きっと彼には高すぎた

(「君の声音は少しだけ」の続き)

翌日も、彼女は変わらずやって来ていた。近くで彼女がポケモンに指示を出す、高い声音が今日も男のところまで届いていた。
ただ一つ、昨日までと違う点があった。かつて雨宿りに使った大きな木の下に、彼女は自らの鞄やモンスターボールを放置していたのだ。
あんなことを口にした男の、確実に通るであろうこの木の下で、なんと無防備なことをするのかと彼は呆れた。
しかし直ぐに、これは彼女の「ささやかな抗議」であったのだと気付いて、どうしようもなく溜め息を吐きたくなった。

『おじさん、貴方はこの鞄を奪えない。』

彼女らしい、強く真っ直ぐな危うい信頼と、ささやかな挑発が込められたそのメッセージを認め、男は思わず鞄から目を逸らす。
逸らしてから、少女の声のする方へと歩み寄る。彼女は昨日と全く同じ笑顔で「おじさん、こんにちは!」と笑う。男は片手をあげて返事をする。
忠告は一度きりだ。くどく言い聞かせるつもりなど更々なかった。何故なら彼は悪い大人であったからである。そんなことをする「ガラ」ではなかったからである。

「おじさんはコーヒー、好きですか?」

「……好物という訳じゃないがそれなりには飲む。なんだ、自分が飲めないからって俺に押し付けようとしているのか?」

自分のことを、あの頃のように「俺」と呼んだ。「そ、そんなことありませんよ!」と抗議する少女を、くつくつと笑いながらあしらった。
拒んでもこの、愚かで真っ直ぐな少女はこの男の後ろを付いて歩くのだから、仕方ない。仕方のないことだったのだ。

「大方、自動販売機のボタンを押し間違えた、というところだろう」

「どうしてそこまで解るんですか!」

解るさ、俺は悪い大人だからな。そう告げる代わりに笑って少女の髪をわしゃわしゃと乱暴に掻き混ぜた。
彼女は困ったように笑いながら、よりにもよって「Black」と書かれたコーヒーの缶を男に渡した。……成る程、確かに君のような子供ではこれを「美味しそう」とは思えまい。

1か月が過ぎ、2か月が過ぎた。
彼女は毎日のように、男に「ポケモンバトル、してくれないんですか?」と尋ねる。男はそんな彼女の言葉を笑ってあしらいつつ、決まりきった文句を紡ぐ。

「君がもう少し強くなったら相手をしてやろう」

もう少し、とはどれくらいなのか、そもそも男にバトルをするつもりがあるのか。
そうした類の一切を少女は決して尋ねなかった。ただ「絶対ですよ、約束ですよ」とやはり決まりきった言葉で念を押すだけだ。
挨拶と化したその遣り取りに、少女がどういったものを見出していたのかは定かではない。だが少なくとも男にとってそれは、明日を保証するための書類のようなものであった。
少女が高い声でその書類を差し出し、男がくつくつと笑いながらそこへ判を押す。それ以上の意味などある筈もなかった。
彼女が明日も此処へ来るという確信、その遣り取りはその確信を得るためにあった。それ以上の意味など見出しようがなかった。

「おじさんの知り合いですか?」

そんな時間を3か月程過ごした矢先のことだった。……彼女が、男の手帳に貼られた小さな写真を指差してそう尋ねたのは。
そういえばこの子供に話したことはなかったなと、軽い気持ちで男は口を開いた。

「ああ、言っていなかったか?俺の息子だ。これは5歳の頃の写真で、今は……そうだな、君くらいの年になっている筈だ」

そういえば君は幾つなんだ、と尋ねようとして男は顔を上げ、息を飲んだ。
彼女の顔が、真っ青になっていたからである。ひどく恐ろしいものを、信じられないものを見るような目で、彼女は男を、見ていたのである。
「どうしたんだ」と問うより先に、彼女の甲高い声音が「ごめんなさい!」と空気を割いた。シロガネ山が彼女の叫びを反芻した。

「私、何も知らなくて、まさか、だって、……ご、ごめんなさい!」

「おい落ち着け、何をそんなに慌てている」

いつも陽気かつ快活に振る舞っていた少女の、このように錯乱した姿に男は少なからず驚いた。驚いたが、それだけだった。
今の彼には困惑することも、苦悩することも、絶望することも、何もかもが許されていなかった。
何故なら彼女がこんなにも狼狽している理由も、顔を青ざめさせている理由も、みっともなく涙を零しながら「ごめんなさい」と叫ぶ理由も、彼には全く解らなかったからである。
そう、解らなかったのだ。彼女が鞄を引っ掴んで、みっともない顔のままに、相変わらずの甲高い声でそう紡ぐまでは。


「貴方を好きになってしまって、ごめんなさい」


馬鹿げていると思った。ふざけるな、と思えてしまった。
エアームドにひょいと飛び乗り、あっという間に彼女は小さくなっていく。男は声を上げることができなかった。過ぎた驚きと壮絶な呆れが彼の音を奪っていたのだ。
我に返れば、もう、この山の麓には誰もいなかった。男は真に一人であり、ずっと前からそうであったように思われた。

