつの間にか好きになってしまった」
「え?……あはは、まるで私のことを好きになってくださったような言い方ですね」
え、と彼らしくない声が細い喉から飛び出す。私も同じように声を上げて、赤い彼がいつもとは異なる赤さを呈している様を、呆気に取られてただ、見つめる。
……もしかして、かけがえがないと思っていたのは私だけではなかったのかしら。
そんな風に思いながら、私はカップに視線を落とす。青いカビゴンは私達の動揺など露知らず、白磁の上で気持ちよさそうに眠っている。
2017.1.8
わかみやさん、ハッピーバースデー!