頭を殴られたかのような強烈な喪失感を、男は大きな溜め息と共に吐き出した。

子供は恐ろしい。真っ直ぐで、疑うことを知らないから。己の正義に忠実であるから。ポケモンのことをあまりにも真摯に想うから。
男の捨てた全てを持っており、男の持ち得た全てを欠いているから。

あの子供には、「悪い大人」を訪れるだけの度胸があった。にもかかわらず、自身が「悪い子供」になるだけの覚悟には悉く欠けていたのだ。
君のポケモンを奪うだろうという脅しにも屈しなかった彼女が、しかし男に「息子がいる」という、ささやかな倫理にあまりにも呆気なく屈した。
子供らしい誠意と、子供らしい残酷さを極めた少女だった。彼女は子供であった。男はそれを見落としかけていた。

誠実を貫いた彼女には、男を完全に信頼していた彼女には、この、息子を持つ男を好きになるという不誠実が、どうしても許せなかったのだろう。
解っていた、それは彼女の真っ直ぐな誠意の表れであると心得ていた。

「臆病者め」

それでも男はこう思ってしまった。あの雨の日に始まったこの3か月はただの子供の戯れだったのだと、そうして切り捨てることがどうしてもできなかった。
長く深く息を吐き出せば、ひどく息苦しくなった。喘ぐように酸素を求めて思い切り吸い込めば、その空気の冷たさに体が震えた。
シロガネ山の麓がこんなにも寒い場所であったのだと、男はこの時、初めて知った。
吐き出す息の白さを茫然と眺めながら、男は地面に落ちた少女の足跡をすり潰した。
馬鹿げていると思った。ふざけるな、と思えてしまった。

だって、俺はまだ君と戦っていない。

けれど時は流れる。記憶は薄れる。数年の時を経て、男はあの、残酷を極めた誠意のことを忘れていた。
それが当然のことだと解っていたから、男は薄れる記憶を惜しむことをしなかった。

1年後、似た目をした子供にトージョウの滝で破れた時も、更に数年後、別の土地で同じくらいの年頃の少女と戦った時も、
男はやはり悪い大人のままで、子供の何もかもを恐れる一人の男に過ぎなかった。
彼等の、確かな誠意をもって紡がれる言葉は、どうにも男には甲高いものに思われた。彼等の音は、高すぎるのだ。

そうした子供の誠実な音さえも忘れかけた頃、男は思い付きで立ち寄ったポケモンリーグの入り口で、あまりにも懐かしい姿を目にすることとなる。
ポケモンセンターの脇にある休憩室に人だかりが出来ていた。大きなテレビの液晶画面が、チャンピオンの間を煌々と映し出していた。

『チャンピオンの間に挑戦者が現れました!ポケモンリーグの王座を懸けた戦いが今、始まろうとしています!』

帽子を目深に被った少女は、ポケットからボールを取り出して勢いよく投げる。
現れた赤い虫ポケモンにトレーナーがざわめく。男は瞬きを忘れ、息を飲む。

ブラウン管の向こうで彼女は帽子を脱いだ。黒い髪はあの頃のままの長さを保っていた。
『よろしくお願いします!』と張り上げたその声は、男の記憶にあるよりもずっと低く、落ち着いたもので、
けれどその凛とした響きと誠意はあの頃と変わらぬまま、真っ直ぐなままでそこに在った。
彼女の大きく見開いた琥珀色の目が、相棒の虫ポケモンを映し、炎のように赤く煌めいた。

忘れていた筈の何もかもが、驚く程の鮮やかさで男の目に蘇った。

『バトルを始める前に、君の決意を聞こう。君は俺に勝って、何をしたい?』

『……私は強くなりたい、強くなった私を見てもらいたい!此処で勝てば、私に気付いてくれると信じています。今も、見てくれていると信じています!』

あの頃と変わらぬ、揺るぎなく危うい信頼の形がそこにあった。
テレビの液晶画面に両手を叩きつけたくなるような、そうした暴力的な焦燥をやっとのことで飲み込んで、男は両手を強く握り締めた。瞬きすら億劫であった。
見逃すものかと思った。彼女の指示、ポケモンの動き、技のスピードと威力、その目の輝きさえも、一つたりとも見落とすまいと、身を乗り出して食い入るように見つめた。

レディアンは、……決して「強く」ない筈のそのポケモンは、しかし物凄いスピードでフィールドを滑空する。その異様な動きに周りがざわめく。男は驚かない。
彼女がこの激闘の末に輝かしい栄光を手にすることも、満面の笑顔で殿堂入りを果たすことも、それでも更に「強さ」を目指すであろうことも、彼は知っていた。解っていたのだ。

此処で彼女を待とう、と思った。チャンピオンに勝利し、殿堂入りを果たし、大勢の称賛を浴びつつリーグを抜け出てくるであろう彼女を、待ちたかった。
祝福の言葉をかけるためでも、ポケモンバトルをするためでもなく、ただ、少し低くなったあの声音を聞くために、待とうと思ったのだ。
何故なら彼は悪い大人だったからである。彼はただ、驚きに目を見開くであろう彼女の前で、「見ていたぞ」と、悪く微笑むことができればそれだけでよかったからである。

強烈な何かが男の胸を焦がしていた。面白い、と思った。
だって、俺はまだ君の名前さえ知らない。

2016.11.2

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